働きたくない者は食べてはならない[Ⅱテサロニケ3章]

テサロニケの信徒への手紙二
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日本でも用いられていることわざのもととなった箇所です。
※インターネット礼拝のメッセージだけを切り抜いたものです。

働きたくない者は食べてはならない[Ⅱテサロニケ3章]

働きたくない者は食べてはならない[Ⅱテサロニケ3章]

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【ノート】
パウロは手紙をしめくくるにあたって1-2節で祈りを依頼している。他人の祈りが必要ないほど霊的高みにいるという人は誰もいない。むしろ、霊的に成熟すればするほど、いろいろな人からの祈りの助けなしには前進することが困難であることを知っている。悪霊が狙うのは教会の指導者だ。指導者が倒れれば、ダメージが大きい。だから、私たちは特に教会の指導者のために祈る必要がある。

パウロの祈り課題は2つ。第一は実り。1節。テサロニケでそうだったように、パウロたちのいるコリントやこれから行く場所でも御言葉がすみやかに宣べ伝えられ、あがめられるように。御言葉はどこでもすみやかに宣べ伝えられなければならない。私たちは悠長なことを言ってはいられない。このインターネット礼拝は約1時間だ。世界人口時計というアプリによると、インターネット礼拝の1時間の間でも約16000人の赤ん坊が世界中で生まれている。彼らに福音を届けることはできるだろうか?そして約7000人の人がなくなっている。彼らは福音を聞く機会があっただろうか?効果的に宣教することはクリスチャンにとって常に差し迫った課題だ。鍵は聖霊様に突き動かされて果敢に宣教に取り組むことと、祈りのサポートである。少なくとも私たちは、祈りすらせず、滅びようとしている人々に無関心ということがあってはならない。

第二は守り。2節。道を外れた悪人どもから守られるように。宣教には迫害がつきものだが、神に長く用いられるためには、迫害から逃れることが必要だ。イエス・キリストは一つの街で迫害されたらほかの街に逃げなさいと、迫害を回避するように命じられた。迫害者からの暴力や巧妙な罠から逃れるためには、神の超自然的な介入を祈ることが最善である。

道を外れた悪人どもも含めてすべての人がパウロたちの宣教の対象だった。しかし、悲しいことに、「すべての人に、信仰があるわけではない」。どんなに福音を伝えても、神聖なものを踏みにじる犬、真珠を踏みにじる豚のように、反発してかみついてくる人がいる。そして最後まで悔い改めないで滅んでしまう人はいる。
3-5節はまた受ける側と与える側の立場が逆になり、パウロからのテサロニケの信徒への励ましと祈り。パウロたちが直面していた迫害の危険は、テサロニケの信徒たちにもあてはまることだった。そこで、パウロはすぐさま励ます。3節、道の外れた悪人は存在するが、「主」は真実な方なので、必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださる。だから、悪人を恐れることはない。

しかし、外にいる悪人からの邪魔がなかったとしても、自分の罪性、特に怠けによって自滅してしまうことはある。そうならないように、4節の通り、主はパウロたちが命じたことを実行させてくださり、実行させ続けてくださる。主はクリスチャンに善い行動を起こさせ、善い行動を続けさせてくださる。
5節、パウロは2つのことを祈る。第一に主が、テサロニケの信徒たちに神の愛がいかに堅固かを悟らせ、啓示してくださるように。いつでもどこにいても神の愛の御腕に抱かれているということを悟ることは、私たちの安全を保証する。第二にキリストの忍耐をもってキリストの再臨を待ち望むことができるように。キリストの忍耐は十字架をも耐える。つまり、クリスチャンはすべての人が音を上げてしまい、倒れてしまう時ですら、キリストの忍耐を覚えて信仰に立ち続けることができる。その忍耐をもってキリストの再臨も待つならば、間違った極端な行動をとることは決してない。

6節からパウロは主イエス・キリストの御名によって命令する。これから話すことは神の命令であって絶対服従しなければならないということだ。6-15節で怠惰な生活をしている者たちを避けるように警告する。怠惰は、原語ではアタクトースで、第一の手紙の5:14に出てきた「怠けている者」と同じ。隊列を離れた兵卒を意味する言葉で、しまりのない無秩序な生活をしている人という意味。テサロニケの信徒たちの中には再臨について熱狂するあまり、仕事をやめてしまった人々がいた。彼らは指導者たちのいうことにちっとも従わない。

