神の軍隊に与えられる喜びと平和[フィリピ4:1-9]

フィリピの信徒への手紙
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教会は神の軍隊です。神の軍隊は信仰を守り抜くために、神から喜びと平和が与えられま(`・ω・)ゞ

神の軍隊に与えられる喜びと平和[フィリピ4:1-9]

神の軍隊に与えられる喜びと平和[フィリピ4:1-9]

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【ノート】
パウロはフィリピの信徒たちを愛し、慕っていた。フィリピの信徒たちの存在は大きな喜びであり、勝利の冠だった。どの伝道者にとっても自分が救いに導いた人に対してそのように思うだろう。伝道する人とされる人は特別な関係で結ばれることになる。パウロがフィリピの信徒たちに望んでいることは、天国の希望を持ち、主によってしっかり立つこと。しっかり立つというのは原語のギリシャ語では軍隊用語。教会は神の軍隊。それは極端なたとえではない。実際に教会の中には救世軍といって、軍隊式の指揮系統を持つグループもある。

軍隊が運命共同体であるように、教会も運命共同体だ。常に一人が全体に影響を与え、全体が一人に影響を与える。戦いでは、兵士たち一人ひとりが自分の持ち場を守らなければならない。いったん押され始めると、総崩れになってしまう。そこで隊長が指揮下の兵士たちに死守するように、怒号を飛ばすのがこのしっかり立ちなさいだ。私たちが死守するのは信仰だ。信仰を死守することがクリスチャンの人生の勝利条件だ。そしてそれは決して難しいことではない。信仰を死守することは、主によって可能だ。私たちには総司令官である主イエス・キリストが共におられる。主イエス・キリストが負けるはずがない。イエス・キリストの勝利は、イエス・キリストに属する教会の勝利であり、私たちの勝利である。主の勝利を信頼して、私たちはしっかり立つことができる。

そして、軍隊では統制がとれていなければならないように、教会でも統制がとれていなければならない。分裂があったら敵の思うつぼだ。ところが、フィリピの信徒たちの中には確かに分裂があった。2節。エボディアとシンティケは二人とも婦人だ。この二人は3節によると福音のためにパウロと共に戦った人たちだ。婦人の指導者だったのだ。フィリピ教会では、婦人が活躍していた。当時のギリシャ人の社会では、女性は家にいて家事の切り盛りをするのが普通で、社会で活躍する場所というのはほとんどなかった。しかし、マケドニアだけは別で、フィリピでは女性も仕事をして生計を立てることが一般的だったことが碑文によってわかっている。ある碑文では、妻は夫婦の収入の合計から自分と夫のための墓を建てることが書かれていた。そうであれば妻も仕事をしていたはずだ。そして、フィリピ教会はもともと祈りの場所で集まっていた婦人たちを中心に始まった。婦人たちが活躍することは、教会の急成長を支える一つの重要な要素だっただろう。今日の教会も、たいていの場合、男性よりも女性の方が信仰も数もまさっている。フィリピ教会の成功例に倣う必要があるだろう。

婦人たちの活躍は良いとして、そこには婦人たちの確執が存在した。婦人たちの対立がはっきりとわかる大事件がフィリピで起こり、それがパウロの耳にも入った。いったいどんな事件が起きたのかは何も書いていないのでわからない。しかし、何にせよそれは、熱心に奉仕をしていたからこそ発生した事件であり、相手の足りない点を指摘したり、方向性の違いが表面化したりしたことによって起きたのだろう。婦人たちは福音のためにパウロと共に戦っていたのに、いつしか戦いの相手を間違えしまったのだ。私たちは敵を間違えてはならない。クリスチャンは敵を愛することが命じられているが、唯一はっきり敵とみなすべき存在がある。エフェソ6:12。敵は悪霊どもだけ!クリスチャンは相手が自分とはカラーが違ったり、性格が違ったり、能力が違ったりしても、みんな味方だ。

二人の人物の対立、そういう状況が明確になっても、大したことはないと考えて見て見ぬふりをするリーダーもいる。実際フィリピ教会の指導者たちは二人の対立について有効な対処をすることができないでいた。パウロは二人の婦人の確執を小さな問題とはとらえず、教会全体を揺るがしかねない重大問題だと正しく見抜いていた。
ここにパウロの牧会者としての優れた感覚を見ることができる。パウロはなんとかエボディアとシンティケを和解させようとするが、それはパウロの力ではできないし、当事者同士でも不可能なことだった。もしパウロが自分の力に頼るなら問題は逆に大きくなってしまうだろう。和解はただ主においてのみ可能だ。クリスチャンは主においてのみ可能だ。二人には同じ総司令官イエス・キリストがいる。二人の対立は軍規違反だ。同じ主の十字架を見上げ同じ主の命令を聞くことがクリスチャンの思いを一つにさせる。

