福音―キリストの死と復活[Ⅰコリント15:1-11]

コリントの信徒への手紙一
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あなたもキリストの復活の証人となれます。

福音―キリストの死と復活[Ⅰコリント15:1-11]

福音―キリストの死と復活[Ⅰコリント15:1-11]

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【ノート】
第二部の霊的な事柄の中で、賜物の乱用の問題とそれを克服する愛の定義、集会の秩序を保つための知恵について、扱われた。15章は最後の問題だ。それは復活だ。コリントの信徒たちはイエス・キリストの復活を積極的に否定したわけではない。そうではなく、一般的に死者が復活するということについて、否定したのだ。当時のコリントを取り巻く三大ギリシア思想は、エピクロス派、ストア派、プラトン派だ。エピクロス派は唯物論。人は命のない物体と同じで、霊を持たず、死んだら無になると信じた。ストア派は死んだら霊魂は神々に吸収されて人格がなくなってしまうと信じた。プラトン派は霊魂の不滅を信じたが、肉体の復活は全否定した。こういうわけでギリシア思想には復活を支持するものが何もない。また、教会に少なからずいたであろうユダヤ人にしても、サドカイ派は霊も天使も復活も信じない人々だ。ある人々は福音を信じたはずなのに、こういう思想に触れて死者の復活ということを信じられなくなっていた。現代でも、私たちを取り巻く世界には、死者の復活を信じない人々、思想、宗教に満ちている。そういうものに影響されて信仰の基礎が揺らいでしまってはならない。そうならないために、復活が確かな現実であり、必ず起きるべきことであるという確信をこの章から得る私たちになろう。

死者の復活ということには大きな希望がある。人間の教えでは、そのどれをとっても死んだあと、私たちの存在は全部あるいは部分的に損なわれてしまう、失われてしまうしかない。死は恐ろしいものとなる。しかし、主が約束してくださった死者の復活は、私たちの霊、魂、肉体のすべての領域において、自分を失うことがないというもの。むしろ、もともと罪によって不完全で失われていた私たちが霊、魂、肉体のすべてにおいて完全な形で復活することができるというものだ。今の生は不完全であり、死後には完全な生が待っている。死は征服される。ここに大きな希望がある。そして、その確たる証拠はキリストの復活だ。

1-11節はキリストの復活について。復活の証拠は大きくわけて3つある。第一は1-2節のクリスチャンの生活。第二は3-4節で旧約聖書。第三は5-8節の復活の目撃証人。1節。福音と書いてある。福音というのは、イエス・キリストの十字架の死と復活による罪からの救いの知らせのことなのだ。使徒がコリントの信徒たちにもう一度福音を告げ知らせる。福音は重要だからだ。重要なことは何度でも語った方がよい。そして、福音以上に重要なことは何もない。3節でも最も大切なことと書いてある。福音は永遠の死か永遠の命かを左右する。福音を受け入れるなら栄光の復活が約束される。しかもただ受け入れるだけでよく、ただ受け入れることしかできない。誰も福音を自分の手で作り出すことはできない。自分の力によるのではない。イエス・キリストが成し遂げてくださった御業を、ただ感謝して受け入れるのだ。誰も誇ることはできない。

といって福音は死んだ後のために一度受け入れればあとは不要になるわけではない。福音は受け入れたあと、生活のよりどころとなる。別訳だと「それによって立っている」となっている。福音は私たちに安定を与える。つまずきやすい世界にあって福音は堅固な足場となる。誘惑に対して福音は抵抗力を与える。心が傷つき倒れそうなときの支えとなり、肉体的な苦しみを耐え抜く力となる。福音を受け入れた人は、死に至るまで、福音に頼り、福音によって立って歩むことができるのだ。福音がクリスチャンを立たせている!強くしている!福音がそれを受け入れた人々の力となっているという。この点も、福音の内容であるキリストの復活が真実であるという証拠の一つだ。もし福音があなたを立たせているのであれば、あなたもキリストの復活の証人だ。

2節。福音はものすごく重要なだけに、中途半端に信じてはならない。部分的に信じたり、曖昧に信じたり、何も考えずに何となく信じたりしてはならない。もし最初はそうだったとしても、後で確かなものとしなければならない。そうでないと信じても無駄だ。救われない。御言葉に基づいて、全部をしっかりと信じなければならない。
イエス・キリストの十字架と復活、どちらかだけでなく両方を信じなければならない。そして、御言葉をしっかりと保つ。そうすれば、確実に救われる。福音を受け入れた人はすでに罪から救われている。永遠の命が与えられ、神の子とされている。しかし、ここで中心的な話となっている肉体の復活はまだ先だ。そういう意味で、私たちはみな救われつつある状態、救いの途上なのだ。

