主の日が盗人のように突然襲うことはない[Ⅰテサロニケ5章]

テサロニケの信徒への手紙一
スポンサーリンク

クリスチャンは終わりの時の神の裁きから救われています。
※インターネット礼拝のメッセージだけの切り抜きです。
※写真はテサロニケの地図です。

主の日が盗人のように突然襲うことはない[Ⅰテサロニケ5章]

主の日が盗人のように突然襲うことはない[Ⅰテサロニケ5章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【聖書箇所】
テサロニケの信徒への手紙一5:1-28
1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。
6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。
8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。
9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、
13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。
15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
19 “霊”の火を消してはいけません。
20 預言を軽んじてはいけません。
21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。
27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。
28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

【ノート】
4章で使徒パウロは、テサロニケの信徒たちの中に死んでしまったクリスチャンについて嘆き悲しむ人がいたので、先に天に召されたクリスチャンにはキリストの再臨の時に希望があるということを説明した。1-11節では、再臨の時期とどのように再臨を待ち望む姿勢について。この点についても、テサロニケの信徒たちの中には間違っている人がいた。再臨の時や時期について、なんとしても知りたいと思う人がいた。イエス・キリストはいつ再臨するのか?多くの人がそのことを知りたいと思う。イエス・キリスト御自身は御自分の再臨の時と時期について何とおっしゃったか。マタイ24:36。天使たちは霊的な世界について私たちよりはるかに多くのことを知っている。預言者ダニエルも、使徒ヨハネも幻の解釈を天使に求めた。しかし、天使たちは再臨の時期を知らない。また、地上に来られたイエス・キリストはその神として力を封じられていたとはいえ、キリストの本質は全知全能の神。父なる神が預言者たちを次々と遣わし、最後に御自分の子を遣わされたのが、イエス・キリスト。そのイエス・キリストすら再臨の時期を知らない。ただ父なる神しか知らず、その時が来るまで完全に封印された事柄だ。それであれば、誰も知らないし、知ることができないに違いない。それでも、知りたいと思い、無理に再臨の時期を知ろうとする人々がいる。その中のある人々は聖書に出てくる数字や預言、歴史的な重大事件の年表などをもとに独自の計算をし「何年何月何日にキリストは再臨する!」という。またある人々は悪霊にだまされて「私は神から何年何月何日にキリストが再臨するとひそかに教えてもらった」という。その人は天使たちよりもイエス・キリストよりも優れているのか?そのほかの人々は具体的な数字をあげる人々に追随して、熱狂する。その結果、実際にキリストが再臨して世界が終わったことがあるか?もちろんない!これらは何もかもだましごとだ。使徒パウロはテサロニケの信徒たちがだまされてしまわないように釘をさす。1-2節。ここからいくつかのことがわかる。
第一に、私たちは再臨の時と時期について決して知る必要はない。1節で「書き記す必要はありません」と書いてある。知る必要がないから隠されているのだ。私たちはただ、その時期が常に差し迫っているものとして認識すれば十分。
第二に、キリストの再臨の日は盗人が夜やってくるように訪れる。盗人が盗みにやってくるとき、「何年何月何日の何時何分に盗みに入ります」と予告するか?怪盗ルパンじゃあるまいし、そんな盗人は小説や漫画の中にしかいない!盗人は予告なしにやってくるのだ。
第三に、キリストの再臨の日は旧約聖書の「主の日」に重なる。旧約聖書の預言書では繰り返し「主の日」について言及されている。神の民の歴史上では、罪がはびこる時代が続いたあと、神の栄光に満ちた時代が訪れる。その二つの時代の境目にあるのが主の日だ。主の日はある日突然やってくる。そして主の日には神の裁きがなされ、罪が暴かれ、悪が破滅することになる。
3節で、世界中の神を知らない人々がキリストの再臨をどのように迎えるか。神を知らない多くの人々にとって、キリストの再臨の前というのは、物事が何もかもうまくいっている。経済は成長し、戦争の心配はなく、災害も疫病もない。それはコロナショックの前の世界の状況に似ているだろう。そこで人々は「無事だ!安全だ!」と偽りの平和を叫ぶが、キリストの再臨によって、急転直下、破滅に突き落とされることになる。それは妊婦の苦しみに例えられるもので、人間が経験できる苦しみのうちの最大のものであり、回避不可能なものである。そして、神を知らない人にとって大患難時代が生み出すものは永遠の死でしかない。

