目標を目指してひたすら走る[フィリピ3:10-21]

フィリピの信徒への手紙
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パウロにも、まだ到達していない境地がありました。

目標を目指してひたすら走る[フィリピ3:10-21]

目標を目指してひたすら走る[フィリピ3:10-21]

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【ノート】
この箇所はいきなりわからないことが書いてある。10-11節では、キリストの復活の力を知り、苦しみと死の姿にあやかり、死者の中からの復活に達したいということが書いてある。これはどういう意味なのか?これは、クリスチャンが死んだあと復活し、キリストの栄光の体に変えられること、つまり栄化のことを指しているわけではない。もしこれが栄化のことなら、あえて「何とかして達したい」と切望するまでもない。栄化はクリスチャンに確実に与えられることが約束されている。約束されていることを「なんとかして得たい!」と求めることは不信仰だ。約束されている栄化の話なら、「ハレルヤ!主よ、栄化されることを感謝します!」というはずだ。事実、21節では、パウロやフィリピの信徒たちがクリスチャンとして当然体験できるものとして、栄化についてに書いている。それではいったい復活の力を知り、苦しみと死の姿にあやかり、死者の中からの復活に達したいというのはどういうことなのか?

第一に、それは多くのクリスチャンがまだ到達していない境地だ。それは生きている間に達成可能なものに違いない。それでなければ何とかして達したいとは望まない。しかし、長年キリストに献身して貴く用いられてきたパウロすらまた得ていないものだった。12節では「わたしは、既にそれを得たというわけではない」といっている。パウロは多くの教会を開拓した。パウロは第三の天に上る神秘的な経験をしたことがあった。パウロは聖霊の賜物によってしるしや不思議な業に用いられた。パウロが多くの知恵と啓示を神から受け取っていたことはパウロ書簡を読めば明らかだ。あなたはそういう経験をしたことがあるか?おそらくない。私もパウロほどはない。そのパウロが「私は、既にそれを得たというわけではない」と言っているということは多くのクリスチャンが、おそらくは私やあなたがまだ達成していないものに違いない。ほとんどのクリスチャンにはまだまだ到達していない境地がある!だから、もし自分がもう到達したかのように言う人がいたら、実際に、ほんの一握りのパウロよりも先まで行くことができた祝福された人か、大多数の勘違いしてしまっている残念な人のどちらかだ。「クリスチャンライフはABC~XYZまで何もかも知り尽くしている。ど~れ、私が神の奥義のすべてをとくと教えてあげよう。」本当にそうなのか?特に何かを成し遂げたと思ったときは、へりくだって、クリスチャンとしての道のりにはまだまだ先があるということを覚える者となろう。

第二に、それはクリスチャンがキリストにあやかることによって体験するものだ。主イエス・キリストを人格的に知ることの中には、復活の力を知ることが含まれる。死を打ち破る復活を知るのだ。もはや不可能はない。だから、クリスチャンは「できない」「無理だ」「不可能だ」という語彙を自分のボキャブラリーからなくさなければならない。クリスチャンと名乗りながら無神論者のように語ってはならない。そして、クリスチャンは、キリストが体験したことをすべて追体験することができる。クリスチャンはキリストと連合された者だ。キリストの苦しみ、死、復活はキリスト個人の体験にとどまらない。
キリストと結ばれたクリスチャンも、人々の救いのために苦しむことができる。コロサイ1:24。キリストの救いの御業は完全だったが、キリストの苦しみについては、なんとパウロが苦しむことで補うことができた。キリストは御自分の十字架とは別に、クリスチャンにも自分の十字架を背負って従うことを要求された。キリストは救いのために苦しむという貴い務めの一部を、私たちにもまかせてくださるのだ。それは栄誉あることだ。私たちは喜んで苦しみを担おうではないか。
キリストと結ばれたクリスチャンは、キリストの死の姿にあやかり、死者の中からの復活に至ることができる。罪に死んで、復活の栄光の勝利にあずかることができる。バプテスマはそのことを象徴的に表す聖礼典だ。ローマ6:4-5。クリスチャンライフにおいてバプテスマで象徴されていることを完全に再現するには、罪から完全に清められること、そして、キリストが復活して栄光の勝利を得られたように、自分に与えられている召命を全うして栄光の勝利を得ることが必要だ。私たちはこれらのものすべてにあずかることを目指そう。

