イエス・キリストの模範[フィリピ2:1-11]

フィリピの信徒への手紙
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イエス・キリストは神としての権利や身分を一切主張せず、すべての栄光を捨ててへりくだりました。

イエス・キリストの模範[フィリピ2:1-11]

イエス・キリストの模範[フィリピ2:1-11]

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【ノート】
パウロは、フィリピの信徒たちのことを喜び、神に感謝していたが、喜べない部分もあったことがここからわかる。フィリピ教会の信徒たちには不一致の危険があった。これはどんな健全な教会でも起こりうることだ。誰でも、熱中していたり、自分たちの信仰を重要視したり、自分たちの計画とか提案に夢中になったりするとお互いに対立し合う。熱心が増せば増すほど対立していく危険も大きくなる。
熱心なクリスチャンには罠がある。クリスチャンとして忠実にキリストに仕え続け、信仰歴が長くなり、熱心に励んでいると、陥りやすい落とし穴がある。それは、高慢になり、ほかのクリスチャンの欠点を裁いたり、見下したり、自分が賞賛されることを求めたりするようになることだ。 特に教会の中で長老や執事といった役職を得た人、四十日の断食祈祷やダイナミックな聖霊の賜物による働きなど特別な信仰体験をした人、神学を学びや信仰書籍をたくさん読んで知識を身に着けた人が危ない。これらのことはいずれも良いことなのだが、「私はほかのクリスチャンよりワンランク上の特別な存在なのだ」と錯覚してしまうのだ。
これはある程度成長した教会で起こりやすい。フィリピ教会も、最初はリディアの家の小さな家庭教会だったのでみんなが一つの家族として助け合って信仰生活をしていた。十年以上経過した今や1:2にあるように、監督たちと執事たちが任命される組織だった教会になった。ベテランクリスチャンが多い教会だ。中には、「私は監督だ!私は執事だ!私が教会の発展にどれだけ貢献したと思っているのか?」という意識がある人もいたかもしれない。また、使徒パウロの宣教を助けた人や福音宣教で多くの収穫をあげた人は、自負心が強い。自分の働きはもっと注目され、認められ、賞賛されて当然だと思う。ほかの人々も彼らを尊敬したので、その高慢さは助長された。そのように貴く用いられた人々同士でのちょっとした小競り合いが教会で起こっていただろう。ちょっとした派閥争いがあっただろう。もちろん、私たちはそういうふうに御国の拡張に貢献した人、長く教会で仕えた人を決してないがしろにしてはならず、敬う必要がある。しかし、もし私たちがそういう人になったら、高慢になって教会の一致を妨げるようになってはならない。
そこで、使徒パウロは、1-2節でまずフィリピの信徒たち自身がすでに持っているはずのものによって、分裂を克服することを命じる。私たちはみな一致するためのリソースを持っている!
第一に、キリストとの交わり。キリストはクリスチャンとの交わりの中で、クリスチャンが一致することができるように、力づけ、励ます。キリストとの交わりにある人は隣人といつまでもいがみあっていることはできない。あなたはキリストと交わりを持っているか?そうであれば、いつも交わりを持っているキリストが私たちに一致を励ましてくださる。
第二に、キリストの愛。キリストが私たちを愛してくださっている。その愛が私たちに愛の一致を促す。キリストの愛は悪感情を乗り越え、苦痛を忘れさせて、他者の利益だけを追い求めさせる。愛の対象は自分を愛してくれる人だけでなく、自分と対立している人にまで完全な形で及ぶ。善によって悪に打ち勝つことを可能にさせる。
第三に、聖霊による交わり。聖霊様は人々を神と人との結び合わせてくださるお方。神の御心を啓示してくださる方。神の愛を私たちの心に注いでくださるお方。その同じ霊を私もほかの兄弟姉妹も持っている!クリスチャンほど一致しやすい人々はいないはずである。聖霊様の導きに従えば、私たちは容易に一致できる。
第四に、慈しみや憐れみの心。相手を深く慈しむ心があれば、敵対して傷つけることをやめさせる。同情すれば、相手の立場を理解し、対立をおさめることができる。
第五に、敬愛する人の喜び。2節で使徒パウロは「わたしの喜びを満たしてください」と頼んでいる。フィリピの信徒たちはみんなパウロを敬愛していた。パウロを喜ばせたいと思っていた。しかし、完全な一致ができない限り、パウロの喜びを完全にすることはできない。パウロを喜ばせたい心がフィリピの信徒たちを完全な一致へと導く。あなたにもそのように敬愛する人がいるだろうか?その人を喜ばせるにはどうすればよいか考えよう。私たちには一致するためのリソースが十分に与えられている。これらによって教会で完全に一致する私たちになろう!アーメン。
では与えられているリソースに用いて具体的にどのような点を悔い改める必要があるのか。3-4節。すべては心に関すること。「何事も」とあるので、教会の内外の活動すべてを含む。
