主イエスは燃え盛る火の中を来られる[Ⅱテサロニケ1章]

テサロニケの信徒への手紙二
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揺れ動くテサロニケの信徒たちのための励ましの言葉です。
※インターネット礼拝のメッセージだけ切り抜いたものです。

主イエスは燃え盛る火の中を来られる[Ⅱテサロニケ1章]

主イエスは燃え盛る火の中を来られる[Ⅱテサロニケ1章]

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【ノート】
テサロニケの信徒への手紙の第二はテサロニケの信徒への手紙の第一が書かれてから何か月か経過したあと、パウロ、シラス、テモテによってコリントで書かれた。テサロニケからパウロたち宛に手紙が来た。そこには、以前のテモテからの知らせで聞いた、再臨を理由に仕事をやめてしまった問題の人々がまだ悔い改めず、怠けていることが書かれていた。そして、信徒たちの中には惑わしの霊による偽の預言やパウロたちが書き送ったというテサロニケの信徒への手紙第一を根拠に、「主の日」はすでに来てしまったかのように言う人がいた。それで教会は揺れに揺れていた。信じたばかりの人は多くの惑わしに対して無防備なのだ。惑わしから解放して安心させるために書かれたテサロニケの信徒への手紙第一すら、惑わしの根拠になってしまう。

テサロニケの信徒への手紙第一をよく学べば、誰もそこから「主の日」はすでに来てしまった!なんて思わない。そう思ってしまうのは、多くの人が、聖書に何が書かれているか、私に対する神の御心は何かということを読み解く代わりに、自分の考えと一致するところだけに目を止めて、「やっぱり聖書にもこう書いてある!」としてしまうからだ。自分の考えを聖書に投影しているのだ。それで神が私たちに語ろうとしていることと正反対な結論を出してしまう。そうならないためには、私たちは聖書を縦にも横にも奥にも読んでいく必要がある。聖書を縦に読む。つまり、聖書全体から一定の主題を抽出して学ぶことと、聖書を創世記から黙示録まで通読することと、聖書のある個所に焦点をあてて深く読み込んで生活に適用する黙想をすることである。そうすれば、大きく脱線してしまうことがなくなる。

第一の手紙のあまり効果がなかっただけでなく、逆に惑わしに利用されてしまった。それでもパウロたちは落胆せず、再度手紙を書いた。一度だめだったからといってテサロニケ教会を見捨てることはありえない。神の愛に突き動かされて、何とか誤解を解き、テサロニケの信徒たちの動揺を静め、悔い改めないでいる人には悔い改めに導こうと、パウロたちは再び筆をとる。神の愛は私たちがあきらめることをあきらめさせる。神があきらめないかぎり、私たちは隣人を助けることをあきらめることができないが、神は決してあきらめないからだ。
1節。書き始めは第一とほぼ一緒。差出人は教会を開拓した三人のパウロ、シルワノことシラス、テモテ。この三人が一緒に働いたのは第二次宣教旅行のだけだ。シラスはもともと初代エルサレム教会の預言者だったが、ペトロの手紙第一にもペトロの同労者として登場するので、第二次宣教旅行の後、再びエルサレム教会の使徒たちと共に働くことになったのだろう。第一の手紙と少し違うのは、第二の手紙では、「わたしたちの」父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へとして、「わたしたちの」というのを付け加えている。2節でも「わたしたちの」というのが付け加えられている。ほかにも8節でも11節でも12節でも神に対して「わたしたちの」がついている。テサロニケの信徒たちは教会を開拓し、世界宣教を最前線で続けているパウロたちと同じ父なる神と主イエス・キリストに対する信仰を持っていた!だから、決して動揺してはならないのだ。それは、私たちもそうだ。あなたは父なる神と主イエス・キリストを信じているか?そうであれば、あなたはパウロ、シラス、テモテと同じ信仰を持ち、同じように救われている。私たちは決して動揺してはならない。
2節はあいさつ。日本では暑中見舞い、寒中見舞いということで、暑いですねとか寒いですねとか、変わりやすい気候を挨拶で用いる。まあそれを否定はしない。しかし、クリスチャンにはもっと素敵な挨拶がある。永遠に変わることのない、父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように!恵みはイエス・キリストの十字架の贖いによって無償で与えられる救い、平和は恵みによって罪赦された者が神と人との間で築くことができる関係。ハレルヤ!私たちは第一声で発する言葉までが神の賜物に対する感謝と賛美によるものなのだ。
3-5節では、パウロたちはテサロニケの信徒たちの優れた点をほめて、励ます。問題点を指摘して戒める前にまずテサロニケの信徒たちの優れた点を認めることで、後での戒めを聞き入れやすくした。そこには問題のある人物たちがいたにせよ、一緒くたに戒めるのは良くない。動揺している彼らに必要なのはまずは励ましだ。パウロたちは彼らの大部分がつい最近まで神を知らない異邦人であって、たった三週間しか牧会を受けなかった教会であることを忘れなかった。多少の問題があることは致し方ない。むしろ、彼らは多くの点で感動的なほどよくやっており、短期間で目覚ましい信仰成長を遂げ、互いに愛を実践していたのは確かだ。パウロたちはそのことを神に感謝せずにはいられなかった。4-5節では、迫害と苦難の意味を説明して励ます。意味を知ることは励ましになる。テサロニケの信徒たちは福音に反対するユダヤ人たちや同胞たちから迫害されていた。テサロニケの信徒たちはそれによく耐えていたが、迫害に耐えることが有意義であることを知ればますます喜んで耐えることができる。