12-14節では、パウロがどんな姿勢で復活の勝利に達しようとしていたか。第一に、まだ道半ばであることを認めた。まずパウロはありのままに自分を評価した。12節の始めに、パウロは「自分はまだ復活の勝利に達していないし、まだ罪から完全に清められていない」と言っている。道半ばであることを認めた。それがスタートだ。ところでパウロはここで自分が完全な者ではないといっている。イエス・キリストは「あなたがたの天の父が完全であるように完全でありなさい」と言われた。クリスチャンは思い考えでも、言葉でも、行動でも一切罪を犯さない完全な者となることが要求されている。しかし、パウロは完全な者ではなかった。では誰か完全な者になることができた人はいるのか?キリスト者の完全を説いたジョン・ウェスレーは、使徒ヨハネは完全になった人の一人だという。その根拠として、使徒ヨハネは「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」と断言しているからだ。もし自分すら罪を犯さない事例に該当しないならそんなことは言えない。

第二に、ただ一つのことに集中した。パウロは12節、何とかして復活の勝利を得ようと努めていた。ほかのものには目もくれずに一心不乱に努めていた。13節で「なすべきことはただ一つ」。私たちは大きなことを成し遂げるためには一つのことに集中する集中力が必要だ。あれやこれやと目標がころころ変わったり、無関係なことをしたりしていたら、時間とエネルギーを浪費してしまい、大きなことを成し遂げる前に人生が終わってしまう。レンズを使って光を集中すると物を燃やすことができる。そのように、一点集中することで、威力を発揮する。しかし、問題は私たちの心がぶれやすく、一つの目標になかなか焦点が定まらないことだ。それで、何かのきっかけに「よし!祈ろう!」とか「よし!伝道しよう!」と決めたとしても、ちょっと時間が経つと思いが冷めてしまい、面倒くさくなってしまい実行するのを先延ばしにしたり、ネットサーフィンとかいらないことを始めてしまったりする。パウロが一つのことに集中できたのは12節、自分がキリスト・イエスに捕らえられているからだ。イエス・キリストが恵みによって私たちを捕らえてくださっている。イエス・キリストが愛によって私たちをロックオンしてくださっている。イエス・キリストが与えてくださる夢が、目標が私たちを夢中にさせる。そして、イエス・キリストは絶対にぶれない。イエス・キリストが私たちをご覧になる眼差しはまっすぐである。それであれば、私たちもぶれない。イエス・キリストにあって、一心不乱に復活に達しようと努めることができる。神の栄光のために大きなことを成し遂げることができる。

第三に、後ろのものを忘れた。つまり、過去の栄光にとらわれなかった。過去の栄光というのは人の歩みをにぶらせる。過去の栄光について思いめぐらすと私たちに自己満足を与えてしまう。クリスチャンは一つの成功に腰を降ろして休み続けていてはならない。ゴールするまではすべて通過点に過ぎない。自慢話は論外だ。神がどのように働いてくださったか、証しをすることは良いことだが、もし昔の証しばかりしか出てこないなら黄色信号だ。「神は何十年前にこんなすばらしいことをしてくださった」「神の恵みによって何十年前にこんな成功をした」それだけでなく、「つい最近、神がこのようにして栄光を現してくださった」と証しできる生き生きとした信仰を持とう。そうでなければ、私たちは後退しているのだ。過去の栄光は忘れよう!過去ではなく、常に、現在と未来には、もっと大きな栄光が待っている。ベストはまだ来ていない!前のものに期待しよう。

第四に、前のものに全身を向けてひたすら走った。つまり、目標を目指して全力を尽くした。運動会や陸上競技で走る人はどのように走るだろうか?全力で走る人は、わき目をふらない。前の方、ゴールに続く方を見て、全身を前に向けて走る。特にここでの「前のものに全身を向け」という言葉は原語では走者が決勝のテープに向かって走っているとき、決勝点以外何も目に入らない!空気をかくように腕を前に動かし、頭を突き出し、体を曲げて少しでも早くゴールに到達できるようにする。全力で走る人は、ひたすら走る。歩いたり、ほかのことをしたりすることはない。
ペースはいろいろだろうが、ひたすら走るの一択だ。パウロはそのように目標を目指して全力を尽くすことをモットーにしていた。パウロはこのときすでに60歳近かった。パウロも人間だから体力は衰えてきていたに違いないが、全力を尽くして走る姿勢で生きていた。気力は全然衰えていない!それは、パウロが走っていたのは信仰の道だからだ。信仰は気力を増し加える。ほかの分野ではいつか引退ということがあるだろうが、信仰の道は生涯現役で、天に召される日まで走り続けることができる。

第五に、賞を期待した。天国で与えられる永遠の報いを期待することは不純な動機ではない。イエス・キリストが天の報いを求めることを奨励しているので、それは信仰に基づく良い動機だ。仕事をする人が給料をあてにすることは不純な動機ではない。誰が給料をもらわずに働きたいか?仕事をする人が給料を期待することが当たり前なように、信仰者が天の報いを期待することは当たり前なことだ。パウロを世界宣教に突き動かした最大のものを天の報いだった。やがてすべての労苦を忘れさせる褒美がもらえる。栄冠が待っている。その期待が走るための原動力となる。

