メソジストリバイバル (ジョン・ウェスレー)

リバイバル
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※奇跡レポートの記事を移管しました。

ジョン・ウェスレー(1703-1791)はオックスフォード大学の優秀な学生でした。もともと世的な学生だったのですが、23歳のときに最後の審判への恐れにかられて、救われるために聖書の御言葉を字義通りに実践することに熱中しました。

メソジストリバイバル (ジョン・ウェスレー)

そして、弟のチャールズ・ウェスレーやジョージ・ホイットフィールドらをメンバーにしたホーリークラブを結成し、聖なる生活を送るためにあらゆる手段を尽くしました。ホーリークラブのメンバーは1日の予定を朝から晩まで綿密に組み、一切の怠惰を締め出しました。聖書通りに病院や牢屋を訪問し、人々への奉仕や伝道に精を出しました。あまりに熱心だったので、人々はホーリークラブを批判し、出しゃばり屋だの方法論者(メソジスト)だの揶揄しました。これがメソジストの名前の由来で、ウェスレーは気に入ってこれを自分たちの呼称として採用しました。

ホーリークラブにアメリカのインディアン宣教の宣教師を出してくれるようにオファーがかかりました。指導者のウェスレー自らが行くことにしました。アメリカへの船旅で、船は大嵐に遭い、転覆しそうになりました。ウェスレーは死の恐怖に襲われました。ところが、同じ船に乗っていたモラヴィア派の人々は子供から老人までみな平安に満ちて賛美をささげていたのでウェスレーは衝撃を受けました。

インディアン宣教に本格的に取り組むこともできないまま、女性とのいざこざによってウェスレーは帰国を余儀なくされました。イギリスでモラヴィア派の人々と親交を深める中で、ウェスレーは自分に救いの確信がないことに気づきます。ウェスレーは信仰を説教しながらも信仰を求めて悪戦苦闘しました。ある日、ウェスレーはアルザスゲートという通りで開かれていたモラヴィア派の集会に気が進まないまま参加しました。ルターのローマ書の序文が朗読されたとき、ウェスレーの中に信仰が燃え上がります。

ウェスレーの信仰はホーリークラブ内を伝染しました。ある日、ホーリークラブのメンバーで夜中まで熱い祈り会を続けていました。午前3時頃、神の栄光が訪れ、祈り会のメンバーはみな地に倒されました。

聖霊様の激しい油注ぎを体験した後、最初にジョージ・ホイットフィールドが行動を起こしました。当時もはや活動的なホーリークラブに対して、どの教会も門戸を閉ざしていました。ホイットフィールドは、イエス様のように野外での説教を試みます。ブリストルの打ちひしがれた炭鉱夫たちに神の国の福音を説きました。メッセージを聞きに集まる群衆の数は日に日に増し、3,000人を超えました。ホイットフィールドはウェスレーに自分が始めた働きのリーダーシップをとるように要請しました。

ところが、ウェスレーとホイットフィールドの間の神学的見解の相違が、群衆に混乱をもたらしました。ホイットフィールドはウェスレーにすべてを譲ってアメリカ宣教に旅立ち、当時のニューイングランドの人口の4分の3にも上る人々に福音を伝えました。

ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーによって続けられたメソジスト運動はイギリス全土を席巻し、全世界に飛び火します。彼らがメッセージを語ると、聖霊の働きによって群衆たちはみな救いを求めてのたうち回り、叫び声をあげ、叫び声で説教が聞こえなくなるほどでした。リバイバルは回心者を生むだけでなく、ウェスレーが生涯説き続けた完全な聖化、「キリスト者の完全」に至る人々も多勢現れました。

退廃したイギリスの教会は息を吹き返し、アルコール中毒者で満ちたロンドンは一新しました。ウェスレーの信仰者として模範、宣教、教会形成、慈善活動は後世にも絶大な影響を与えました。使徒パウロと並んで御国の拡張のために多くの活動をした人物と評価されています。

■出典1 : キリスト者の完全

著者 : ジョン・ウェスレー
出版 : インマヌエルeブックス

■出典2 : ジョン・ウェスレーの生涯

著者 : ジョン・テルフォード
出版 : ヨルダン社

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