第一に、迫害と苦難は忍耐と信仰を示す機会となる。神の国のために先頭にたって働いている人を除けば、ほとんどのクリスチャンにはその信仰がどれほどのものであるか発揮する機会、証明する機会はない。教会に対する迫害と苦難は、すべてのクリスチャンにその機会を否応なしに与えるものである。それは教会を目覚めさせ、信仰を底上げさせることにつながる。それは古代のローマ帝国の教会が経験したし、現代では中国の家の教会やインドネシアの教会が経験した。ローマ5:3-5。パウロはなぜ苦難によって教会が成長することを知っていたのか?それは自分の経験だけでなく、テサロニケの信徒たちによる。テサロニケの信徒たちが信仰と愛において優れた者となっていた理由は、再臨信仰のほかには、迫害と苦難だ。迫害と苦難は信徒の信仰を純化させ、本物と証明するものであり、成長させるものでもある。日本の教会が目覚めるためにも、迫害が必要かもしれない。それがリバイバルにつながるなら、日本にも迫害があるように求めようではないか。
第二に、迫害と苦難は誉れをもたらす。パウロたちはテサロニケの信徒たちのことをことあるごとに神の諸教会に自慢した。コリント教会に対して自慢しただろうし、ほかの教会から旅してきた人に対しても自慢した。テサロニケの信徒たちは迫害を受けることで神の諸教会の中でも優れたものとなった。迫害と苦難に耐えることは、私たちに誉れをもたらすもの、私たちの勲章なのだ。イエス・キリストの御体には手と脇腹に刺し傷が残っている。それらの傷は私たちへの愛のしるしだ。同じように私たちが迫害によって体や心に傷を受けるなら、それらの傷は主への愛のしるしだ。
第三に、迫害と苦難は神の判定が正しいという証拠になる。神の判定はいつも正しい!神の判定に証拠なんていらない。にもかかわらず、弱い人間は証拠を求める。救われたばかりの人は時々神の判定を疑う。「イエス・キリストを信じたけど、本当に自分は救われているのか?本当に天国に行けるのか?」それはその人を天地創造の前から選び、天国行きとした神の判定が正しいのか疑問に思っているのだ。テサロニケの信徒たちの中にもそういう人がいて、イエス・キリストを信じたけど、「主の日」に神に罪を裁かれるかもしれないと恐れた。本当は証拠なんて何もいらない!でもあえて証拠を求めるなら、テサロニケの信徒たちについていえば、迫害と苦難に耐えていることが何よりの証拠だ!神の国のために苦しむ人が神の国に属しているのは当然だ!迫害の苦しみを耐え忍ぶことは、私たちに救いの確たる根拠を与え、不信仰を一掃するものとなる。

迫害を受けたことがあるか?もしあれば、ハレルヤ!それは成長と誉れと証拠をもたらすものだ。喜ぼう。もしなければ、それはそれで守られていて感謝だが、ちょっと寂しいものがある。確実に迫害を受けることができる方法がある。それは、神の国のためにすべてを捨てて主に従うことだ。使徒パウロが多くの迫害を受けたように、大宣教命令の第一線で活躍するクリスチャンは必ず迫害を受ける。そうすれば、私たちは昔の使徒たちや預言者たちと同じものとなることができる。
6-12節は神の人間に対する正しい取り扱い。5節で「神の判定が正しいという証拠」だとあるが、で6節の頭でも、「神は正しいことを行われます」と繰り返されている。迫害は多くの点で教会に益となるが、神の人間に対する取り扱いに疑問を持つ人もいるだろう。神を完全に信頼していない人はよく「神がいるならなぜ?」という疑問を持つ。迫害に直面したテサロニケの信徒たちの中にも、内心、「正義を行われる神がいるなら、なぜ神は、神を愛するクリスチャンが迫害を受けて苦しめられることを許されるのか?なぜ神は、神を憎んでクリスチャンを迫害するとんでもない人が罰せられずにすむようにされているのか?」と疑問に思う人もいた。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと命じられてはいるが、それはそれとして、神が正義をなさることを求めたい。黙示録で殉教した人々の魂たちは神に血の復讐を求めた。誰もが神に対して正義を求める。神は正義をなさるべきではないのか?その疑問の答えは非常にシンプルだ。神は正義をなさる。神は正しいことを行われる。だから、ひたすら神に信頼しなさい!すべての人が自分のこの世での人生の報いを受けることになる。神は公平に報いを与える。クリスチャンを苦しめている迫害者には苦しみをもって報い、7節、主のために苦しみを受けているクリスチャンには休息をもって報いてくださる。私たちは天国で永遠の休息を味わうことができる。迫害や労苦があって大変なのはこの世だけだ。主の報いは公平なので、たくさん苦労した人ほど主は深い休息を与えてくださる。熱心に働いた人ほど熟睡できるように心地良い休息が待っている。

