生きるとはキリスト、死ぬことは利益[フィリピ1:12-30]

フィリピの信徒への手紙
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キリスト教信仰は不利益をも利益に変えてしまう無敵の信仰です\(^o^)/

生きるとはキリスト、死ぬことは利益[フィリピ1:12-30]

生きるとはキリスト、死ぬことは利益[フィリピ1:12-30]

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【ノート】
パウロがローマで監禁されてしまったのは、多くの教会に衝撃を与えた。フィリピの信徒たちも例外ではない。パウロはフィリピの信徒たちが尊敬してやまない使徒だ。パウロがほんの数日伝道しただけでフィリピ教会が立ち、エフェソで2年間伝道すると小アジア全体に福音を届けることができるほどだった。パウロには特別な賜物があった。自由の身であれば、今頃もっと多くの人々に福音を届けて、もっと多くの教会を開拓できただろう。しかし、いまは獄中で身動きがとれない。福音は後退してしまった。なぜ神はこの優れた使徒が監禁されることをゆるしたのか。なぜ神は守ってくださらなかったのか。多くの場合、ちょっとしたことでも、大きな事件でも、私たちにはなぜそれが起きることを神がゆるしたのかがわからない。しかし、神には計画がある。悪いことが起きているように見えるときでも、神を愛する者、ご計画に従って召された者には万事が益となるように共に働くというローマ8:28の約束は本当だ。私たちにはたとえわからなくても、万事が益となる、神は悪を善に変えてくださる。しかし、神の計画が後になってわかることもある。パウロのケースがそうだった。
フィリピの信徒たちは意気消沈しているかもしれないパウロを励まそうとエパフロディトを送った。ところが励まされたのはフィリピの信徒たちの方だった。12節。福音は決して後退していなかった。むしろ前進した。パウロはそのことを最初から確信していた。パウロがユダヤ人たちから訴えられたのは、エルサレムに献金を届けに行くときだった。そのエルサレムへの旅行中、エフェソの長老たちに自分の身に何が起こるかを預言した。使徒20:22-24。パウロにはエルサレムに行けば投獄されることになるとわかっていた。そして、そのことがかえって福音を力強く証しする機会になるということもわかっていた。だからこそ、ティルスでもカイサリアでもエルサレムでひどい目にあうから行かないでくれと懇願されても静止をふりきってエルサレムに行った。そこで、預言の通り、ユダヤ人たちに訴えられてカイサリアで監禁され、さらには皇帝に上訴したのでローマにまで行って裁判を受けることになった。その過程でパウロはそれまで決して福音を届けることのできなかった人々に証しすることができた。カイサリアでは総督フェリクス、総督フェストゥス、アグリッパ王に証しする機会があった。イエス・キリストが弟子たちに「あなたがたは総督や王の前に引き出されて証しすることになる」と言われた通りだ。ユダヤ人に訴えられたことは神によって益となった!ローマに行く旅行中では、パウロの乗っていた船の乗員276人に証しする機会を得て、船が嵐にあって難破したおかげでマルタ島の長官のプブリウスを始めとする島の人々をいやして、イエス・キリストを証しすることもできた。船が難破して死にそうになったことも益となった!そして、ローマに着いてからもパウロの証しは止まらない。福音は前進し続ける。
13-14節。ローマでの監禁は未信者への伝道の機会となり、クリスチャンに対しては福音伝道についての励ましとなった。まず、「兵営全体」に知れ渡ったとある。パウロはローマで裁判を受ける前まで、訪問者を歓迎することはできたが、逃げられないように番兵がつけられた。この番兵は皇帝直属の近衛兵の部隊の人々だった。近衛兵は当時1万人も配置されていて、皇帝とローマ近辺を守る任務をあずかっていた。ローマ帝国の権力の中枢に近い人々だ。近衛兵はパウロを24時間体制で監視した。屈強な兵士にずっと監視されたらあなただったらどう思うか?パウロにとってそれは福音を伝える絶好のチャンスだった!近衛兵は交替で番をしたから多くの近衛兵たちに福音を伝えることができた。それで兵営全体で、パウロのこととパウロが語っているキリストのことが評判になった。リバイバルがローマの中心で起きたのだ。中には「パウロ先生から福音を聞きたくて見張り番の当番が回ってくるのが待ちきれない!」という人もいただろう。そういうパウロを見て、クリスチャンたちも勇気づけられた。「パウロは福音の敵から訴えられるほど熱心に福音を語っている!囚人の身でありながら屈強な兵士相手に大胆に福音を伝えている!それに比べて私たちはどうだ?何を恐れているのだ?」伝道をためらっていたクリスチャンたちの信仰を励まされ、クリスチャンたちもパウロに見習って恐れずに御言葉を語るようになったのだ。
そして、そのように勇気づけられるクリスチャンの中に私たちも入っている!パウロが監禁されたお陰でフィリピの信徒への手紙だけでなく、エフェソ、コロサイ、フィレモンの4つの獄中書簡が書かれた!もしパウロが忙しく宣教に取り組んでいたら書かれなかったであろうものだ。神はパウロに二年間の休息を与えて御自分が与えた恵みを執筆された。そうして、私たちを含めた世の終わりに至るまでの教会を励まされたのだ。神には計画がある!パウロが神の良い計画にあずかることができたのは、神を愛して、神の計画を信頼し、従っていたからだ。私たちも神を愛して、神の計画を信頼し、従う者となろう!アーメン。
15-18節はキリストを宣べ伝える動機が人によって違う。パウロの監禁はクリスチャンたちの伝道の動機付けとなったが、すべての人が同じ動機で伝道したのではなかった。一方は、善意でする者、愛の動機からする者。フィリピの信徒たちがそうだっただろう。パウロ先生が福音のために監禁されているのだから、私たちが、パウロ先生が伝道できない分、伝道しよう!強力な牧師や宣教師がいなくなることは必ずしも悪いことではない。それは今まで沈黙していた人々が立ち上がるきっかけになる。他方は、ねたみと争いの念にかられて、自分の利益を求めて、獄中にいるパウロを苦しめようという不純な動機で伝道した。本当にそんな人たちがいるのか?残念ながら、これは異教徒とか、異端者とかのことではない。コリント教会を見ればわかるように、クリスチャンにも初期のころから派閥争いがあった。そして、パウロというのは強力なリーダーだっただけに教会内でも敵が多かった。反パウロ派は、パウロが獄中にいて伝道できないことを好機ととらえた。「いまがチャンスだ!いまのうちにパウロ派よりも伝道して自分たちの派閥を大きくしよう」それはフィリピの信徒たちの目からすると非常に嘆かわしいことだった。ところが、パウロは全然気にしていなかった!それどころか、どんな動機であれ、キリストが告げ知らされていることは良いことだ!それパウロは喜んだ!パウロの目的は、宣教によって自分たちの派閥を大きくすることではなく、神の御国を大きくすることだ!どちらの派閥も神の御国に属している!私たちも自分の教会、自分の教派が喜ぶというよりは、神の御国がこの地で拡張することを喜ぶ者となろう!そうすれば、ほかの教会や教団、教派が急成長してもねたんだり嘆いたりすることなく、神と共に喜ぶことができる。

