仲間との裁判ざたと聖霊が宿る至聖所[Ⅰコリント6章]

コリントの信徒への手紙一
スポンサーリンク

クリスチャンは仲良くしないといけません。

仲間との裁判ざたと聖霊が宿る至聖所[Ⅰコリント6章]

仲間との裁判ざたと聖霊が宿る至聖所[Ⅰコリント6章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一6:1-20

1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。
17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

【ノート】
5章では、近親相姦の罪を犯した人々について、コリントの信徒たちが何の対処もしなかったことを指摘し、クリスチャンは教会の内部の人々をこそ、裁かなければならないと結論づけた。ここでいう裁くというのは相手の弱点を探して攻撃するためではない。むしろ守るためであり救うためだ。重大な罪を犯して悔い改めない人に対して、罪を指摘して悔い改めに導く。どうしても悔い改めない人に対しては然るべき措置をとる。場合によっては、追放処分もありうる。それは教会全体が悪影響を受けることから守るためであり、罪を犯している本人が滅びから救われるためだ。ヤコブ5:19-20。クリスチャンの中では愛と赦しが叫ばれるが、罪を見て見ぬふりをするのは愛でも赦しでもない。罪に神の光をあてて対処することこそ愛だ。

教会が健全さを保つためには、内部の人々を適切に裁くことが必要。しかし、コリント教会にはそういう能力が皆無だった。重大な罪についてどころか、ちょっとした紛争の解決すらろくにできなかった。1節。ギリシャ人はただでさえ訴訟好きだった。大勢の仲裁人と陪審員を選ぶための法律が存在していた。ギリシャの都市ではだれもが法律家であり、事件を判決したり、裁判を傍聴したりすることに多大な時間を費やしていた。そういう風潮はコリントの信徒たちの中にも持ち込まれた。分派ができていたコリントの信徒たちの仲は悪く、個々人の信徒の間でも紛争がよくあった。そういうとき、信徒たちは教会の内部の聖なる人々、同じクリスチャンに仲裁を求めなかった。それができなかったのだろう。そういう体制が整っておらず、誰にどう相談していいものかわからなかった。それで、正しくない人々、つまり、神を知らない外部の人々に訴え出た。正しくない人々に訴えても、絶対に正しく裁いてもらうことはできないのに!
正しくない人々は、私たちの生きる原則を知らない。神の法ではなく世の法に従って裁く。どうして神に従うクリスチャン同士の紛争を世のやり方に従って裁くのか?それでは、私たちの信仰が実生活で何の力も持たないものとなってしまう!何か事が起こると最終的な決定権を世に渡してしまう、もっといえばサタンに渡してしまう。これは教会が自らの裁く権威を放棄して悪い意味で世に従う奴隷になることを選ぶに等しいことではないか。

教会内の紛争を世の正しくない人々に裁いてもらうことの間違いが2-10節で論証されている。2-3節は、私たちは裁かれる側ではなく、裁く側だということ。逆だ!2節。イエス・キリストが再臨されて世界を裁くとき、教会はイエス・キリストと共に世界を裁くことになる。そして、千年王国をキリストと共に統治する。世を裁く存在が世にわざわざ裁かれようとしてはならない。むしろ、クリスチャンの正しい生き方が、世の人々に罪を悟らせ、裁きを恐れさせるものとならなければならない。
3節。裁かれなければならない天使というのは、悪霊たちのことだ。ヨハネの黙示録の記述から、ルシファーが堕落してサタンになるとき、天使たちのうちの三分の一を引き連れて堕落したと考えられている。悪霊は堕落した天使だ。クリスチャンは天使たちをも裁く。キリストと共に完全勝利するときの最終的な裁きを待つまでもなく、イエス・キリストの御名によって悪霊どもを追い出したり、縛ったりすることができる。教会がそれほどの規模の裁きをするのなら、日常生活のことならたやすく裁けるはずだ。もめごとの仲裁というのは楽しいものではない。誰が好き好んで争いごとに首を突っ込みたいか。しかし、それは私たちが将来発揮することになる偉大な裁きの予行演習として、行っていかなければならないもの。平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

4節。世界と天使を裁く教会の内部の人々の小競り合いについては、教会では疎んじられている人が裁判を担当した。本来ならコリントの信徒たちのどの分派も認めないような人たちだ。水のバプテスマを受けていない、コリントの信徒たちが自慢した聖霊の賜物を受けていない。
5節。コリントの信徒たちは知恵を求めて世の哲学に手を出したが、それは口がうまくなったり、分裂を起こして教会を破壊したりする有害な悪魔的な知恵だった。それで得意になっていた。本当に求めなければならないのは、ここにある「兄弟を仲裁できるような知恵」のように、教会を建て上げる知恵だ。大失敗に無自覚で勘違いしてしまっている人は、恥をかいて愚かさを自覚するようにならなければならない。
もしあなたの教会や周りのクリスチャンについて紛争があり、仲裁できる人がいないなら、人任せにするのではなく、あなたがリーダーシップを持って立ち上がらなければならない。

