空中で主と出会う[Ⅰテサロニケ4章]

テサロニケの信徒への手紙一
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神に喜ばれる生活をする先に、空中での主との出会いがあります。
それからは主といつまでも共にいることになります。
※インターネット礼拝のメッセージだけ切り抜いたものです。
※写真はテサロニケにあるアギオス・ディミトリオス聖堂です。

空中で主と出会う[Ⅰテサロニケ4章]

空中で主と出会う[Ⅰテサロニケ4章]

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【聖書箇所】
テサロニケの信徒への手紙一4:1-18
1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。
2 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、
5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。
9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。
12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。
13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

【ノート】
1-12節までで使徒パウロは神に喜ばれる生活について語る。1節。パウロは愛する兄弟たちに神に喜ばれる生活をするように勧めている。私たちは自分の生活によって、神を喜ばせることができる。天地万物を創造された絶対者である神を、私たちは喜ばせることができるのだ。ありふれた日常生活、いつもと変わらない日々には大きな意味がある!あなたの生活を神は喜んでおられるか?この点、テサロニケの信徒たちにはいろいろと不十分な点があったに違いない。しかし、パウロは頭ごなしに「あなたたちのここが神に喜ばれていない、ここがだめだ」とダメ出しはしない。テサロニケの信徒たちはまだまだ信じたばかりのクリスチャンたちだ。そしてテサロニケの信徒たちは彼らなりに以前パウロたちから学んだ通りに歩もうと励んでいた。そのことを認めて、パウロはダメ出しではなく、引き続き励むようにと励ましをしようとしている。これは神の御心を表している。神は御自分の子供たちの小さな成長や小さな成功を認めて、喜んでくださる。失敗をすることがあってもチャレンジをすることを喜んでくださる。自分の子供が初めて立ち上がって歩いたら、親は喜ぶだろう!よちよち歩きでも、親は喜ぶ。転ぶことがあっても、親はそのチャレンジをほめて、もう一度歩いてみるように励ますだろう。そこで「なぜウサイン・ボルトのように走れないのか!」とダメ出しする親はいない。人間の親でさえそうであれば、父なる神は御自分の子供たちの歩みをもっと温かく見守り、喜んでくださり、励ましを与えてくださる。