19-20節はパウロの救いの確信。パウロはフィリピの信徒たちの祈りと聖霊様の助けによって支えられていた。パウロの監禁はパウロの救いとなるものだった。救いというのは、釈放とか解放という意味のある言葉が使われている。パウロは無罪判決が出て、釈放されることを信じていたのか?そうではない!20節「生きるにも死ぬにも」と書いてある。有罪となり処刑されても、立派な証しをしてキリストが公然と崇められるのであれば、良いことだ!死もまた古い肉体からの解放であり、天国での栄冠を手にすることであり、完全な救いの実現であり、大勝利なのだ!パウロは生き死についてではなく、大胆にキリストを証しできることを願っていた。パウロはこれからローマ皇帝ネロの前に立つ。ローマ帝国の最高権力者に対して福音を伝えることができる。そのときに、パウロは命乞いをして恥をかくことや萎縮してしまうことなく、死を恐れずに力強く証しし、できればネロにイエス・キリストを信じさせたいと願っていた。ネロが回心したらその影響は計り知れない!しかし、たとえネロがイエス・キリストを受け入れなかったとしても、死を恐れずに皇帝に福音を伝えるパウロの姿は神に喜ばれ、人々に福音が死を超越するものであることを印象付けることができる。それがパウロの祈り課題だった。
21-26節は生き死にについて。生き死にはパウロにとって祈り課題ではなく、どちらをとっていいかわからず、板挟みになる問題だった。21節。自分の人生全体を支配するものは、人によって違う。ある人はノーミュージック、ノーライフなんて言い、私にとって生きるとは音楽だというだろう。ある人にとっては生きることはビジネスをすることであり、ある人にとっては生きることは家族を養うことである。しかし、生きるとはキリストであるという人だけが、「死ぬことは利益なのです」ということができる。ほかの答えというのはなんであれば、死んだらそれを失ってしまう。
キリストに生きる人だけが死んでも失わないもののために生きているのだ。多くの人にとって最悪の出来事である死が利益なのであれば、監禁、迫害、なんでも利益だ!キリストに生きる人にはそういう意味で何も不利益なことが起きない。ハレルヤ!キリスト教信仰はご利益信仰ではない。不利益をもご利益に変えてしまう信仰だ。パウロの板挟みは、どっちをとっても最悪のように思える・・・。というジレンマではなく、どっちも良いからどっちをとっていいかわからないという嬉しい悩みだ!まず死は最高だ!栄光の体で顔と顔を合わせてキリストと交わりを持つことができる状態でキリストと共にいることができる。23節で「この方がはるかに望ましい」。私たちはクリスチャンが死ぬとき、一時のお別れのために涙を流すことはあるだろう。しかし、かわいそうに思うのは大間違いだ。不完全な肉体でサタンが猛威をふるうこの世にいる私たちの方がずっとかわいそうだ。亡くなった信徒たちははるかに望ましい場所に移されたのだ。このことを喜ぼう。そして、キリストに生きる人にとって、生きていることは無駄ではなく、22節「実り多い働きができる」。25節、フィリピの信徒たちの信仰を深めることができる。十年忠実な信仰生活を送った信徒たちもまだまだ信仰を深めることができる。信仰を深めればどうなるか?喜びをもたらす。パウロは自分自身のために天国の喜びにすぐに飛びつくよりも、生きてフィリピの信徒たちに姿を見せて、クリスチャンであることの誇りを増し加えることを少しだけ強く願った。私たちがまだ天国に行っていないのは、まだ何かしらするべき奉仕が残っているからなのだ。あなたにとってこの世でするべきことは何か?