第一の手紙ではパウロたちが模範を示して働いたことを思い起こさせ、それに倣って自分の手で働くように命じた。指導者たちには、彼らを「戒めなさい」と最も厳しい態度をとるように勧めた。その同じ人々がまだ仕事をせずに人々の好意につけこんで物乞いをしていた。今でいうところのニート。しかも、親ではなく教会に頼るニートだ。第一の手紙を書いてから数か月から1年程度経っていたが、彼らは少しも変わらなかった。11節。このことから、怠けている人が変わるのは最も難しいことだということがわかる。怠けていると怠け癖がついてしまう。一度サボると二度三度はもっとすんなりサボるようになり、やがては常習犯になってしまう。しかし、怠けていると当然人から責められるので、いろいろと言い訳をする。しまいには怠けることについて、言い訳の達人になる!怠け者の言い訳が箴言に出てくる。箴言22:13。そんなわけないでしょう!そんな都合よく家の外にライオンがいたら命がいくつあっても足りない!でももし本当に外にライオンがいたら大変だ。怠け者はそういうふうに物事をなんでも大袈裟にとらえ、「自分は大変な状況にいる!いまはとても働いている場合じゃない!」という。本当にライオンがいたら大変だが、怠け者はそういう大変なものを怠けるための口実に利用しているのだ。テサロニケ教会の怠け者にとっては、18番の口実は再臨だった。「イエス・キリストがまもなく再臨するのに、仕事をしている場合じゃない!」最初は怠け者たちも単純に再臨によって動揺して仕事をやめるという極端な行動をとってしまったのかもしれない。しかし、一度他人のお金で生活することに味をしめるともうやめられない!それで、内心怠けたいという心によって悟ることににぶかった人もいただろう。そういう人たちはパウロたちが手紙で再臨について正しく教えても全然聞く耳を持たない。再臨という怠ける口実を手放したくない!そこであれこれや再臨について騒ぎ立て、かき回し、なんとか怠け続けることを正当化しようとした。主イエス・キリストが再臨されるということは神が私たちに与えてくださった貴い約束であり、生活態度を改めないための口実にしてよいものではない。
私たちも、そのように神からの貴い賜物を、怠けるための口実にしてしまってはならない。永遠の選び、恵みによる救い、キリスト者の自由といったすばらしい賜物は、私たちが生活の中で果たす義務を含めてすべてのことを熱心に行うことを後押しするものだ。大変な状況、環境、過去のトラウマ、ハンディキャップといったものを、いつまでも怠け続けるための口実にしてしまってもならない。神はいやしてくださる!神は状況、環境を超越した平和を与えてくださる!私たちはいつまでも悲劇の主人公のように打ちひしがれてしまってならない。私たちは主にあって問題を克服することができる!

怠けることは癖になり、味をしめるとやめられなくなる。それはそうならないように、私たちは怠ける誘惑を全力で断ち切らなければならない。でももし勤勉であろうと決心している隣にこういう人がいたらどうだろうか?「仕事なんてしなくていい!イエス・キリストがもうすぐ来るのにそんなことする必要ないだろう?神はマナをふらせて私たちを養ってくれるさ」揺さぶられる!つまずきになる!だから、主イエス・キリストの御名で命じる。6節「怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」。悪い影響を受けてしまわないためだ。教会は交わりの健全性を保つために、従わない人々にペナルティーを科すことが時には必要だ。ここでは交わりの輪から除外するというもの。過去に教会でとられてきた事例としては、聖餐にあずかる権利をはく奪すること、教会員としての資格をはく奪し、教会の建物に出入りすることを禁止することなどがある。心痛いことではあるが、そういうことをしないと教会はカオス状態になってしまうのだ。