報いはいつ与えられるのか?この世で生きている間にある程度与えられる人もいるが、すべての人に完全な形で実現するのはイエス・キリストの再臨の時だ。7節後半。主イエスは力強い天使たちを率いている。一人の天使ですらアッシリアの軍隊を壊滅する力があるが、それらの天使の中でも特に力強い天使たちを引き連れている。主イエスが天使たちを率いるのはすべての力強い天使たちよりも力強いからだ。8-9節。燃え盛る火はシナイ山で律法を与えるために、主が火の中を山の上に降られたときにも見られたように、神の激しい臨在と呵責のない裁きの性質を現す。イスラエルの民がそれを見て恐れおののいて遠ざかったように、罪びとたちは主イエスの御前に立つとき、恐れおののく。しかし、決して罰から逃げることができない。罪びとたちが罰を受ける理由は何か?罪びとたちが裁かれるのは人殺しをしたからでも、強盗をしたからでも、不倫をしたからでもない。罪びとたちが裁かれるのは、主イエスの福音に聞き従わないからだ。すべての人は罪びとである。ただ福音だけが、罪からの救いをもたらす神の力だ。その福音を拒むことは最悪な罪だ!自分は親孝行者で、自分は人様に迷惑をかけず、自分は社会貢献活動をし、人並み以上の水準で生きてきたといったところで、福音を拒むなら最悪の罪びとだ!汚れた人間の自己満足でする良い行いは、神の御前で何の役にも立たない。「それなり」の人生はその人を罪の罰から救うことはできない。福音に背を向ける限り、その人は罪を認めずに神に背を向けて自ら地獄を力強く選択する人だ。その刑罰の内容は、永遠に主の御顔と栄光の輝きから完全に切り離されることだ。神を信じない人でも、この世では神から良いものを受けており、わずかに神の栄光の輝きに照らされている。それを全部失った場所で永遠に過ごすことになる。地獄が苦しいのはそこに神が全くおられないからだ。そこにはほんのわずかな希望の光も見出すことができない。もし、あなたがまだ罪を悔い改めてイエス・キリストを信じたことがないのであれば、いま、イエス・キリストをはっきり信じてこの永遠の破滅から救われることをおすすめする。

10節はすべてのクリスチャンが受ける報い。主はクリスチャンの間であがめられ、ほめたたえられる。報いは礼拝だ!良い者の源である神を礼拝できる!天国がすばらしいのは神が目の前におられるからだ!ハレルヤ!神を礼拝することに人間の幸せがある。テサロニケの信徒たちもこの報いを受けることができる。それはなぜか?迫害に耐えたからか?それは証拠となったが、天国の直接の理由ではない。「あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたから」だ。つまり、福音を信じたからだ。私たちが罪から救われるためには、ただ福音を信じさえすればよいのだ。ただそれだけいい。ハレルヤ!福音が良い知らせなのはそのためだ!誰でも信じるだけで恵みにより救われることができる!福音に対する態度が永遠を決めることになる。
テサロニケの信徒たちは信じて救われたばかりだったが、すぐにキリストが再臨して世界が終わることを願っていた。しかし、クリスチャンの恵みの歩みは信じて救われて、それがすべて、それで終わり、あとは死ぬかキリストが再臨するかという次元のものではない。11節はパウロの祈り。私たちの救いには続きがある。福音を信じて救われた後、私たちは神の国に入るまで、招きにふさわしい者に整えられ、神の御心を願うようになり、信仰の働きを成し遂げるように歩み続ける。それは御力によってのみ可能である。だから、パウロがここで祈っているように御力を信じて求める祈りが必要だ。
そのように御力によって変えられ、信仰の働きを成就していただくのは何のためか。12節。パウロの激励は最高の報いによってしめくくられる。これは神の招きにこたえて恵みによって行けるところまで行った人に与えられる報い。ここでは「主があなたによって、あなたが主によって」栄光を受けるということが書いてある。キリストの栄光が私たちによって現わされ、私たちの栄光がキリストによって現わされるということだ。ええ?私たちの栄光がキリストによって現わされていいのか?それほどキリストとクリスチャンの結びつきは深いのだ。ここに大きな特権と責任がある。キリストに私たちの栄光がある!ハレルヤ!これはもったいない特権だ。そして私たちの中にキリストの栄光がある。私たちは、御力によって信仰の働きを成就してキリストと共に栄光を受けることもできれば、残念な人生を送ることもできてしまう。あなたはどちらが良いか?キリストと共に栄光を受ける生き方かキリストの栄光を全然現さない生き方か。
恵みによってキリストと共に栄光にあずかるものとなろう。

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