27-30節は福音にふさわしい生活について。パウロがどうなるのかはわからなかった。パウロがどうなろうと、フィリピの信徒たちは「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活」を送らなければならない。福音を信じる信仰には、その実として、それにふさわしい生活が伴う。ここでいう「生活」という言葉は個人の生活ではなく、共同生活をさす。クリスチャンにとっては教会生活だ。福音にふさわしい教会生活とはどんな生活か?大きく二つ挙げられている。第一に、聖霊によって一致した生活。「一つの霊によってしっかり立ち」と書いてあるが、聖霊によって、教会が分派や争いとは無縁の一致団結した教会となる。教会が聖霊によって導かれるためには、教会の中で喜びにあふれて賛美や祈りを盛んに行うことが欠かせない。第二に、福音の信仰のために戦う生活。この戦いというのは、武力闘争ではなく、反対者からの迫害に耐える戦い。迫害にあっても微動だにしない態度が反対者に神からの恐れを与えることになる。迫害は苦しいことだが、神は迫害をゆるしている。迫害には神の介入がある。ということはどういうことか?29節。キリストを信じることは恵み。信じることも自分の力だけでできることではない。だから感謝。キリストのために苦しむことは神から与えられる恵み!それは大きな天の報いを得るチャンスであって感謝!苦しみも利益となる。フィリピの信徒たちは戦い方を知っているはずだった。30節、パウロの戦いを今まで見て、聞いてきたからだ。パウロはよく戦っていた。さあ、次はあなたがたが同じ戦いを戦う番だ。恐れることはない。私たちがキリストに生きるなら私たちにとっても死ぬことすら利益だ

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