2-8節までは特にみだらな行いを避けること。2節。みだらな行いを避けることは主イエスの御名によって強い「命令」としてなされた。決してパウロの思い付きではないし、従っても良いし従わなくても良いというものではないということ。たとえ全世界がみだらな行いを認めていたとしても、クリスチャンだけはみだらな行いを避けなければならない。多くの異邦人は性的な罪を当たり前のように犯していた。特にテサロニケというのは港町だったから船乗りたちを相手にした娼婦たちがたくさんいた。また、テサロニケにはデオニシアクスとカビリという神を崇める宗教があってその宗教的儀式では性的な罪が行われていた。そのように、性的な罪がはびこる世から救い出されたテサロニケの信徒たちは、そのような罪を避けようとしていただろう。とはいえ、彼らは彼らをとりまく不道徳な環境によって、いつまた罪の道に逆戻りしてしまうかもしれなかった。そのような例が実際に散見されたかもしれない。だから、使徒パウロが繰り返し教えることは余計なおせっかいではなかった。この点、堕落した世に生きる私たちも繰り返し教わり、繰り返し命じられなければならないだろう。まず私たちが避けなければならないみだらな行いというのは、結婚した異性以外と性的な関係を持つことだ。不倫はもちろんこの罪にあたるし、交際はしていても結婚をしていない相手との性的関係は罪だし、お金を払って性的関係を持つことも罪だ。これは世の価値観とはかけ離れているが、3節、「神の御心は、あなたがたが聖なる者となること」だ。聖なる者というのは世と異なっている者という意味。私たちは重要な価値観も世と異なっているのだ。ではどうすればみだらな行いを避けることができるのか。神の御言葉は私たちに知恵を与えてくれている。
まず、第一の知恵は、みだらな行いは避けるということ。3節でも「みだらな行いを避け」とある。避けるというのは逃げるということだ。ヨセフがポティファルの妻から誘惑を受けたときに逃げたように、逃げる。自信満々に誘惑と戦おうとしたり、かっこよく決めようとしたりしてはならない。「かかってこいよ」とやっているとやられてしまう!肉は弱いのだ。逃げるが勝ちだ。
第二の知恵は4節。汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活する。配偶者に対しても汚れのない心を持たねばならないという。配偶者と性的な関係を持つことは全然罪ではないが、性的関係の前に人格的関係がよくできていなければならないということ。単なる性的関係でしかないのであれば、たまにはほかの人に変えてみようということになってしまう。そして、互いに尊敬の念をもっていれば、うわきをすることはない。うわきをしてしまうのは配偶者に対する尊敬の念が足りないからだ。
第三の知恵は5節。異邦人は神を知らないから情欲におぼれる。欲望を具現化した偶像をおそれて罪を避けようとすることはありえない。しかし、私たちは神を知っている。神への意識、神を恐れる心が、私たちが道を踏み外すことを避けさせる。寝ても覚めても、神の視線を意識し、神を愛する心をもって歩み、神の御言葉を聞き続けることが私たちの歩む道を清める。
第四の知恵は6節の前半。みだらな行いによって、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることがある。これは特に教会の中での不倫を指している。みだらな行いは愛すべき兄弟姉妹たちを不幸にすることになる!自分と相手の問題ではなく、自分の配偶者を裏切り、相手の配偶者から相手を略奪することになるし、不倫をしたらそれを隠して嘘をつく。このようにみだらな行いは多くの人を巻き込んで、性的な罪にとどまらず、配偶者を盗む罪、欺く罪とどんどんほかの罪をも犯すようになる。テサロニケの信徒たちは兄弟愛について優れていたが、みだらな行いが悪いという感覚が薄かった。パウロはその兄弟愛に訴えている。兄弟姉妹たちに対する愛はみだらな行いの抑止力となるだろう。
第五の知恵は6節の後半。主は罰を与える。罰への恐れが罪を犯すことを踏みとどまらせる。恐れによって罪を避けるというのはあまり良いモチベーションではないが、罪を犯してしまうよりましだ。イエス・キリストを信じたらすべての罪がゆるされるので、地獄における刑罰は免れる。ここでいう罰というのは、御国における賞罰を指す。御国で私たちが受ける分がなくなるのだ。しかし、もし罪に対して完全に無感覚になり、少しも悪いとは思わず、悔い改めずに際限なく罪を犯すのであれば、その人はクリスチャンではないだろう。そういう人にまで、キリストの十字架の貴い贖いの恵みは適用されないということは覚えておこう。
第六の知恵は7節。そもそも神が私たちを召されたのは聖なる生活をさせるためだ。神は御自分が聖なる者であるように、私たちが聖なる者になることを願っておられる。
第七の知恵は8節。聖霊様が与えられている。使徒パウロが与える警告は人間パウロから出たものではなく、神から出たものであり、クリスチャン一人一人のうちに内住される聖霊様から出たものだ。聖霊様は私たちの心のうちから直接、警告を発しておられる。だから、あえてみだらな行いをするなら、私たちには弁解の余地がない。私たちは自分が聖霊に逆らったことを知っているのだ。聖霊様の警告に耳を傾けよう。そして、聖霊様は警告をお与えになるだけでなく、クリスチャンが聖なる生活を送ることができる力を豊かに備えてくださっている。姦淫、わいせつ、好色といった肉の業しか生み出せない者が、聖霊様に満たされると肉の業を行いたくなくなり、むしろ御霊の実である、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結ぶようになる。
このような知恵によって、みだらな行いを避けるものとなろう。

9-10節は兄弟愛について。兄弟愛については、使徒パウロはテサロニケの信徒たちに改めて書いて教えることが何もなかった。そんな愛のある教会になりたい!彼らの愛の影響力はマケドニア州全土に及んでいた。テサロニケの信徒たちの伝道を通してマケドニア中にクリスチャンが起こされたが、テサロニケの信徒たちは彼らを、愛をもって霊的には迫害に耐えるよう励まし、経済的にも貧しい者に援助することで支えていたのだ。そのようなテサロニケ教会の姿勢をパウロは別の書簡で書いている。Ⅱコリント8:1-2。エルサレム教会のための献金を募ったとき、テサロニケ教会を含めて、マケドニア州の教会は自分たちも乏しさと迫害の中にあるのに、援助を惜しまなかった。他者を支え、他の教会を支える具体的な行動の中にテサロニケ教会の兄弟愛ははっきりと見ることができた。しかし、パウロは10節で「なおいっそう励むように勧めます」とした。私たちは愛において無限に成長できる。