7-9節は、パウロたちの模範。テサロニケの信徒たちは、経済生活をどのようにすればいいのかということについて、パウロたちが示した模範によってよく知っているはずだった。伝道者というのは忙しい!特にパウロたちは、三週間という短い期間で多くの回心者を生んでいたので、なおさらそれらの人々を導くのが大変だっただろう。安息日以外もあちこち引っ張りだこになって教えていたに違いないのだ。回心者たちから援助を受ければ、生活の心配をせずに宣教に集中することができる。それは当然の権利なので働かないための言い訳ではない。そもそも宣教の働きこそが彼らの本分だった。援助を受けた方が良いとする理由はたくさんあった。ところが、パウロたちはただでさえ宣教で忙しいのに、宣教の合間を縫ってはテント造りをして、自分たちの手で稼いだ。毎日仕事をダブルヘッダーで入れるような生活をしていたのだ。これはきつい!すべては9節「あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すため」だ。テサロニケの信徒たちは私たちが持っているような聖書をもっていなかった。まだ新約聖書が完成しておらず、クリスチャンの生活はどういうものなのか、ということを読むことはできなかった。読むことはできなくても見ることはできた。テサロニケ教会にとっての聖書は、パウロたちだった。1テサロニケ1:6-7。パウロたちに倣うことは主に倣うことだった。テサロニケ教会が信仰と希望と愛に特徴づけられ、ギリシャ全土の模範的な教会になることができたのは、パウロたちが示した模範によるものだ。クリスチャンとは何であるかということを人々に示すためには、いつでも犠牲を払うだけの価値がある。

10節は労働の黄金律。日本語の「働かざるもの食うべからず」という諺はこの聖句から来ている。しかし日本語の諺の方は本来の聖句を完全に反映していない。働かざる者ではなく、働こうとしない者が問題となる。働く能力と機会があるのに働こうとしない者はということ。働きたくてもなかなか仕事が見つからない、病気で働けないという人はこれには含まれない。主がそういう人を憐れんでくださり、癒しと仕事を与えてくださるように。働きたくない者は、食べてはならないのであれば、死んでしまう。ということは、生きている限り労働は絶対的な義務であり、選択の余地がないものなのだ。
そこで、パウロは再度命令ととるべき措置を伝える。12-15節でパウロたちは怠け者に対して、落ち着いて仕事をするように改めて命じる。その他の兄弟たちに対しては怠け者に影響されずに善いことに励むように勧める。この第二の手紙で再度命令しても従わない人々に対しては、ディスタンスを置き、教会の交わりから遠ざけなければならない。それは冷たいように思えるかもしれないが、悪影響を避けるだけでなく、悔い改めないでいた人々のためにもなる。あからさまに不従順な人々が何の問題もなく交わりに迎え入れられていたら、「怠けていても大丈夫だ」と間違ったメッセージを送ることになる。交わりから遠ざけられることで初めて、「間違ったことをしてしまったのではないか」と気づいて恥じ入るようになるのだ。村八分的な制裁は世の中で行われるとき、相手に社会的な死をもたらすものであって、相手が良くなったり、あとになって関係が回復したりすることはめったにない。しかし、クリスチャンが社会的制裁を加える場合には、意味合いが違う。あえて、かかわりを持たないようにした人々も敵ではなく、兄弟、つまり家族の一員であって、非を悟って戻ってくるのを待つのだ。人にペナルティーを与えるときにすら、怒りにまかせてするのではなく、愛の動機を持ってするべきだ。そうすれば、怠け者すらも変えられることを期待できる。

16-18節。結びの挨拶。パウロは二つの祈りをささげる。16節。主の日や再臨についての間違った教えによってテサロニケ教会は揺れた。また教理的な問題が解消しても変転する世の中では、いつ何が起こるかわからない。しかし、平和の主御自身がいついかなる場合にも平和を与えてくださるなら、私たちは何があっても大丈夫だ。そして、主が共におられる。主が共におられること以上の幸せはほかにない!
17節。偽の手紙ではないことを証明するパウロの署名だ。私たちは安心して、この手紙が確かに使徒パウロを通して伝えられた真理の御言葉であることを知ることができる。
18節。祝福をもって手紙が終わる。手紙は書き終えられたが主イエス・キリストの恵みはテサロニケ教会の一同と共にいつまでもあった。そしてこの祝福は世々限りなく続く。聖なる公同の教会として、主イエス・キリストの恵みは私たち一同と共にある。

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