3-4節。福音はパウロ自身に啓示されたものなのだ。「聖書に書いてあるとおり」と書いてある。当時まだ新約聖書は書かれていなかったから、ここでいう聖書は旧約聖書だ。旧約聖書の預言が成就している!これが復活の第二の証拠だ。イエス・キリストの十字架の死と復活については、まず創世記3:15に登場する。女の子孫、つまりおとめマリアから生まれたキリストがかかとを砕かれる、ダメージを負うが、最終的には蛇の頭を砕いて勝利を得る。キリストの十字架の死と復活による罪からの救いが暗示されている。詩編22編、イザヤ書53章にも十字架の苦しみについて克明に書いてあり、苦難の後の勝利についても書いてある。また、イエス・キリストは復活のことをヨナのしるしと言われた。ヨナが大魚の腹で三日過ごした後出てきたのも、十字架の死と復活だ。アブラハムがイサクをささげたのもそうだ。アブラハムが「愛する独り子イサク」をささげるように神から命じられた後、三日の道のりを歩いてモリヤ山にたどりついた。その間、アブラハムにとって、イサクは死んだも同然だった。しかし、ヘブライ人への手紙を読むとアブラハムがイサクをささげる決断をすることができたのは、神がイサクを復活させてくださると信じていたからだった。ヘブライ11:19。ほかにも、多くの預言で大きな苦難の後に栄光の勝利があることが約束されているが、それらはすべて復活を暗示する預言だということができる。

5-8節は第三の証拠の目撃証人。ここには女性の名前がない。当時は女性が証人となることができなかったからだ。また、すべての人について詳しい記載があるわけではない。主要人物にしぼられている。5節。まず名前があげられているのはケファ。ペトロのこと。ペトロは個人的にイエス様と出会った。ペトロといえば、イエス様を三度知らないと言った弟子だ。イエス様でなければ、一番の怒りの対象となり、裏切り者として破門されてしまってもおかしくない。しかし、イエス様は真っ先にペトロと個人的に出会って、つまずいて落胆していたペトロを励ました。イエス様の愛は、御自分への信仰が弱っている者に対してますます強く燃え上がるのだ。信仰が後退しているということで自分を責め続けないでほしい。イエス様はそんな私たちを責めるのではなく、御自分を表し、愛をもって励ましてくださる。
そして、十二人の弟子に現れた。イスカリオテのユダはもういないので、ここでいう十二人は後で任命されたマティアを含むものだろう。十二人の使徒たちは、ペトロがそうだったように、みんな弱さを持った人間だった。みんなイエス様がとらえられたとき、イエス様を見捨てて逃げてしまった。みんな死ぬのが怖かった。もし、イエス・キリストが十字架で死んでそのままだったら、弟子たちは風に吹き飛ばされるもみがらのように跡形もなくちりぢりになり、教会が誕生することはありえなかった。ところが、イエス様の十字架からたったの五十日後、自分たちもとらえられるのではないかとガタガタ震えているはずの弟子たちがペンテコステの日に公の前に姿を現した。彼らは復活を目撃して、永遠の命を確信して死を恐れなくなった。さらに聖霊様の力を受けて大胆にイエス・キリストの十字架の死と復活を宣べ伝えるようになった。権力者から脅され、投獄され、鞭うたれても、なにものも彼らの宣教を止めることはできなかった。黙示録を書くために生き残った使徒ヨハネを除いて、11人が殉教した。彼らの劇的な変化と、命をかけた証言が、キリストの復活が歴史的な事実だったことを確かなものにしている。
6節。成人男性だけで500人以上の人々が同時にイエス・キリストの復活を目撃した。これが具体的にどういう状況だったかは福音書には書かれていない。
それだけ大勢の人が目撃したということは、おそらくイエス様が復活して40日間現れたあと、噂を聞きつけた弟子たちが集まってきて、最後にベタニアの辺りで天に昇られるときに目撃したのではないかと思われる。初期のクリスチャンは全員復活の目撃者だった。彼らはみんな「私たちは復活したキリストに出会った!」ということができた。それで福音は爆発的に伝えられていった。自分が体験したことには確信がある。しかし、私たちはこの目撃証人たちをうらやむ必要はない。私たちも同じように、求めさえすれば、神様の強力な臨在を体験することができる。神様の愛を体験することができる。神様の御声を聞くことができる。それによって、実際に復活したキリストを見るのと同じくらい強い確信を得ることができる。この目撃証人たちはコリントの信徒への手紙一が書かれたときには大部分が生きていた。新約聖書は実際の出来事から何百年も経ってから書かれた神話や伝説の類ではなく、生きた証人たちが見聞きした事実に彩られている。それはノンフィクションなのだ。

7節。このヤコブは使徒のヤコブ、つまりヨハネの兄弟のヤコブではなく、イエス様の弟のヤコブのことだ。イエス様にはヤコブ以外にもヨセ、ユダ、シモンという弟たちがいた。イエス様と弟たちとの関係がもともとどうだったのかは聖書にはっきり書いていないが、イエス様は神と人とに愛されたと書いてあり、大工として働き、一家の大黒柱となり家族を支えていたのだから、弟たちの目に頼もしい兄として映っていたに違いない。しかし、イエス様がメシアとして公で活動するようになってから、弟たちの態度は一変した。大工だった兄が旧約聖書に預言されているメシアのはずない!その先入観が信じることをほとんど不可能にした。あるときは嘲った。ヨハネ7:3-5。軽蔑しきった態度だ。あるときは活動を強引にやめさせようとした。マルコ3:21。頭がおかしくなったと思ったのだ。弟たちにとってイエス様は一家の恥さらしだった。しかし、イエス様がとうとう十字架にかかって死なれたと聞いたとき、ヤコブの心は引き裂かれ、イエス様を信じず、軽蔑したことを悔やんだ。そして、イエス様が復活したと聞いたとき、どうしてもイエス様と会いたいと願った。はたして、ヤコブはその願い通りに復活したイエス様と出会った。主は御自分を求める者に出会ってくださる。ヤコブの人生は変えられた。ヤコブの書いた手紙の冒頭に、ヤコブの信仰の内容が表明されている。ヤコブ1:1。頭がおかしくなったと思い、軽蔑していた兄のことを主と呼び、キリストと呼び、自分をその僕と呼んでいる。ヤコブは初代エルサレム教会の柱と目される三人のうちの一人にまでなった。復活が与えたヤコブの人生の変化は、復活なしには決して起こらないものだ。イエス様はその後すべての使徒に現れた。つまり、この箇所からも使徒は十二人やヤコブやパウロ以外にもたくさんいたということがわかる。

8節。月足らずで生まれたというのは、パウロの敵たちがパウロを中傷するためにつけた侮辱的なあだ名だろう。パウロは実際に顔も姿もかっこよくなかったのではないかと言われている。パウロはそれを否定しない。むしろ、自分はまさに彼らが言う通り月足らずで生まれたようなものだと認めている。なぜならもともと教会を迫害する者だったからだ。9節。パウロはステファノの処刑に賛成票を投じた。エルサレムのクリスチャンたちを老若男女問わずとらえて投獄したり処刑したりした。さらに、クリスチャンがいると聞けば、遠い街まででかけて捕まえようとした。神を冒涜する人々を根絶やしにすることを神が喜ばれると思っていたからだ。そうやって遠いダマスコまで迫害の手を伸ばそうとしたとき、光の中で復活された主イエス・キリストと出会った。しかもイエス様が現れたのはパウロを裁くためではなかった!イエス様は教会の迫害者の罪をゆるし、救うため、そして、逆に使徒として用いるために現れてくださったのだ!主はすべての罪をゆるしてくださる!すべての罪から救ってくださる!パウロは救われ、180度変えられ、世界宣教の使徒となった。この自然には起こりえない変化は復活の確かな証拠だ。パウロは救われたので、罪責感はなくなった。しかし、自分がもともと教会の迫害者だったということを決して忘れなかった。

私たちがもともと神を冒涜する者、呪われた罪人、悪魔の子だったところから救われたということを覚えていることは大事だ。それを覚えているということは、赦しの大きさ、恵みの大きさを覚えているということだ。多く赦された者は多く愛するようになる!パウロは使徒たちの中で一番小さな者、ほとんど使徒と呼ばれる値打ちのない者と自己評価しているが、使徒としての働きとしては一番多くの働きをした。10節。神の恵みによって今日の私があるというのは、すべてのクリスチャンが告白すべきことだ。私たちは働きによって救われるのではない。良い行い、教会での奉仕、伝道などによって救われるのではない。神の驚くばかりの恵みによって救われる。そして、神の驚くばかりの恵みによる救いを体験した人は、驚くほどの多くの働きを喜んでするようになる。いったいどうすればこの恵みにこたえることができるのか!?それで、良い行い、教会での奉仕、伝道をしたくてしょうがない!喜んでする!しかも、それは単にその人が救いの恵みに対する感謝の応答として、ただ自分の力でそうするのではない。救いの恵み自体がその人について回り、多くの働きをする力をも与える。恵みによる救いは私たちを突き動かし、私たちを力づけ、神と人とに仕えさせる!

11節。「私にしても彼らにしても、このように宣べ伝えている」と書いてある。パウロはパウロが発明した独自の福音を宣べ伝えていたのではなく、復活を目撃したほかの使徒たちが宣べ伝えていたのと全く同じ福音を宣べ伝えていたのだ。福音は一つしかない。イエス・キリストの十字架の死と復活しかない。私たちはこの福音を信じるしかない。あなたはこの福音を信じているか?

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