11-12節は仕事に励むように。テサロニケの信徒たちの中には、キリストの再臨が間近なのだから働く必要はないとして、仕事をせず、人様に迷惑をかけている人がいた。キリストの再臨について病的に興奮し、日常生活を放棄してしまったのだ。彼らは気前よく援助してくれるほかの兄弟姉妹たちに甘えてしまっていた。キリストがいつか再び来られることを信じることは、仕事を停止してよい理由にはならない。むしろ、そのときに報いを豊かにえられるようにと、あらゆることをもっと一生懸命に果たす理由になる。そして、日常生活を放棄することは、ノンクリスチャンに対して証しにならない!「クリスチャンは怠け者だ。キリスト教はカルトだ」と思われてしまう。人様に迷惑をかけないようにする、外部の人たちに品位を保つというのは日本人の得意とするところではないか。人を恐れてではなく、神の栄光のためにそうしよう。しかし、いまは就職難で、働きたくても働けないのだ。この御言葉は心が痛いと思われる方もいらっしゃるかもしれない。そういうときこそ、この御言葉は希望だ。ここでは「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と命じられている。御言葉によって命じられているということは、祈れば仕事が与えられるということだ。「天のお父様、あなたがこの箇所で仕事に励みなさいと命じておられるからには、仕事を与えてくださると信じます!外部の人に証しになるために仕事を与えてください」そのように信じて祈れば、就職難であろうとも、神が仕事を与えてくださると信じる。
それでも、どうしても働くことができない人はいるだろう。そういう人に対して、クリスチャンは裁くことなく、手を開いて、惜しみない援助を施すことが求められる。しかし、働く力が与えられている人は、人に頼って怠けるのではなく、精神的にも経済的にも独立して、本当に助けを必要とするほかの人々を助けられるようにしなければならない。

13-18節は、イエス・キリストの再臨のときにどうなるのか。ここでの再臨は空中再臨。イエス・キリストはまず空中に再臨し、そこで先に召されたクリスチャンとそのとき地上にある教会をお迎えになる。二段階目としてイエス・キリストはイスラエルを反キリストから救うために地上再臨を果たすことになる。テサロニケの信徒への手紙に出てくる再臨のほとんどは空中再臨だ。

13-14節。テサロニケの信徒たちはイエス様の栄光の再臨の前に亡くなったクリスチャンが滅びてしまったのではないかと嘆き悲しんだ。その中には、迫害されて殉教した人もいたかもしれない。せっかく信仰を守り通したのに・・・。パウロは主の御言葉に基づいてそれを訂正する。イエス・キリストを信じずに死んだ人については、希望がない。葬式のときに嘆き悲しむのが当然だ。コヘレト9:3に神を知らない人にとって死が何かが書いてある。最も悪いのはすべての人が死ぬこと!だからコヘレトは虚しい虚しいと叫ぶ。死を前には絶望しかない!そして、神を知っている人は神を知らない人の状態がもっとひどいことを知っている。もしセカンドチャンスがなければ神を知らない人は裁きを受けることになる。それは心痛いことではあるが、主は正しい裁きをなさるお方なので、主にすべてをおゆだねするしかない。しかし、イエス・キリストを信じて眠りについた人には希望がある!イエス様を信じた人が死ぬと霊はパラダイスに行き、肉体は眠ったように土に還る。その人は空中再臨のとき、イエス様が死んで復活されたように、新しい栄光の体で復活する。ただちょっとタイミングが違うだけだ。イエス様は死んで三日目に復活されたが、クリスチャンは死んで数年、数百年ないし数千年後の空中再臨のときに復活する!肉体を火葬してしまったとか、骨も残っていないとか、そんなことは心配しなくていい。神は石ころからでもアブラハムの子孫を造れるとイエス様は言われた。クリスチャンが与えられるのは新しい栄光の体であって、古い体が完全に土に還っていても全く問題ない!もしその人が殉教したのであれば、天で最高の栄冠が待っている!
私たちは先に天に召されたクリスチャンについて、嘆き悲しむのではなく、うらやむべきだ。私たちには生きている限り戦いが続くが、その人の霊は楽園で楽しんでいる!その人の肉体は心地よい眠りに入り、復活を待っている!そして、実はキリストの空中再臨のときも、15-17節を見ると、キリストと顔と顔を合わせて会う順番が少しだけはやい。生きている間に携挙されるよりも少しだけ有利なのだ。
では、イエス・キリストの空中再臨まで私たちが生きていたら、どうなるのか?使徒パウロやテサロニケの信徒たちが再臨のときまで生きていると確信していたように、私たちもそのことを予期しておかなければならない。17節。そのときに地上にいるクリスチャンはみんな天に引き上げられる。死を経験することなしに栄光の体を着ることができるのだ!それはそれで素晴らしいことだ。そして、どちらにせよ、先に天に召されたクリスチャンにせよ、再臨のときまで生きているクリスチャンにせよ、共通しているのは、17節にある通り「いつまでも主と共にいることに」なる。もはや片時も離れることなく、愛するイエス・キリストとの交わりが永遠に続くのだ。死も数千年の時間もキリストと私たちを引き離すことはできない!福音を信じる者にはどう転んでもバッドエンドはない!私たちのエンディングは常にグッドエンドであり、この世の終わりによって終わらない栄光が始まる。

18節。イエス・キリストの再臨は、ゆるぎない希望だ。この信仰によって互いに励まし合おう。そして、その信仰によって、極端に走るのではなく、地に足の着いた落ち着いた生活、神に喜ばれる聖なる生活を歩む私たちになろう!アーメン。

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