キリストの再臨のときに神を知らない人に臨む破滅について聞いて、震え上がる人々がテサロニケの信徒たちの中にはいた。自分たちも「主の日」にとんでもない災いに遭うのではないか!神を知らない人に臨む裁きを自分たちに適用して恐れおののいたのだ。私たちにも多かれ少なかれそういう経験があるのではないか。旧約聖書や黙示録の神の恐ろしい裁きが自分にも臨むのではないか!神を恐れる心を持つことは大事だが、神が私たちを御自分の子として愛してくださっていることを信頼する必要がある。
そこで、使徒パウロはテサロニケの信徒たちを安心させようとする。4-11節。テサロニケの信徒たちはほかの人々とは違うのだという。第一に、所属が違う。ほかの人々は暗闇に属しているが、クリスチャンはすべて光の子、昼の子だ。5節では「あなたがたはすべて光の子、昼の子だ」とある。テサロニケの信徒たちの中には、みだらな行いを避けることやまじめに仕事をすることについて、課題を抱えている人々もいた。そういう人々も含めてである。クリスチャンはみんな、光であるイエス・キリストに属する者であり、真理の光、福音の光を与えられている人であり、神の栄光に照らされている。
第二に、主の日はクリスチャンを襲うことはない。4節。盗人は夜の闇にまぎれてこっそり襲撃するが、光の中を歩むクリスチャンに対しては襲い掛かることができない。クリスチャンは裁きから救われている!イエス・キリストの再臨はクリスチャンにとってあくまでも希望であり、キリストと出会い、キリストといつまでも共にいることができるようになる日だ。9-10節。主が私たちのために死なれたのは、裁きから救われて、永遠に主と共にいるようになるためだ。クリスチャンは同時に神を知らない人に臨む破滅とは全く関係がない。大患難前携挙説の根拠の一つはここにある。主の日の破滅が大患難時代のことであれば、クリスチャンがそこから何の害も受けずに携挙されるに違いない。
第三に、目を覚ましている。6-7節。テサロニケの信徒たちが神を知らない人たちと違ったのは、キリストの再臨に目を覚まして備えている点だ。神を知らない人はキリストの再臨を信じず、思い上がって「無事だ!安全だ!」と叫んだ。彼らは夜の暗闇の中で霊的に完全に眠りこけている状態で、世が与える酒に酔いしれていて罪に無感覚になり、あらゆる神の警告に気づかない。それで突然破滅が襲う。しかし、再臨に備えるクリスチャンはそのように自分たちの世的な繁栄を謳歌して思い上がることなく、身を慎むことを知っている。信仰と愛の胸当てと救いの希望の兜によって、霊的に武装している。信仰と希望と愛、それらはテサロニケの信徒たちが確かに持っているとパウロが褒めたものだ。パウロは言う。「あなたがたは再臨のときの裁きを恐れているが、再臨のときに裁きにあうのは、再臨を信じていないので思い上がっている人々だ。あなたがたはそのように再臨に備えているから大丈夫ではないか!」あなたはキリストの再臨に備えているか?いつも目を覚まして、慎み深く生きる者となろう。
クリスチャンはほかの人々とは違う!そのように安心させた上で、だからといって信仰の歩みを止めてしまわないように励ます。11節。再臨信仰は私たちに惑わしを与えるものでも裁きを恐れさせるものでもなく、完全な救いの実現の希望をにぎりしめて、その時に備えて、霊的に成長し続けるように促すものだ。

