死者の復活[Ⅰコリント15:12-58]

コリントの信徒への手紙一
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死者の復活が事実でないなら、信仰の土台はすべて崩れ去ります。

死者の復活[Ⅰコリント15:12-58]

死者の復活[Ⅰコリント15:12-58]

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聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15:12-58

12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。
30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。
31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。
32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。
34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

【ノート】
15章は復活の章。11節までで福音の内容、特にキリストの復活とその証拠を提示した。キリストの復活は確かな歴史的事実だ。12節からは、コリントの信徒たちの中にいた死者の復活ということ自体を信じない人々に対してその誤りを指摘する。

12-19節は、死者の復活が事実でないなら、キリスト教信仰は根本から完全に崩壊し、跡形も残らないということについて。復活が事実かどうかというのはどちらでも良いことではなく、すべてが立つか倒れるかの重要事項なのだ。もし、死者の復活が事実でないなら、キリストも復活しなかったはずだ。つまり、福音が実はとんでもないデマということになる。当然宣教はデマを広めることだから無駄だし、デマを信じるのも無駄だ。それどころか、使徒たちは神の偽証人となってしまう。復活しなかったはずのキリストを神が復活したと嘘をついたことになるからだ。偽証については、律法で厳しい措置をとるようにと定められている。申命記19:18-20。隣人に対する偽証さえも厳しい措置をとるように命じられている。ましてや神についての偽証であれば、神への冒涜として死罪は免れないだろう。自ら地獄行きを決定的にするようなものだ。使徒たちは神を冒涜して地獄行きになるために命がけの宣教をしたことになる。キリストが復活しなかったのなら、クリスチャンの信仰は空しく、罪は赦されないまま残っている。先に天に召されたと思われていた人々は実はみんな滅び去ってしまっていた。天国の約束も嘘だということになる。もし、復活がなく、天国に行けず、この世でキリストをむなしく信じているだけなら、クリスチャンはすべての人の中で最もみじめでかわいそうな人々だ。

キリスト教信仰は事実でなければ何の意味もないばかりか有害ですらある。私たちは、「本当はこんなの嘘だ」と思いながらも、空しい希望にすがって救われた気分になるために無理くり自分を偽って信じたふりをするのではいけない。もし復活が事実でなければ、聖書を燃やしてしまい、クリスチャンの言うことを完全に無視して生きればよい。もし復活が事実であれば、全面的に受け入れ、自分なりの思想や哲学を全部捨てて、キリストに自分の人生のすべてをささげなければならない。白か黒かをはっきりさせなければならない。私たちの信仰は、現実に救いをもたらす真理を、事実に違いないという確信に基づいて信じるものでなければならないのだ。

それでは復活は事実なのか?パウロがあえて復活が事実でなければどれだけ空しいのかを躊躇なく書くことができたのは、それが事実だと知っていたからだ。パウロは復活したイエス・キリストに出会ったと8節で書いている。パウロは自分が真実を語っているか嘘をついているかを知っている。もしパウロもほかの使徒たちも、復活を目撃したと嘘をついていたのなら、ものすごく無意味で空しく、神を冒涜することに人生をかけていたことになってしまうから、それはありえない。それだけに使徒たちが宣べ伝えた福音は信頼できる。私たちは死者の復活が事実であると信じるべきだ。
20-22節はキリストの復活とその他すべての死者の復活の密接な関連性について。まず、キリストが眠りについた人たちの初穂となられたことが20節に書いてある。これは律法で7つ規定されている主の例祭のうちの初穂の祭りについてだ。初穂の祭りは過越祭の次の安息日の翌日に行われた。つまりちょうどイエス・キリストが復活された日曜日に行われたのだ。初穂の祭りとキリストの復活は同じ日だ!主はこの祭りを通して御子の復活を予表しておられた。レビ23:10-11。このときに刈り入れるのは大麦だ。大麦の最初の収穫を刈り入れると神殿に運ばれ、きずがつかないようにやわらかい棒で打穀され、全部の麦粒が火に触れるように小さな穴のある鍋に入れられて、火の上で炒られ、それから風でもみがらを吹き飛ばされ、製粉所でひかれ、できあがった麦粉が初穂として神にささげられた。
初穂が神にささげられるまでは新麦を店で売買することも、新麦でパンを作ることもできなかった。初穂は、来るべき収穫の前兆だ。初穂の後には収穫が必ず続く。キリストの復活の後には、その他の死者の復活が必ず続くのだ。
21-22節ではアダムとキリストが対比されている。アダムはルカ3章の系図による神の子であり、もともと罪がなかった点、キリストと似ている。最初の人間、アダムが罪を犯したことによって、死が人類に入ってきた。すべての人はある意味アダムの中にいて、アダムと共に罪を犯した。そして、アダムから罪を犯す性質をも受け継いでいる。キリストはアダムと同じように人類を代表するお方。45節ではキリストのことを最後のアダムと書いてある。もし、第二のアダムであれば、第三のアダム、第四のアダムがでてきそうだが、最後のアダムとして最初のアダムの不始末をすべて解決して救いの御業を完成するのだ。キリストは人類を代表して完全な人生を歩み、人類を代表して罪の罰を身代わりに受けて死なれ、人類を代表して復活なさった。人類はキリストにあって義とされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生きることができるのだ。キリストにつくなら最初のアダムによる呪いから解放される。私たちはアダムについて死ぬか、キリストについて生きるかなのだ。

23-28節は復活と世の終わりにキリストの支配が確立までの順序。23節。最初にキリスト。初穂であられるキリストが復活する。それから、キリストが再臨されるときにキリストに属している人々、つまりクリスチャンだ。ここでは、すでに眠りについた人々の復活だけでなく、51節にある通り、再臨のときに生きている人々が携挙されて変えられることも含まれる。しかし、クリスチャンではない人々は対象外だ。クリスチャンではない人々は裁きの日に裁かれるために復活することになる。キリストはいつ来られるかわからない。クリスチャンになるのはいまがチャンスだ。復活の次に世の終わりが来る。悪魔と反キリストが猛威をふるうが、キリストがすべてのを滅ぼし、父なる神に御国を引き渡される。25節。興味深いことに、キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されると書いてあることだ。キリストは確かに王なのだが、ゴールはそこではない。キリストの王権は御自身の栄光のためではなく、父なる神の王権を確立するためなのだ。キリストの千年王国があるがそこで終わりではなく、次に新天新地と新しいエルサレムがそれに続くというように、二段階にわけて神の統治がなされるのはそのためだ。26節。死が最後の敵と書いてある。死は人類にとって一番の強敵だ。すべての人にとって恐ろしく、避けたいが、なすすべがないのが死。死はあらゆるものを滅ぼしつくした。しかし、われらの救い主イエス・キリストはその死を火の池に投げ入れて滅ぼしてくださる。死を滅ぼすことを御自分の死を打ち破る復活によって前もって証明された。死が滅ぼされると、もはや敵は一つもなく、神の権威によって全世界のすべての造られたものが御子に服従することになる。そして、御子は御父に支配を明け渡し、服従なさる。それまでずっと服従しておられたように服従なさる。神御自身であられる御子イエス・キリストさえ、父なる神に従い、父なる神の栄光を表すことを目的としていた。キリストに倣う私たちも自分にスポットライトをあてようとするのではなく、神に従い、神の栄光のために生きるべきだ。

29-34節は20-28節の内容が事実でないならおかしなことになるという内容を3つあげている。29節は死者のためのバプテスマについて。初代教会では、少なくともコリント教会には身代わりのバプテスマという独特の習慣があった。教会の一員になるつもりで、洗礼を受ける準備として教義についての教えを受けていた入門者が亡くなった場合、だれかがその死んだ人に代わってバプテスマを受けるということが時々行われていた。私たちも同じように死者のためのバプテスマをすべきか?答えはノーだ。死者のためのバプテスマというのはこの箇所にしか書いていない。聖餐と水のバプテスマの聖礼典のように教会が必ず執り行うべきこととして定めるには、聖書解釈学上の基準がある。
少なくとも福音書でイエス様が語られ、使徒言行録でも教会で行われていて、書簡の中で教えられているものでなければならない。死者のためのバプテスマはこの基準を満たしていない。そして、パウロはこの死者のためのバプテスマを肯定も否定もしていない。ただ「死者が復活しないならあなたがたが行っている死者のためのバプテスマは何の意味もないのではないか」という例証としてあげているのだ。

死者の復活が事実でないならおかしなことになる2つ目は、使徒たちがいつも危険を冒していることだ。何のためかわからない。辻褄が合わない。宣教は常に危険と隣り合わせだった。喜んで福音を受け入れる人ばかりでなく、反対して迫害する人々がユダヤ人の中にも異邦人の中にも大勢いた。彼らは味方のふりをしてだまし討ちをすることすらあった。ローマ帝国の統治のお陰であちこちに旅行するのは比較的容易になったとはいえ、それでも盗賊におそわれたり、自然が猛威をふるったりすることもあった。そのことはⅡコリント11章で列挙されている。デマのためにこんな苦労を誰もしたくない。そういう苦労をするとすれば肉体の命よりも大事な何かのためだ。それが福音だ。31節。パウロは毎日死ぬ覚悟で宣教していた。だから、死を恐れない。それだけでなく、罪に死に、自我に死ぬことで神に全面服従していた。自分に死ぬことは良いことだ。人がダメージを受けるのは生きているからだ。すでに死んでいる者は、何があろうと無傷でいられる。そして、自分に死んで、聖霊様にすべてを明け渡すのだ。32節前半。パウロはローマ市民権を持っていたので、コロシアムで野獣と戦わされることはない。エフェソで野獣と戦ったというのは絶体絶命の危機に遭遇したことを比喩的に表現しているのだ。そんな危機に遭遇する宣教を、何か自分を誇るためといった人間的な動機で続けられるわけがない。

死者の復活が事実でないならおかしなことになる3つ目は、クリスチャンライフの価値がなくなる。クリスチャンが重んじる徳目、謙遜、節制、純潔、信仰、希望、愛といったものは全部、永遠の報いをもたらし、失われることのない価値を持つものだ。しかし、死者の復活が事実でないなら、こういう事柄を重んじなければならない理由が根底から崩れ去る。死んで終わりなら、即物的な生き方、自堕落な生き方、楽しければそれでいいという生き方をすべきだということになる。コヘレトの言葉で、様々な探究をしてみたソロモンが、死を目前にした空しい人間の幸福として見出したのはとにかくいまを楽しむということだった。コヘレト9:7-9。これが神を知らず、死を乗り越えられない人間が味わえる最高のものだ。ギリシア哲学の一派、エピクロス派の人々も同じ調子のことを語る。32節後半。コリントの信徒たちの中には、自堕落な生き方を肯定したいがために死者の復活を否定して、エピクロス派の人々に同調する人々がいた。33-34節。エピクロス派の人々に同調するのは、思い違いだ。神の御言葉はそんなことを少しも勧めていない。使徒たちもそんなことを全然教えていない。世の中の悪い考えの人々と深いつきあいをするなら、悪い影響を受けて、せっかくクリスチャンとして築いた良い習慣が台無しになってしまう。私たちは深い関係を築く相手をよく選ばなければならない。聖書中で神が罪を犯していいという箇所は一か所もない。神は言われる。罪を犯してはならない、と。こんな基本的な神の御心もわからないことは、恥ずべきことだ。

35-49節は死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのかという質問について。35節。この質問は、死者の復活を信じない人々が嘲りを込めてするのを想定している。そして、彼らが信じない主な理由は、どんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、わからないからだ。復活の過程と復活の体の内容を想像することができないからだ。人間が死ぬとどうなるか、誰もが知っている。腐敗が始まり、分解が進み、塵となって土にかえる。全く原型をとどめない。そんな状態からどうやって復活するのか?彼らは死者の復活を科学的に理解して、目で見て確認して、あらゆる角度から分析しなければ信じられないと言い張る。
そして、理解して確認したのでないことを信じるのは、ひそかに馬鹿だと思っているので嘲りを込めて質問している。
そういう人々に対してパウロは36節「愚かな人だ」という。あなたたちこそ馬鹿だと。いろいろな条件が満たされなければ信じないという人々は、たいてい自己矛盾に陥っている。その人たちも実は科学的に理解していなくても、目で見ていなくても、あらゆる角度から分析していなくても、信じていることがたくさんあるのだ。その例を自然界に見出すことができる。まず種があげられている。36-38節。種はそのままにしておいても何も起きない。しかし、種を地面に蒔くとどうだろう。地面に種の体を地面に埋めると、その体は死ぬ。ところが、全く新しい体が出てくる。芽を出し、茎が伸び、花開き、また別の種が生じる。なぜ種が死ぬと新しい体が出てくるのか、わからない。そのメカニズムは非常に複雑で、現代の科学者でも容易に説明できない。それは神秘だ。しかし、種を蒔けば新しい体が出てくることを信じない人はいない。みんな理解できなくても信じる。では、誰が新しい体を与えたのか?神だ。神が御心のままに新しい体をお与えになる。死者の復活の例は自然界の中に見られる。私たちは朽ちてしまったお墓のお骨や灰が集まったものとして復活するのではなく、より優れた新しい体をもって復活する。

信じない人々は新しい体をまだ見たことがないという。見たことがないから信じられないと。しかし、体というものが非常に多様であるということを私たちは知っている。39-41節。地上の体である肉は人間、獣、鳥、魚ごとに違う。動物の肉を食べたらそれぞれ味や堅さが全然違う。また、天上の体を持つ太陽、月、星もそれぞれ違った輝きをしている。すべては神がお造りになった。神はそれが生き物であれ天体であれすべて異なった体をお与えになっている。神を限定してはいけない。同じように今の体とは異なった新しい復活の体が存在するのだ。

その体の特徴が42-44節。第一に、この体は朽ちるものであるのに対し、新しい体は朽ちないもの。この体では若さも青春もすぐに過ぎ去り、美しさは色褪せ、感覚は衰える。しかし、新しい体では永遠に若く、美しいものは美しいままで、すべての感覚がずっとはっきりしている。
第二に、この体は卑しいが、新しい体は輝かしい。この体はどんなに高い理想を持って高潔に生きようとしても、本能的な劣情や衝動、その他あらゆる罪深い性質によって簡単に汚されてしまう。新しい体は本能の奴隷ではなく、神に対する純粋な奉仕の器となる。
第三に、この体は弱いものだが、新しい体は力強い。この体には様々な限界がある。意思の力ではどうにもならないことがある。水を飲まなければ4-5日で死ぬし、食べ物を食べなければ2-3週間で死ぬ。走るにしても、ジャンプするにしても、最も優れた人々が最大限努力してオリンピック選手くらいの数字が限界だ。100m走で8秒代を出すことは不可能だし、垂直飛びで2mを超えることはできない。夢や計画を描いても、体がいうことを聞かずに挫折を経験することがある。新しい体は、すべての点でそういう限界を大きく超えることができるだろう。私たちは肉体の弱さによって何かをあきらめることがなくなる。自分の意思で思い描いた通りの活動を力強く行うことができる。
第四に、この体は自然の体だが、新しい体は霊の体だ。霊の体というのは、どういうものなのか。初穂である復活したキリストの体のことを考えてみよう。復活のキリストは魚を食べることができたし、弟子たちが触れることもできた。そして、キリストは「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われた。だから、キリストは肉を持っていた。しかし、それは霊的な肉体だったのだ。復活のキリストは突然弟子たちの真ん中に現れたり、突然消えたりすることができた。霊の体はこの世界の自然法則を超越しているのだ。
そして、肉に対して霊というとき、人間の罪性と聖霊様という意味もある。肉の体では常に肉の性質との葛藤があり戦いがあるが、霊の体は聖霊様の結ぶ実のような良い性質に私たちをひっぱる。
霊の体では完全に聖霊様に満たされ、神様との愛の交わりを最大限に体験し、喜びに満たされて、完全な礼拝、完全な奉仕を主にささげるのだ。
肉の体と霊の体との違いを生み出すのは、最初のアダムと最後のアダムたるキリストだ。生まれながらの人間はすべて最初のアダムに属し、アダムに似ていて、土からできていて、罪を受け継ぎ、死を受け継ぐものだ。しかし、キリストを信じ天に属する者となった人々は、キリストに似ていて、キリストの命にあずかり、復活にあずかって、新しい霊の体を得るのだ。