パウロはさらに、教会の主要な人物を総動員して和解にあたらせる。教会を開拓したパウロの願いは二人の婦人たちを多少動かすだろうが、遠く離れたローマにいるので実際的な行動は難しい。そこで、実働部隊としては、真実の協力者にお願いする。この真実の協力者は、書簡を運んだエパフロディトのことかもしれないし、フィリピ刑務所の看守かもしれない。何にしても、本人がこの箇所を読んで自分のことだとわかったということは、パウロはこの人物をふだんから真実の協力者と呼んでいた。人を馬鹿にして変なあだ名をつける人がいる。そうではなく、こんな優れたあだ名をつけたらすばらしい。パウロは真実の協力者に事態を静観せずに、和解に動くように頼んだ。

そして、パウロはエボディアとシンティケが、命の書に名が記されていることを思い起こさせた。弟子たちが街々に遣わされて宣教して、イエス様のもとに戻ったとき、弟子たちは自分たちの大勝利を喜んだ。「お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します!」人々が恐れている悪霊どもを思うがままにあしらうことができた!それはそれまでだれも体験したことのない特別な体験だった。勝利に喜び、酔いしれた。ところが、イエス様はその喜びに水を差すようなことを言われた。ルカ10:20。イエス様はここで悪霊が服従することよりも、天に名が書き記されていることを喜びなさいとは言っておられない。悪霊が服従することは喜んではならない。天に名が書き記されていることだけを喜びなさいとおっしゃっている。伝道の結果に喜びを置くなら、その喜びは奪い去られる。なぜなら、伝道というのはうまくいくこともあればうまくいかないこともある。エボディアとシンティケは福音のために戦った人だ。主のためにいっぱい伝道したのだ。いつしかエボディアとシンティケはその伝道の結果に喜びを抱くようになった。それでうまくいかないときには喜びがなくなってしまった。そして、伝道の働きについて意見が合わないお互いを邪魔者のように考え、対立するようになった。しかし、命の書に名が記されていることは常に喜ぶことができる。物事がうまくいってないと思えるときにも喜ぶことができる。4節。私も伝道がうまくいかないときも喜ぶ!

5節。主において常に喜ぶなら、心に余裕が与えられる。自分とはタイプが違う人同士でも、互いに広い心で受け入れあうことが可能となる。そのように、互いに受け入れあうことは、クリスチャンではない人たちへの証しとなる。陰口、悪口、ののしりあいが当たり前の世の中にあって、クリスチャンだけは心から互いに受け入れあっているのを見るなら、人々は教会に足を運ぶようになる。主の再臨が間近に迫っているのだから、一人でも多くの人が救われるために、クリスチャンの生き方が証しにならなければならない。

6-7節は思い煩いの解消方法。エボディアとシンティケの対立に見られる教会の人間関係の問題以外にも、喜びを奪おうとする問題はいろいろある。経済、健康、恋愛、仕事、迫害など。どれもこれも順調なこともあれば、うまくいかないこともあるから悩ましい。そういう思い煩いをまとめて解決してしまう万能な方法がある。それは祈りだ。まず、「どんなことでも、思い煩うことはやめなさい」。悩みが人を成長させるなんていうが、それは悪魔の嘘だということがわかる。思い煩いはむしろ私たちの前進をはばむもの、身動きがとれなくするものだ!そして、それは神への信頼が足りない不信仰に基づくものだ。どんなことでも、思い煩いはただちにやめなければならない。
そして、どういうふうに祈るのか?第一に感謝を込めて祈る。思い煩う人は、いろいろな問題を抱えているから思い煩うのだ。しかし、そういう状況でも感謝をしなければならない。思い煩う人は、問題にばかり焦点をあててしまうが、実は神に感謝すべきことは常にたくさんある。神が自分に計らってくださっていることを思い起こす。経済的にはうまくいっていなくても健康は与えられているかもしれない。健康に問題があっても、人間関係には恵まれているかもしれない。すべてうまくいっていないように見えても、その人が生きている限り、神の恵みをあふれんばかり受けている。すべてうまくいかない人には神が特別に憐れんでくださって、公平な神様が御自身を現してくださることがある。神の恵みを思い起こし、そのことに感謝をするなら、神への信仰が働く。「神は自分を愛し、御心にとめて必要なものを与えてくださっている。これからも与えてくださるに違いない」という信仰だ。

第二に正直に思いを打ち明けて祈る。神に祈るとき、形式的な言葉ばかり並べて正直に祈らないことがある。もちろん私たちは神に対して畏れる心をもって、失礼のない言葉で祈らねばならない。しかし、神に何かを隠そうとしているなら、それは愚かなことだ。神の御前には私たちは開かれた本のようなもの。私たちは何もかも知られている。隠そうとすることはそれこそ神を侮っている。そして、神に何かを求めるときは、はっきりとした言葉で求めなければならない。あいまいににごしてはならない。神は子供たちを愛する父なる神であって、私たちが求めることを求めておられる。

そうすればどうなるのか?人知を超える神の平和が心と考えを守る。この平和は人間の頭では理解できないもの。この平和はこの世では絶対に見いだすことの出来ないもの、世が知らないものであり、キリストによって救われたものだけが体験出来るものである。その平和は私たちのうちにとどまり、守る!ここでの守るという言葉もまた軍隊用語だ。神の平和は守備隊のように心と考えに駐屯して、私たちの心と考えを守る。霊的戦いの主戦場は私たちの心と考えだ。心と考えの中で戦いが起こっている。悪霊どもは思い煩いを吹き込んでクリスチャンの喜びを奪い、無力化しようとする。神はクリスチャンの祈りにこたえて、平和を心と考えの中に与えて、悪霊の攻撃から守ってくださる。

ここでの平和は求めたものが確実に与えられるということによるのではなく、神への信頼によるものだ。私たちが求めるものは私たちにとってよくないものかもしれない。子供はアイスクリームを求める。しかし、アイスクリームがおいしいからといってごはんも食べずにアイスクリームを好きなだけ食べるのは健康に良くない。賢明な親ならアイスクリームは時々だけ与え、ちゃんとごはんを食べさせるだろう。神は誰よりも賢明な親であり、私たちを愛して私たちにとって最もよいものを最もよいタイミングに与えてくださる。私たちは神の取り扱いを信頼して従うのだ。

8-9節は、戦いを有利に進めるために、その他に心を留めるべきことと、実行すべきことを指示する。その内容は広範囲にわたるもので、私たちは聖書が具体的に示していないことからも多くのことを得ることができることがわかる。8節。ここですべて、とある。ここには未信者の社会のことも含まれる。信仰は世のことを全部ぶった切るものではない。もしそこに何かしらの点で優れたものがあれば心に留めるべきだ。それでパウロもよくたとえ話に優勝するために必死に練習するオリンピック選手についてあげることがある。オリンピック選手のほとんどはクリスチャンではなかっただろう。私たちは世の中のスポーツ選手、ビジネスマン、慈善活動家、感動的な逸話、ことわざや名言からも何かしらの良いものを吸収することができる。もちろん、それらの反聖書的な内容については注意深く除外しなければならない。優れたものを心に留めることは、私たちの心を保つ上で力になる。

9節。このようにはっきりということのできる教師は残念ながらほとんどいない。パウロは教えることと行動が一致していた。「教えていながら実践していないじゃないか」と後ろ指さされる心配はなかった。フィリピの信徒たちはパウロが教えたことを、パウロの実践を通して見聞きすることができた。それによって教えは非常に生き生きとしたものとなった。そこには心を守り、他のクリスチャンと平和に過ごすための教えや実践が豊かにあった。私たちも平和を実現すべく、教えられていることと他のクリスチャンの模範的な生き方を実行しよう。多くの教師がパウロと違って不完全な教師で、模範にならないこともあるかもしれないが、模範になる点もあるだろう。そこを見習おう。Ⅲヨハネ11。そうすれば、平和の神が共におられる。平和の神とは神の称号。聖書でいう平和というのは戦いがないこと、何も起こらないことではない。戦いはある。平和とは、神と和解して、正しい関係の中にあることによって得られるものだ。平和の神は神御自身との交わりと隣人との交わりを助けるように恵みをお与えになる。私たちの勝利は確実なものだ。

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