12-22節で最後に信仰生活の上での非常に実際的で有益な勧めを次々と与える。一つ一つが宝石のように貴い教えであり、クリスチャンがよく心に留めなければならないことだ。まず12-13節でクリスチャンの指導者を尊敬しなさいと勧められている。その理由は労苦をしてくれているからだ。彼らは自分の人生だけでなく、ほかの人の永遠の人生について責任を持たなければならない。その人が何かの役職についているからではなく、その労苦が尊敬に値し、働きがその指導者を優れた者にする。その指導に反発するのではなく、愛をもって心底尊敬しなければならない。
13節の末尾で、互いに平和に過ごしなさいと命じられている。これは指導者に対する尊敬によって成し遂げられる。私たちの主の福音は平和の福音であって、イエス・キリストの御名によってあらゆる敵意の隔ての壁を取り壊す。憎しみと争いが絶えない教会というのは福音と矛盾している。人々を遠ざける。誰もわざわざそのような集会にいって心をかき回されたくない。教会に主による平和があるときに、人々がこぞって導かれるようになる。
14節では4種類の人々に対して適切に対応するように勧められている。これは指導者の役割だ。使徒パウロは人々に対して、指導者を尊敬して平和に過ごせるようにすることを勧めた上で、指導者になることを勧めている。性格や賜物が違っても、すべての人は指導者になることが可能だ。初代教会でもパウロとバルナバでは全く性格が違ったが、二人とも良い指導者だった。あなたもぜひ教会の指導者となり、人々を導いてほしい。
第一は怠けている者たちを戒めなさい。これは隊列を離れた兵卒という意味の言葉が使われている。再臨を理由に仕事をやめた人や指導者いうことを全然きかない人がこれにあたる。こういう人々には最も厳しい態度をとる必要がある。
第二は気落ちしている者たちを励ましなさい。気落ちしている者は小心者という意味。いつも悲観的に考え、最悪な事態を想像して心くじけている人のこと。迫害や再臨に対する悲観的な見方はこの人たちから出たのだろう。荒れ野を40年間さまよったイスラエルがそうだったように悲観的な考えは伝染しやすい。しかし、クリスチャンには常に信仰による勇気を持つ人たちがいて、彼らを励まし、悲観よりも強い伝染力の励ましをすることができる。クリスチャンの指導者のすることは彼らを除外することでなく励ますこと。
第三は弱い者たちを助けなさい。これは体が弱い病人や経済的弱者、心が弱い人などが含まれる。彼らにはそれぞれ必要なサポートをして強める。
第四はすべての人に対して忍耐強く接しなさい。先にあげた三種類の人たちは指導者と比べるといろいろと欠けたところのある人たちだ。そういう人たちを見ていると肉の性質は黙っていられなくなる。しかし、御霊の結ぶ実である愛は忍耐強い。戒めるにしても励ますにしても助けるにしても、イライラしたり、怒りをぶちまけたりしてはならない。忍耐をもってしないとせっかくの良い働きが台無しになる。
15節。私たちの態度は相手の態度に左右されない。相手が悪で対応したとしても、私たちには善の一択しかない。私たちは「いつも」善を行うように努める。
そしてクリスチャンの態度はほかの人によってだけでなく、環境や状況によって変わらないことが求められている。16-18節は神がクリスチャンに望んでいること。「これこそ」と書いてある。神がわしたちに強く望んでおられることは何か?私はクリスチャンになる前、神が私に望むことは聖書ではきっと献金をすることとか、ボランティア活動をすることと書いてあるに違いないと思っていた。全然違っていた。神はどんな状況でも3つのことを行うことを望んでおられる。それは私たちの持ち物や働きに関係がなかった。そしてこの三つを行う人は無敵であって、誰もやっつけることはできない!16節、いつも喜んでいなさい。いつも喜ぶことができるのは、あなたのための死んでくださったイエス様がいつも共にいてくださるからだ。その方は決してあなたを離れず、あなたを見捨てない。だから、この喜びを奪い去ることができる者は誰もいない。17節、絶えず祈りなさい。まず私たちは何をしているときも、仕事中も食事中も、絶えず神様に心を向け続ける。それと同時に毎日絶えず口を開いて祈りに集中する時間を持つ。その両方が大事だ。神と絶えず交わることがいつも喜び、どんなことにも感謝することにつながる。18節、どんなことにも感謝しなさい。感謝ができるのは成熟した人で、感謝は意識して行わないとできない。イエス・キリストの十字架に感謝しよう!これは一生涯感謝し続けることだ。良いことがあれば当然そのことについて感謝しよう。祈りが答えられた!仕事がうまくいった!そのことを感謝する。特別なことだけでなく平凡なことにも感謝しよう。霊肉の健康が守られていることに感謝。三食食べられることに感謝。仕事ができることに感謝。人間関係に感謝。そして、一見悪いように見えることにも信仰を働かせて感謝しよう。なぜなら神は神を愛する者に対して万事を益としてくださるからだ。悪からも良い結果がたくさん生まれる。あとあと、悪が善に変わることになることを見ることができる。神には不思議な計画があるのだ。
19節。聖霊様の火で燃えていると、私たちは神と人のために力強く仕える。霊に燃えて主に仕えなさい(ローマ12:11)と書いてある。直前の喜びと祈りと感謝の三拍子は聖霊様で心を燃やされ続けるための薪となる!それに加えて私たちは聖霊様を悲しませること、悪い言葉を口にしたり、心を悪い思いで満たしたりすることで聖霊様の火を消火してはならない。20節、聖霊様に燃やされていることと同様に大事なのは聖霊の賜物の一つの預言だ。聖書の御言葉のディボーションによって直接与えられる神からの言葉、それに加えて講壇から語られる説教など、ほかのクリスチャンからの御言葉にも聞き従わなければならない。
聖霊様の賜物はすばらしいもので、教会を建てあげるために不可欠だ。しかし、その分この分野には偽物が巧妙に入り込んでくることがある。再臨について様々な考えが飛び交って混乱していたテサロニケの信徒たちはなおさらのこと注意が必要だ。だから、21-22節で、すべてを吟味して良いものを大事にし、悪いものから遠ざかるように勧められている。しかし、どうやって見分けることができるのか?すでに語られた本物の神の御言葉は本物と偽物を見分ける最大の武器だ。本物は本物を知ることによって見分けられる。霊を見分ける賜物も聖霊の賜物の一つだ。私たちが求めるなら与えられる。実によって見分けられる。良い教えは良い実を結び、悪い教えは悪い実を結ぶだろう。