パウロが目指していた目標とは何だったのか?それは宣教にかかわることだろう。大宣教命令を成就することだったのかもしれない。もしそうであれば、パウロの代には実現しなかったが、パウロのスピリットは私たちにまで脈々と受け継がれている点でうまくいっている。また、一説では、宣教で豊かに実を結ぶことで、天の報いで十二弟子たちを追い越すことだったのではないかと言われている。先の者が後になり、後の者が先になるので、十分あり得ることだ。いずれにせよ、人生をかけて挑む高い目標だった。人それぞれに対して、神は目標を与えてくださる。あなたにとってそれは何か?その達成のためにひたすら走ろう。

しかし、パウロがここで掲げている姿勢は、非常にレベルの高いものだ。クリスチャンであれば誰でも実践できるというものではない。そこでパウロはフォローする。15-16節。15節でいう完全な者というのは12節の完全な者とは違い、成熟した人という。霊的に成熟したクリスチャンであればパウロのように神の召命に一直線で全力を尽くして答える生き方ができるだろう。しかし、そうでない人もいるだろう。そうでない人はその人なりにとるべき姿勢を神は明らかにしてくださる。私たちは成長の段階に基づいて進めばよいのだ。最初にこの御言葉を読んだとき私はほっとした。「なるほど、パウロのような生き方が最善だろうけども、最善ではない別の考えがあってもいいんだ。じゃあ、別の考えで生きよう。」パウロのように生きるなら、自分の場合は福音宣教のために献身する道をとるべきに違いないと直感していたからだ。それでしばらくは別の考えで生きていたが、結局別の考えでは満足できなくなって、目標を目指してひたすら走りたいと願うようになった。私の場合、その走りはおぼつかないもので、わきめをふってばかりいるのであまり模範にはならないが、とにかく目標を目指してひたすら走りたいと願ってはいる。

17-19節。パウロは自分が話したり書き送ったりする通りにするだけでなく、パウロの生き方に倣うことを命じている。それは、異端と呼ばれる大きく脱線した人々に惑わされてしまわないようにするためにも有益だった。3章で最初に警戒するよう呼び掛けた異端は律法主義だった。行いによって救われると説く人々だ。ここでいまパウロはまた涙ながらにキリストの十字架に敵対している人々について警戒をよびかける。パウロの涙は、彼らがキリストの御名を汚しているため、そして彼らの行きつく先が滅びであるためだ。彼らはクリスチャンを装いながら、実はこの世のことしか考えず、都合よく真理を曲げて、貪欲の限りを尽くす人々だ。彼らが何ものかは具体的に書いていないが、無律法主義者と言うことはできる。彼らは、キリストの恵みを曲解する。私たちはすべての罪をゆるされたのだから、いくらでも罪を犯して問題ない。むしろ罪を犯せば犯すほど神の恵みのすばらしさが現されるので、神の栄光になるのではないか?それで未信者よりももっと大胆に罪を犯して少しの良心の呵責も覚えない。
彼らはキリスト者の自由を曲解する。私たちはキリストによって完全な自由を得た。完全な自由には罪を犯す自由も含まれる。だから、好きなだけ罪を犯そう。すべては自由なのだから。

彼らは神の恵みによって救われていないから、神に喜ばれないことを平気で行おうとする。罪から自由になっていないから罪を犯したいと思う。この世のことしか考えていないから、この世の神である悪魔に属していることがはっきりしている。この世のことしか考えていない人はクリスチャンではない。クリスチャンは自分の本国のことを考える。

20節。フィリピはローマから離れたギリシャにあった。しかし、フィリピはローマの植民都市であって、フィリピの住民はそのことを誇りに思い、自分たちがローマに属しているのを忘れなかった。同じように、クリスチャンはこの世に住みながら、本籍を天に置く。私たちはそのことを誇りに思う。それで、この世のことよりも天国を心に抱き、天国の歌を歌い、天国の言葉を学び、天国の法律に従い、天国の文化を導入し、天国の王を礼拝する。そして、天国から自分たちの王が来られるのを待っている。そのとき、すべてのクリスチャンに約束されている完全な救いが実現する。21節。「卑しい体」というのは、体が悪いということではない。私たちの体は神の霊が宿る神殿であって、体を大事にしなければならない。しかし、この体は、キリストが持っておられる復活の栄光の体と比べれば、もろいものだ。私たちの体は変化し、衰え、弱り、病気になり、やがては死んでしまう。この死すべき体が、イエス・キリストのすべてを支配する力、全能の力によって、キリストと同じような朽ちない体、麗しい体、栄光の体に変えられる。ここに私たちの究極的な希望がある。この希望をいつも抱いて、天国を国籍に持つものとしての自覚をもって生きる私たちになろう。アーメン。

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