聞く耳のある者は聞きなさい[ルカ8:1-18]

ルカによる福音書
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イエス様のたとえには二重の効果があります。

聞く耳のある者には、ものすごくよくわかるようにする効果と、聞く耳のない者には、全くわからなくする効果です。

聞く耳のある者は聞きなさい[ルカ8:1-18]

聞く耳のある者は聞きなさい[ルカ8:1-18]

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【ノート】
1-3節。イエス様の弟子たち一向は福音を告げ知らせながら、町や村を巡る旅を続けた。このイエス様一向の旅を支えたのは、女性の弟子たちだ。この人たちは決して前面には出てこない。十二弟子と違って、イエス様と一緒に福音を伝えたり、悪霊を追い出したりすることはない。ほとんどの場面に登場しない。しかし、実はイエス様の行くところいつもこの人たちはいて、イエス様に奉仕した。この人たちの奉仕があってこそ、イエス様はより遠くまで行き、より多くの町を巡る旅ができたのだ。福音宣教に関わる上で、ある人は最前線で直接福音を伝え、ある人は後方で第一線で働く人々を献金や奉仕によって支える。ある人はパウロのようにその両方を担う。何であれ、教会のすべての人は何らかの形で福音宣教に携わっていくのである。傍観者とか、コメンテイターとか、ゲストという立場は存在しない。少なくとも、救われた人は全員、教会や宣教団体、その他のミニストリーなどを通じて福音宣教に携わるのだ。

この女性の弟子たちの特徴を見てみよう。まず、解放がある。多くの婦人たちがいたが、その中心にあげられる婦人たちはみんな悪霊の追い出しや病気の癒しを経験した人たちだった。特に筆頭は七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア。この人は明らかに不幸で、呪いに満ちた人生を送っていた。精神科医に行けば、あらゆる精神病の診断を受けることができたろう。それをイエス様に解放していただいたのだ。それまで生きていても死んだも同然だったところを、イエス様によって初めてまともに生きることができるようになった。その救いの喜びでどの婦人よりも熱心にイエス様に仕えるようになった。大きな恵みを受けた人ほど、より大きな愛でイエス様を愛するようになるのだ。

第二に、協調がある。マグダラのマリアの次に出てくるのは、ヘロデの家令クザの妻。つまり、領主に仕える役人の妻。お金持ちで身分が高い人だ。そういう人とマグダラのマリアでは全然釣り合わない。しかし、そんな身分も背景も大きく違う婦人たちが一緒になってイエス様に奉仕をしたのだ。どんなに大きな違いがあろうとも、イエス様の下にある人はそのすべてを乗り越えて互いに愛し合い、協力することができる。

第三に、献げ物がある。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って奉仕した。ただでさえ人々が貧しかった時代だが、女性はその中でも社会的な立場が弱く、収入を得る方法が限られている時代だった。有り余る中から献げたわけではない。苦労して得た収入や親から譲り受けた財産を、イエス様のために献げて、奉仕したのだ。たとえ金持ちでなくても、自分の持っているものを献げれば良い。貧しい人の献げ物はわずかであっても、イエス様は喜ばれる。イエス様はそれによって栄光をお受けになる。

4-8節。イエス様は大勢の群衆たちにたとえを用いてお語りになった。畑に種を蒔くというのは、誰もが簡単にイメージできるありふれた光景だった。聞いている人々の心にはその光景がありありと浮かんできた。イエス様はこの野外にいたので、すぐ近くにたとえの通りの土地があったかもしれない。4種類の土地が登場する。第一に、道端。イスラエルの土地は普通、細長く分割されていた。分割された一つずつの土地の間は小道になっていて、そこは自由に通ることができた。種がこの小道に落ちると、その地面は非常に硬くて芽が出ないし、人に踏まれたり、空の鳥が食べたりする。第二に、石地。石地というのは石だらけの場所ということではない。それは石灰岩の上にうっすらと土がのっている地表のことだ。そこには水分も植物が育つために必要な養分もないので、芽が出てもすぐ枯れてしまう。第三に、茨。茨は人間の罪によって土が呪われた結果、生じるようになった植物だ。農作物ダメにして、人間の努力を水の泡にしてしまう代名詞。

茨の土地は、最初は茨が小さくて目立たなかったで良い土地に見えた。しかし、作物の成長と共に、茨も成長してしまう。それで茨が土の養分を奪い、イバラは有刺鉄線の代わりになるほどその枝ととげがかたい。それで覆われたら農作物は成長が止まってしまう。第四に、良い土地だ。良い土地は自然には生じない。人間の手で深く耕され、たい肥で養分を補給され、よく整備された土地のことだ。この土地に落ちた種だけが実を結んだ。しかもその実はなんと百倍だ。麦の収穫量は、中世ヨーロッパでは3-4倍、農業の技術や知識が豊かになり、品種改良が進んだ現代であっても1粒あたり15倍から25倍程度だ。だから、イエス様の時代では穀物から100倍の収穫を得られるというのは、奇跡的な大豊作だということがわかる。そして、イエス様は大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。さて、イエス様が語られた光景は、誰もがイメージできた。しかし、イエス様が何を言わんとしているかは誰もわからなかった。イエス様はただ4種類の土地に種をまいた話をしただけだ。これだけでは、誰も意味がわからない!この話だけを聞いたら、「イエス様は急に農業に関心を持ったのか?」と思う人もいただろう。しかし、そんなわけがない。イエス様がただこの世的なことだけを語って、それで終わりということはありえない。そこには何か深遠な霊的な真理が隠されているに違いないのだ。それは聞く耳のある者であればわかるのだ。

そこで、弟子たちはイエス様にたとえの意味の説明を求めた。このイエス様の返答から、イエス様がたとえを語られた目的が良くわかる。9-10節。イエス様はなぜたとえを用いられたのか?イエス様が語られる意味をよくわかるようにするためか?それともわからなくするためか?なんと、その両方だ。イエス様は聞く耳のある者にはわかるようにし、聞く耳のない者には全然わからないようにするためにたとえを話された。イエス様はここで「あなたがたには神の国の『秘密』を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえでわからなくする」ということを言っておられる。ここでの神の国の『秘密』というのは奥義とも訳すことができる。奥義というのは、ある団体に加入して教えを受けている人にはよくわかるが、それ以外の人にはさっぱり意味がわからないことを意味する。奥義は、非常に大事な教え、貴い教えだ。イエス様はそれを安売りしない。誰にでもわかるのではなく、聞く耳のある人だけがわかるようにされた。聞く耳があるというのは、霊的な真理に強い関心を持って、へりくだった心でその意味をどうしても知りたいと求める姿勢のことだ。

イエス様は弟子たちには奥義を授けた。それは弟子たちが聞く耳を持っていて、イエス様の語られたことに強い関心を持ち、その意味を知りたいと願って、イエス様に質問したからだ。しかし、その他の群衆たちは、聞くには聞いたが理解できず、表面的な話だけで満足してしまい、それ以上関心を持たず、イエス様に尋ねようとしなかった。私たちは神の国の奥義を悟る特権が与えられている。しかし、その特権を持っていても、利用せず、イエス様に尋ね求めようとしない限り、何も得ることはできない。あなたは御言葉に対して聞く耳を持っているか?御言葉を読んだり聞いたりするとき、その霊的な真理をどうしても知りたい理解したいという願いをもって御言葉を受けているだろうか?より深く知るために、イエス様にいろいろな角度から質問をしているだろうか?日々聖書を読み、ディボーションをする中で、御言葉を掘り下げる力、イエス様に質問する力をつけよう。そして、イエス様から奥義を悟らせていただこう。

種を蒔く人のたとえの説明を聞いてみよう。11-15節。イエス様は御言葉を聞く際の人間の心の状態を4種類に分けて説明したのだ。だから、同じ神の御言葉を聞いても、人によって経験する変化は全然違うのだ。そして、どのような土地に落ちたかは、御言葉を語ってみるまではわからない。蒔いてみるまではわからない。このことから、私たちが人々に御言葉を伝えるとき、人々に全然変化が起こらないとしても、失望してはならない。御言葉がすばらしくても受け取る側がまだ良い土地ではないこともある。
イエス様だって御言葉を伝えても、聞く側の問題で実を結ばなかったことはたびたびある。御言葉を伝える人は、自分にもっと油注ぎが与えられるように祈り、人々の心が変えられるように祈りつつ、あきらめずに御言葉を伝え続けよう。
御言葉を聞く側としては、果たして自分の心畑が4つのうちどれにあたるか?もし実を結ばない心畑だとしても、希望はある。私たちは心を改めて、主なる神様に自分を変えていただくことができる。後から良い土地になることができる。

第一の道端は頑なな心だ。頑なな心の人には御言葉を受け入れる余地が全くない。この人たちは、御言葉を聞いても聞いたそばから悪魔に奪われてしまう。この人たちに必要なのは、神の愛、神の義、神の力の体験を体験することや人生での大変な経験などによって心を打ち砕かれて、へりくだることだ。

第二の石地は表面的にしか御言葉を受け入れない心だ。この人たちは、神の恵みの深さを悟ろうとはせずに、表面的な知識や外面的な宗教に満足してしまい、それ以上を求めようとしない。この人たちは口では自分の信仰の決断はゆるぎないものだというが、その信仰は短命で、ちょっと都合の悪いことがあるとすぐにいろいろな言い訳や責任転嫁をしながら、姿を消してしまう。この人たちに必要なのは、生き生きとした信仰を求めることだ。日々賛美、祈り、聖書を開き、神との深い交わりを持とうとし、自分の人生での御言葉の体験しようとすることだ。クリスチャンの信仰というのはアクセサリーではない。ファッションではない。それは、道、真理、命である。

第三の茨は思い煩いと誘惑にむしばまれた心だ。この人たちは、自分の心の内にある傷、恐れ、憎しみ、高慢、依存、貪欲、悪魔の嘘などの問題に対して、ずっと対処してこなかったので、事あるごとにそれがネックとなって霊的成長が妨げられてしまう。この人たちに必要なことは問題を分析し、それと真っ向から継続的に向かい合い、イエス様への御言葉と血潮への信仰によって癒しと清めを体験することだ。あなたにとっての茨とは何か?信仰によってそれを取り除こう。インスタントには行かないこともある。時間がかかることもある。忍耐が必要だ。しかし、解決を避けていたらこれ以上一歩も前進を見込むことはできない。

第四の良い土地は整えられた心だ。私たちが種を蒔くのに良い土地というのは、例外なく人間の手で整えられたものだ。勝手に良い土地ができあがるということはない。整えられた良い心も勝手に生じることはありえない。良い心も最初はほかの3つの土地と同じ問題を抱えていた。しかし、良い土地が耕され、水と養分を補給を補給され、雑草を取り除かれて人間の手によってできあがる。同じように、良い心は打ち砕かれる経験をし、神の恵みの深さを求め、継続的に自分の心が抱えている問題に対処し続けた結果できあがる。私たちは、自分が良い土地でないなら、ほかの誰のせいでもない。それは心を荒れ放題にしてしまっている自分自身に問題がある。牧師やほかの兄弟姉妹は互いに良い土地になるように助けるし、励ます。しかし、その人自身が悔い改めて、心を変えていただこうという気を持っていなかったら、決して変わらない。変わることを決断しよう。そして、私たちは、適切な対処さえすれば、神の御助けにより、誰でも良い心になることができる。それによって私たちの心の内に神の国が広がる。私たちが結ぶ実は愛の実であり、救いの実だ。神と人とを愛し、多くの人の救いに用いられるようになる。整えられた良い心になって100倍の実を結ぶ者となろう。アーメン。

16-18節。御言葉を聞くと、私たちの心には信仰の火がともる。私たちが持っている信仰は救いをもたらす信仰だ。その信仰の火は、真理の光が見えない人々にとって、貴重な光源になる。だから、私たちは機会があるごとに自分の信仰をはっきりと表明することが必要だ。「イエス・キリストは私の罪からの救い主だ」という単純な告白を人々に対してする者となろう。私たちが信仰を隠すなら、隠したことがやがてすべて明るみに出ることになる。聞く耳を持って聞いているように見せかけて、実は全く聞いていないこともすべて明るみに出ることになる。
自分をだまし、すべての人をだましたとしても、神は何もかもご存知で、御前に立つときに明るみに出る。そのとき、聞く耳を持って良く実を結んだ人は、天の報いが豊かに与えられる。聞き流して、世の中のことに夢中になっていた人は、持っていたと思っていた世の中の空しいことをいずれすべて失い、天の報いも全くいただけない。私たちは今からそのときに備えて、今から御言葉に対して聞く耳を持ち、自分の心を実を結ぶ良い土地に整えていこう。

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