23-24節はパウロの祈り。平和の神は、私たちを愛して十字架によって御自身と私たちとを和解させてくださったお方である点が強調されている言葉だ。パウロは平和の神がテサロニケの信徒たちを全く聖なる者、非の打ち所がない者としてくださることを願っている。罪の赦しも、罪から清められて聖なる者となることも、全面的に神が私たちになさしめてくださる御業だ。私たちは主の恵みによって完全な者となることができる。それは全面的に神の真実さに依存する。またこの祈りの中で、「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り」とある。霊、魂、肉体というのは、人間を構成する三つの要素だ。信仰について、私たちは三要素のうち、霊だけに焦点をあてて守られるように願いがちで、心や体についての配慮が足りないことがある。しかし、平和の神は私たちの全存在を完全に救ってくださるお方だ。神は私たちの肉体や心をも癒し、解放し、やがてはキリストの再臨のときに完全にしてくださる。
25節でパウロは私たちのためにも祈ってくださいと頼む。パウロもパウロが祈ったような祈りやそのほかの祈りを必要としていた。だれもが祈りを必要としている。一人の祈りではなく、二人が地上で心を一つにして祈るならその祈りは答えられると主は約束された。クリスチャンは互いのための祈りを網目のように張り巡らして、互いに支え合うのである。
26節。これは初代教会で行われていた習慣。これがどういうものかは具体的に書かれていないが、聖なる口づけなので、聖霊による一致と清い兄弟愛を表現する挨拶だったと考えられている。
27節。それはこの手紙も使徒が宣教で語った言葉と同じく神の言葉だからだ。私たちは聖書を読み、ほかのすべての兄弟姉妹たちが聖書を読むように励ますように命じられている。
28節。恵みを祈る挨拶で始まった手紙は恵みの祈りによって閉じられる。それはクリスチャンライフと同じだ。クリスチャンライフは救いからキリストの再臨の時の完成に至るまで、最初から最後まで恵みを通して実現するのだ。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋では教会と聖書勉強会の集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/t
i/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました