神に喜ばれる宣教と誇るべき冠[Ⅰテサロニケ2章]

テサロニケの信徒への手紙一
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パウロは非難の余地のない模範的な宣教をしました(^^)/
※写真はテサロニカ王女へと読める碑文です。
※インターネット礼拝のメッセージだけの切り抜きです。

神に喜ばれる宣教と誇るべき冠[Ⅰテサロニケ2章]

神に喜ばれる宣教と誇るべき冠[Ⅰテサロニケ2章]

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【ノート】
1-12節で、パウロはひたすら、自分たちと自分たちの宣教が非難の余地のないものであることを弁明している。テサロニケの信徒たちの大多数はパウロたちを指導者として認めていた。しかし、テサロニケの信徒たちがどういう人たちに囲まれていたか考えてみよう。パウロをあしざまにののしるユダヤ人たちや14節で「あなたがたも同胞から苦しめられた」とあることからパウロを悪者と決めつけるギリシア人に囲まれていた。敵対者たちは当時そこかしこを巡回していた偽宗教家とパウロたちを同一視したのだ。そして、パウロたちについて、事実無根の誹謗中傷をしていた。散々悪口を言いまくっていたのだ。それらは確かに事実無根だったに違いない。しかし、教会の信徒の中にもそういう悪口を聞いて多少なりとも動揺したり、影響を受けたりする人がいただろう。パウロはそれを放置することができなかった。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」と書いてあるように悪い言葉がとんでもない悪影響を及ぼすこともある。パウロは自分の名誉のためとか、自己弁護をするためというよりは、テサロニケの信徒たちの信仰を守るために、弁明したのだ。もしパウロたちが悪人だと疑ったら、パウロたちが語った福音まで疑ってしまう!パウロは敵対者たちの話が妄想であり、悪魔からの嘘であることを事実に基づいてはっきりと述べている。それらはテサロニケの信徒たち自身がよく知っていることだった。だから、パウロは1-12節までで、「あなたがたが知っている通り」「覚えているでしょう」「あなたがたが証しし」というテサロニケの信徒たち自身の記憶にあることだということを6回も言っている。さらには、パウロは神に対しても潔白であることを示すために、自分たちが「神に認められ」ており、「神が証ししてくださる」ということも繰り返している。パウロは確かに潔白だったに違いない。むしろ誰もが模範とすべき伝道者だった。にもかかわらず敵対し、悪口を言う人がいた!このことから、私たちは心得なければならない。私たちは、決して福音を語る人や福音自体に対して、根拠のない批判をする人に耳をかしてはならない。世は理由もなく神に属する人を憎み、光を憎み、真理を憎むのだ。

パウロの弁明の内容から、福音宣教者としての優れた模範を見ることができる。1節。パウロたちがテサロニケに行ったのは無駄ではなかった!もし、パウロたちが敵対者たちの言うように偽宗教家なら無駄骨で終わったに違いないが、大勢のギリシア人が救われるという豊かな収穫が得られたことが、パウロたちの働きが神から祝福されたものであることを証明している。2節で、収穫という点だけでなく、パウロたちの福音宣教についての不屈の闘志からもパウロたちが本物であることがわかる。テサロニケに行く前、パウロたちはフィリピで鞭打たれ、投獄されるという憂き目にあった。敵対者たちはそのことに触れて悪く言っただろう。パウロはフィリピで政治犯として投獄された前科ものだ。犯罪者も同然のこの男に耳を傾けるべきではない。実際にはフィリピでの経験というのはパウロたちが本物であることを証明するものだ。もし偽宗教家であれば、困難に直面したら「割に合わない」と思い、それ以上の活動は断念していただろう。しかし、パウロたちの宣教は人間の宗教活動ではなく、神から与えられた使命だった。パウロたちは「神」に勇気づけられたので、テサロニケでも同じく反対にあいつつも「神」の福音を語ることができたのだ。

3-4節でパウロは福音宣教が純粋に神から来たものであることを説いている。3節にある3つの告発、「迷い」、「不純な動機」、「ごまかし」にはあたらなかった。迷いは悪い下心という意味がある。不純な動機は性的な不道徳について使われる。ごまかしは人をだますことを目的としたわるだくみという意味合いがある。それが当時の巡回宗教家たちの特徴だった。宗教家たちはよくできた教えを説くが、その心には不純なものが隠れていることが往々にある。そのグループの中で権力をふるうことが目的だったり、お金が目当てであったり、性的な快楽を目的としていたり、人からの歓心を得るために教えを曲げたり、もったいぶった教えや態度によって人からの注目を集めるが実は中身が空っぽだったりする。
これらはクリスチャンの福音宣教者にとっても無関係とはいえない。最初は純粋に神からの使命を全うしようと仕えていた人が、いつのまにか誘惑に陥って、不純なものにまみれていくこともある。絶対にそんなことにならないように私たちは気を付けなければならない。

パウロはそのような誘惑に決して陥らなかった。それでも、パウロは人間を喜ばせるために活動していると中傷する人がいた。パウロが律法主義を否定し、自由をもたらす福音を語ったからだろう。実際にはパウロは福音をゆだねてくださった神を喜ばせるために宣教していた。4節。パウロは神から信任を受けた者という自覚をもって、神に喜ばれることを動機としていた。福音宣教は神の子であるイエス・キリストが命を捨てて私たちのために成し遂げてくださった救いの業を伝えることだ。この貴い福音は全世界に伝わらなければならない。そうでなければ神の子の死が無駄になってしまう。神はこの福音を伝えるという重大な使命を天使にまかせることをなさらず、不完全で足りないところだらけの私たち人間に、クリスチャンにまかせてくださった。神はそれだけ私たちを信頼してくださっているのだ!この神からの信頼を決して裏切ってはならない!そこで、パウロはひたすら神に喜ばれようとする。心の思いや動機というのは、人間に対してはいくらでもだませてしまう。だからこそ偽宗教家たちがはびこって、純朴な人々を餌食にするのだ。しかし、心を吟味する神をだますことはできない。心を吟味される神に喜ばれるための宣教であれば、純粋な心を保つことができる。

5節と9節では、パウロたちの福音を伝えることを仕事として行い、何らかの形で収入を得ていて、実はぼろ儲けしていたのではないかという嫌疑がかけられている。海外のテレビ伝道者や巡回伝道者の中には、ものすごく上手に献金をつのる人たちがいる。ちょっと語ると会衆から莫大な金額をひねり出すことができる。それを良いことのために使うわけでもなく、全部自分のために使って贅沢三昧している人もいる。パウロもそうだったのではないか?誤解のないようにお伝えするが、福音を伝えることを職業とすることも、献金を受け取ることも全然悪いことではない。Ⅰテモテ5:17-18。実際にパウロもテサロニケにいるとき、フィリピの信徒たちからの献金を、感謝をもって受け取っている。しかし、テサロニケの信徒たちからは全然受け取らなかった。収入はテント造りをして得た。それはいったいなぜなのか?第一に、テサロニケの信徒たちに負担をかけないためだ。テサロニケ教会は開拓したばかりで、まだパウロたちの生活をまかなうだけの献金を募れる状況ではなかった。第二に、模範を見せるためだ。テサロニケの信徒への手紙の第二に出てくる内容ではあるが、テサロニケ教会の中にはどうせキリストの再臨によってもうすぐ世界が終わるのだから、という理由で働くのをやめて怠けてしまう人がいた。そういう態度を取る人が出るということをパウロたちは予期していたので、先手を打って模範を見せた。キリストの再臨に備える人は働く人だということを。10節。福音宣教とテント造りを両立するというのは大変な骨折りと労苦だ。しかし、それは可能である!イエス・キリストに献身する道を考えている方はいるか?それはすばらしいことだ。そういう方は、最初から「経済的に安定した教会に赴任しよう。初任給はいくら以上もらおう」、なんていう考えは一切捨てよう。それは献身ではない。パウロのように自給自足の宣教者から始めるといいだろう。パウロなんて牢獄に入れられるまでほとんどの期間自給自足だった!

6-8節の弁明からはパウロが人から偉大な人物として仰がれたいと願い、権威を振りかざす独裁者のようにふるまう者だという中傷を背後に見透かすことができる。使徒には確かに霊的な権威がある。しかし、本物の権威者はいざというとき以外には権威を使わない。実際にはパウロは霊的な子供であるテサロニケの人々を育てるために、三種類の役割を担った。人間が育つためには、友達と父親と母親が必要だ。厳しいだけでも、やさしいだけでも、同類だけでも健全に育たない。
彼らと同じ幼子のようになってへりくだり、わが子を愛する母親のように犠牲をおしまずにテサロニケの人々を愛し、11-12節では父親のように一人一人に呼び掛けて神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めた。そしてこれらは神が私たちに対してとられる態度でもある。神は人となって私たちの友となられた。神の愛は時に母親の愛のように包容力がある。イザヤ66:13。そして神は父なる神であって、私たちを御自分の子供として訓練してくださる。私たちの周囲の人間関係に欠けたところがあっても、神が補ってくださるだろう。神はそのようにバランスよく私たちを育てることで、私たちを御自身の国と栄光にあずからせようとしておられるのだ。
13節。1-12節で見透かすことのできる告発者たちの言葉に惑わされることなく、テサロニケの信徒たちはパウロたちの言葉を神の言葉として受け入れた。私たちが神の言葉として受け入れなければならないものは二つある。それは聖書と説教だ。聖書の内容は神やイエス・キリスト御自身の言葉だけではない。それでも、使徒パウロたちが語った言葉が「事実」神の言葉だったように、預言者や使徒を通して書かれた内容も神の言葉だ。そして、聖書についての説教、メッセージも間違いやすい人間を通して語られる言葉ではあるが、神の言葉として受け取るべきものなのだ。「良い話だ」とか、「感動的なお話だった」と言っているうちはまだ人間の言葉として受け取っているに過ぎないだろう。聖霊様が働かれるとき、人間が語っていながら神の言葉として受け止めることができるようになる。神の言葉として受け入れれば、その言葉は私たちの内で働くようになる。それは聞く人の生活を一変させるものとなる。心と耳を開いて聖書とメッセージを神の言葉として受け入れることができるようになろう。

テサロニケの信徒たちには、キリストを信じた報いとして、同じギリシア人からの迫害がやってきた。偶像崇拝を全然しなくなり、当時としてはおかしな新興宗教のように見えた福音を信じたので、ギリシア人たちは彼らを圧迫したのだ。それは実は喜ばしいことだった。14節。テサロニケ教会はエルサレムの初代教会と同じ経験をしたのだ!迫害はテサロニケ教会が正しい道を歩んでいる証拠だった。これからもこの道からそれてはならない。
15-16節でパウロは反対するユダヤ人たちの罪を指摘する。パウロのここでの言葉はイエス様も言われたことだ。イエス様はぶどう園のたとえの中で、ユダヤ人たちが預言者たちを次々と迫害して、最後には御子イエス・キリストを殺してしまうということを預言した。ユダヤ人たちはそれで飽き足らず、次にはイエス様が遣わされた使徒たちをも激しく迫害した。ユダヤ人たちは異邦人たちにも敵対し、同胞の中でもたくさんの派閥を作って敵対していたので、あらゆる人々と敵対していた。ユダヤ人たちは自分たちが救われないばかりか、異邦人が救われることを妨害して神にも敵対していた。彼らはサタンのように、他人を道連れに滅びようとしていたのだ。神に選ばれたはずの民のすさまじい神への反抗を見ることができる。その結末はクリスチャンに対する栄光の招きとは対照的であふれんばかりの罪の増加とあますところなく臨む神の怒りだ。迫害者たちが裁かれずに済むことはないので、クリスチャンは悔しい思いをせずにすむ。むしろ彼らに確実に臨む破滅を思って哀れに思うくらいだ。パウロ自身元迫害者であって、滅びゆく同胞のことを嘆いていることをローマの信徒への手紙で明かしている。
17-20節は熱望していたテサロニケ再訪問が果たせなかったことについて。パウロはテサロニケにもう一度訪問して信徒たちの顔を見たいと切に思っていたが、何度もサタンによって妨げられた。旅の危険や敵対者からの妨害、コリントでの諸問題など、様々な方法でサタンはパウロがテサロニケに行くのを妨害した。しかし、クリスチャンは絶対にサタンに妨げることができない方法で交わりをすることも、再会をすることもできる。

第一に、心によって交わりをすることができる。17節、顔を見ないというだけで心は離れていなかった。クリスチャンは祈りによって世界中の教会の信徒とつながることができる。それは私たちが神を見ることができないけれども交わることができるのと同じだ。心による交わりは現実だ。離れている兄弟姉妹のために日々祈り、心を一つにする者となろう。
第二に、キリストの再臨のときに再会することができる。クリスチャンの別れはいつも清々しいものだ。天国での再会が保証されているので、寂しくはない。テサロニケの信徒たちの存在はキリストの再臨のときに再会できる以上のものだった。キリストの再臨のとき、せっせと稼いだお金も、拡大した事業も、獲得したトロフィーも持っていくことができない。しかし、クリスチャンには持っていける冠がある。いつまでも残るものは、1章に出てきたテサロニケの信徒たちが持っていた信仰と希望と愛以外にもある。それは私たちが伝道して救われた人々だ。私たちの伝道を通して救われた人々はキリストの再臨のときに誇るべき冠となり、誉れをもたらすものとなる。キリストはそのことを褒めてくださるのだ!「よく私の福音をこの人々に伝えてくれた!よく彼らの救いのために働いてくれた!私は彼らのために死んだのだ!」イエス・キリストにとってそれは小さなことではない!あなたにはそのときに冠となる人はいるだろうか?冠となるであろう人々が大勢立てあげられるように、福音を伝える者となろう!アーメン。

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