50-58節は死への勝利だ。50節。神の国に入るには変化が必要だ。霊や魂の変化だけでなく、体の変化も必要だ。私たちの体はこの世界の、特にこの地球に生きるための体だ。宇宙や別の惑星では生身の体で生きることはできない。宇宙で生きるためには宇宙服を着て、気圧を調節し、酸素を吸収できるようにし、有害な光線から守られるようにしなければならない。神は私たちが神の国で生活できるように、神の国用の新しい体を備えてくださっている。その新しい体を着せてくださるのだ。その変化は、亡くなられたクリスチャンの間だけで起こるのではない。キリストが来られるときに生きているクリスチャンにも起こる。51節。神秘と書いてある。別訳では奥義だ。奥義とは、神から啓示されるもので、人間の知的探求では決して発見できないものをさす。52節。これはⅠテサ4:16-17と同じ出来事だ。世の終わりを告げるラッパが鳴りひびくと、それを合図に一瞬のうちに、まず死者の復活が起こり、それとほぼ同時に生きているクリスチャンは霊の体に変えられて、空中に引き上げられ、キリストと出会う。これが携挙だ。たちまち、一瞬のうちに起こる。神がその気になれば、すべてのことはたちまち一瞬で起こる。救いも聖化も長い時間が必要と考えるべきではない。神は一瞬で行うことができる。私たちの側が準備できていれば神は私たちが何百年かけても到達できない領域に一瞬で引き上げてくださる。その信仰を持とう。携挙のときに、死への勝利の預言が成就する。54-55節。死はすべてのものを飲み込んでいた。すべての命は死に対して敗北を認めるしかなかった。ところが、キリストの勝利はその死を飲み込んだ。
死はもともと恐ろしいものだった。まず死んだらどうなってしまうのかという不安が死を恐ろしくする。そして、死のとげは罪だ。死を恐れるのは、罪の罰をそこに予感するからだ。恐ろしい裁きがあると人間の霊は察知する。その通りだ。だから、死を恐れるのは当然のことだ。しかし、死のとげは取り去られた。イエス・キリストが罪からの救いの御業を成し遂げ、死を打ち破る復活の勝利を成し遂げられた。死はもう私たちに害を与えることができないものとなった。キリストの勝利にあって、死はもはや恐れるに足りない。私たちの存在は死んでも失われることなく、私たちの奉仕も死んでも失われることない。むしろ、救いのすべてが完成し、すべてが報われるのをわくわくしながら楽しい眠りに入るのが死なのだ。
57節。私たちはイエス・キリストにあって勝利者なのだ。そのことを感謝しよう。ハレルヤ!
58節。復活はしっかりと信じるなら、私たちに不動の土台を与える。主にあって、私たちがすることは何一つ無駄にならない。伝道しても、人が救われないことはある。奉仕をしても、喜ばれないこともある。愛しても、憎まれることがある。思うようにいかないこと、結果がでないことはある。しかし、無駄ではない。主は全部ちゃんと見ておられる。その一つ一つに報いてくださる。そして、たゆまず励めば、時が来て実を刈り取るときも必ず来る。永遠の未来を見据えて、主に熱心に仕える私たちになろう。

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