悔い改めるべき心の第一は利己心。これは自己中心的な動機のこと。教会の内外での活動の動機が、自分の出世、自分の利益、グループの中で幅を利かせるための動機に転落してしまう危険は絶えずある。夢とかビジョンといった魅力的な名前をつけて個人的な野望の実現を目指してはならない。そこには争いが絶えない。
悔い改めるべき心の第二は虚栄心。むなしい栄光を求める心。大多数の人々にとって名声が富以上に大きい誘惑である。賞賛されること、尊敬されること、知名度が上がること、おべっかを使われることすら、たいていの人は心地よく感じてしまうものだ。そして、その心地よさを一度味わうと、もっともっとほめられたい、認められたい、名を売りたい、自分の株を上げたいと思うものだ。だから大多数の人は、虚栄心のためにすべての活動を必死で行っている。SNSがはやるのはそのためだ!ビジネスマン、政治家、芸能人、スポーツ選手、YouTuberが必死にがんばる動機も、ほとんどの場合そのためだ!美しい動機では決してない!正直な人はそう認めるだろう。そこにはむなしい栄光を奪い合う醜い競争がある。弟子たちが、「誰が一番偉いのか」と争った争いは世界中至るところで繰り広げられている。そして、クリスチャンであっても、ほめられて嬉しくないわけがない!誘惑に陥りうる。
しかし、クリスチャンは利己心や虚栄心とは逆の道をめざす。へりくだること。自分を消去することを選ぶ。クリスチャンの動機は自分の出世や自分の栄光ではなく、御国を拡張すること、神が賛美されることだ。ハレルヤ!そして、へりくだる人は、他者を自分よりも優れた者と考えることができる。すべての人には優れた点が数多くある。私たちがへりくだるなら、他者の長所を認めて褒めることができる。そうすればほかの人との友達となり、一致することができる!
悔い改めるべき心の第三は、自分のことにのみ集中すること。もし自分のことにのみ興味を持ち、関心を払うのであれば、ほかの人々と衝突することは避けられない。その人はほかの人に与えることを知らないし、ほかの人に協力することを知らない。自分のことのためにほかの人を押しのけたり、踏みにじったりしても全然心が痛まない。自分にのみ集中するなら必然的に他者を排除することになる。その人は一生寂しく、孤立した生涯を送ることになるだろう。そうならないために他人のことにも注意を払わなければならない。ほかの人の話に耳を傾けてみよう。他人の霊肉の健康に関心を持つ。他人の仕事や奉仕に関心を持つ。他人が関心を持っていることに関心を持ってみる。趣味やマイブームといった他愛のない話から、祈り課題や御言葉に関することまでいろいろな話が出てくる。そうすればその人と友達になることができるだろう。誰でも自分に関心を持ってくれる人がいればうれしいものだ。
利己心、虚栄心、自己集中は、悔い改めて、方向転換しなければならない。クリスチャンが世と逆のへりくだりの道を行くためには、世に倣うのではなく、誰に倣う必要があるのか?それはイエス・キリストだ!5節。イエス・キリストが不一致を克服するための完全な模範を私たちに提供してくれている。
6-11節がイエス・キリストの模範。この箇所は新約聖書の中でも最も霊感に富んだ箇所の一つ。キリストの人格の偉大さを現すものであり、第三の天から陰府の底に至るまでの高さと深さを持つものであり、単なる神学的知識に終わらずに私たちの人生の目的と日常の信仰生活にも密接に結び付く。
まず6節から7節はキリストの受肉について。聖書では繰り返し「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられている。この教えにはそれぞれ高ぶる者の代表者とへりくだる者の代表者がいる。高ぶる者の代表者はアダムだ!アダムは罪のない神の子だった。しかし、神性は持っていなかった。にもかかわらず、高ぶって神になろうとして罪を犯したので楽園から追放され、神から遠く離れた。低くされたのだ。へりくだる者の代表者はキリストだ。キリストはアダムと同じく罪のない神の子なので、第二のアダムだ。
6節、「キリストは神の身分」であった。原語のギリシア語では、キリストは時間の経過や偶然によって決して変化しない本質的な神のかたちを、どんな環境の変化によっても変わらず、奪い去られない性質として持つ存在という意味がある。つまり、キリストは永遠の昔から決して得たり失ったりすることのない本質的な性質として神性を持っていたのだ。キリストは100%神なのだ。キリストは唯一正当に自己中心である権利をお持ちのお方だ!神こそが万物の中心であるべきお方だからだ。そして、キリストがお持ちの栄光は罪びとの持つものと違ってむなしい栄光ではなく、本物の栄光だ!キリストは神として天でも地でもすべての栄光を独占し、ひたすら賛美され、崇められ続けるべきお方だ。天の御座にとどまっているのが当然だった。人間は罪深い自己中心とむなしい栄光さえにぎりしめてしまい、なかなか手放すことが難しく、自分に集中しやすい。ところが、キリストは栄光に固執しなかった!そして、キリストは自分のことだけでなく、私たちのことにも注意を払われた!キリストはあなたに注意を払った。そして強い願いを持った。この人を救いたい!その愛の動機がキリストを受肉へと動かした。6節「神と等しい者であることに固執しようと思わず」。 それでどうしたのか、7節、「自分を無に」された。当然受けるべき栄光を全部捨てられた。無にするというのは容器が空っぽになるまで中のものを取り出す場合に用いられることが使われている。キリストは神としての性質を完全に封じ込められたのだ。そして7節「僕の身分になり」。これは変化しない本質的な奴隷のかたちという意味。キリストが人間になったのは、演技ではなかった。それは現実である。キリストは100%人間になられた。そしてキリストの人性、人間としての性質は永遠に失われることはない。神が人間になった!これはとんでもない転落だ!キリストは私たちを愛するあまり、私たちと同じものとなることをいとわなかった。そして、地上にいる間キリストは神性が封じられていたので、7節、人間と同じ者になられ、人間の姿で現れた。ここでの「同じ者になる」という言葉は一時的な状態を意味する。また、「人間の姿」という言葉は変化しうる外見を意味する。その後に神性を回復し、復活のあとの栄光の姿に変えられることが暗示されている。
人間になるだけでキリストは十分へりくだった。しかし、へりくだりは続く。8節。キリストの生涯全体がへりくだりだ。キリストは貧しい家で育った。大工として苦労して働いて大家族を養った。キリストとして公に活動を始めてからも、群衆たちには教え、福音を伝え、癒し、悪霊を追い出して仕えた。弟子たちに対してもあらゆる必要を満たし、最後の晩餐の席では足を洗ってあげた。天地万物をお造りになった神御自身がそのように人間に仕えられたのだ!それはキリストが自分に死んで、父なる神に従う道だった。キリストは日々自分に死に続ける従順の道をたどり、その最後の従順として十字架の死を迎えた!十字架によってキリストは従順を全うされた!
そして、キリストは死んで陰府にまでくだられた。つまり、これ以上くだることはできないというところまで、へりくだりによって到達したのだ。しかし、へりくだるものは高められる。父なる神が高めてくださる。イエス・キリストは最も低いところまでへりくだったので、最も高い位置にあげられた!もともとおられた父なる神の右の座に戻られたということにとどまらない。
まず名が与えられた。9節。イエス・キリストに与えられたあらゆる名にまさる名とは何か?それは主だ。11節に「イエス・キリストは主である」と人々が公に宣べるとある。ギリシア語ではキュリオス。もともとキュリオスという言葉には輝かしい意味があった。主人とか、所有者を意味した。ローマ皇帝もキュリオスと呼ばれた。異教の神々も固有名詞の前にキュリオスがついた。そして、旧約聖書で主と訳されている神の個人名である「ヤハウェ」にも旧約聖書をギリシア語に訳した七十人訳聖書ではキュリオスが使われている。イエス・キリストにキュリオスが使われるとき、そこには新しい意味がある。あらゆるものにまさっているという意味。ライバルはいない!等しいものはない!イエス・キリストはへりくだりによって私たちの主人であり、所有者となられた。イエス・キリストは王の王なので皇帝の主でもある。イエス・キリストは神々の神である。そしてイエス・キリストは世界を創造したヤハウェである。
やがてあらゆる場所にいるすべての人々が声を合わせてこの御名を呼んで礼拝することになる!10-11節。この日が遅かれ早かれやってくる。完全な一致がそこにはある。そこには私たちのつまらない理由での不一致が介入する余地はない!では、この人々の礼拝は何から生ずるのか?イエス・キリストは私たちを武力や権力によって服従させて、礼拝をさせるのではない。人々がひざまずくのは「こんな力には対抗できない!」ということではない。礼拝は愛による。すべての舌が、イエス様の十字架の死に至るまでの愛に心打たれてひざまずく。その愛によって敵意は溶かされ、反抗心は砕かれる。「神がわたしを愛して、わたしを救ってくださった!このすばらしい愛が私の全存在を支配している!」それでキリストの愛に打たれた人は、「イエス・キリストは主である」という短い信仰告白によって愛と忠誠を表明して、ひざまずくのだ。
最後に人々がすることは「イエス・キリストは主である」と告白して「父なる神をたたえる」ことだ。イエス・キリストは人間としての生涯も十字架の死も、御自分への礼拝を最終目的にしたものではない。すべては神の栄光のためだ。Ⅰコリント15:28。イエス様が御自分のもとに人々をまとめられるのは、父なる神のもとに導くためだ。自分の野望を実現したい、人々の注目を浴びたいという動機で奉仕し、自分に集中する人がいた。しかし、イエス様は私たちを愛して、私たちの目が父なる神に注がれることを願われた。この完全な模範であられるお方に従うクリスチャンはいつでも自分のことだけではなく他人のことにも注意を払い、自分の栄光ではなく、ひたすら神の栄光を現すことを追い求めなければならない。

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