6節。兄弟は、クリスチャンの愛の優先的な対象だ。ガラテヤ6:10。特に私たちは兄弟に対して善を行う。そのはずなのに、兄弟を訴える。人を訴えるのはサタンのすること。兄弟を訴えることは最善をなすべき対象への最悪な行為だ。教会の無様な姿は法廷で世の人々にさらし者になる。法廷でクリスチャンが醜く争う姿を見た正しくない人々は、「自分はこのような偽善者たちの信じる神だけは絶対に信ずまい」と決意するだろう。多くの人々をつまずかせることになる。

コリントの信徒たちは自分の兄弟を訴えた。ある人々は熾烈な法廷闘争の末、勝訴し、慰謝料をたんまりふんだくることができた人もいたかもしれない。ある人々は敗訴して悔しがった。しかし、実際のところは、どちらも負けだ!7節。兄弟同士で争っている時点で負けなのだ。クリスチャンの勝ち方は世の中とは違う。クリスチャンは復讐をしないこと、それどころかむしろ積極的に奪われることによって勝つ。マタイ5:38-42。このようなクリスチャンの態度は世に衝撃を与えることができる。神の不思議な愛に心を打たれる。
しかし、注意しなければならないこととしては、ここで強調されているのは、教会内でのクリスチャン同士の紛争のことであって、裁判を一切受けてはならず、裁判で自分の権利を主張してはならないということではない。この書簡を書いている使徒パウロ自身、世の人々に訴えられたとき、ローマ市民権という権利を盾に自分を守ったことがある。また、ユダヤの総督のフェストゥスのもとで裁判を受けているときには、不当な扱いを受けているとして、皇帝に上訴した。クリスチャンは、教会の外部の人々から訴えられることがある。世の人々とクリスチャンは所属が違うので、正しくても不当に濡れ衣を着せられてしまうことがある。そういうとき、私たちはあらん限りの正当な手段を使って抵抗してよい。

コリントの信徒たちは奪われる側どころか、積極的に兄弟から奪い取る側だった。そこで深刻な警告がなされる。9-10節。思い違いをしてしまっている人がいる。「何をしてもイエス・キリストさえ信じていれば天国に行ける」と思い込んでいる人がいる。キリストの十字架を罪を犯してもいい口実に利用しようとする人がいる。思い違いだ。そんな約束はどこにもない。むしろ、「決して神の国を受け継ぐことができません」と書いてある。ガラテヤの信徒への手紙にも肉の業を行う者は神の国を受け継ぐことができないと書いてある。そして、ヨハネの黙示録にも火と硫黄の燃える池に入る人の特徴がリストアップされている箇所がある。神の国を受け継げない人はみんなそこに行くことになる。キリストに結ばれる人はだれでも新しく創造された者だ。思い違いをしている人は新しく創造されていない。新しく創造された者としての特徴が全然なく、悪魔の子としての特徴が色濃い。キリストに結ばれていないし、義とされるための信仰を持っていないし、神の子ではない。

11節。「そのような者もいました。」それは過去のことだ。過去のことでなければならない。私はイエス・キリストを信じて変えられた。主イエス・キリストの御名と聖霊によって洗われて聖なる者とされ、義とされた。これが私の今の姿であり、私の立場だ。
イエス・キリストと聖霊様によって変えられ、義とされた人はどのような生き方をするのか?12節。
「すべてのことが許されている。」という言葉は、エピクロス派の哲学者の言葉を引用したものだ。抑制するな、自分自身を表明せよという教えだ。パウロがこれを引用したのは、世の哲学を教会に導入するためではなく、世の哲学とは違う、教会の優位性を示すためだ。「すべてのことが許されている。」なぜなら、信仰によって義とされている人は罪に定められることがない。神が定めた律法に違反した者は呪いを受けるが、義とされている人は律法の呪いを受けることがない。完全に自由だ。「すべてのことが許されている」なら、そこには無限の可能性がある。何でもしてよいなら、何をするか?その人の本質が問われる。何でもしてよいなら、思い違いをしている人は9-10節にあるような罪に溺れてしまうだろう。しかし、聖霊を受けた人は違う。聖霊を受けた人は罪を犯したいと思わない。聖霊に導かれる人は正しくない人々とは別の原則によって生きることになる。そして、「すべてのことが許されている」のは、ただ聖霊に導かれている人に対してだけだ。あのサウル王がサムエルから王としての油注ぎを受けたとき、何と言われたか?サムエル上10:5-7。主の霊が激しく降ると私たちは別人のようになる。もはや正しくない人々とは違う原則で生きるようになる。そして、「しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」とすべてのことに対して許可が与えられている。聖霊に導かれているので、すべてのことが許されても悪い方向に行かないのだ。クリスチャンだけが自由の意味を知っている。クリスチャンだけが自由を正しく用いることができる。

聖霊に導かれている人には大きく二つの原則がある。一つ目は「しかし、すべてのことが益になるわけではない」。ひたすら遊びまくったり、趣味活動に没頭したりすることも許されている。しかし、自己満足のためだけの楽しみにふけるのは時間がもったいない。益とならない。それでは、神に仕えることができない。人に仕えることができない。賜物を無駄にしてしまう。何か月も、何年も自分のためにだけ時間を使うなら、主の御前に立つとき、その期間はすべて無駄だった。永遠に残るものを何も築かなかったことになる。それは私たちのためにならない。もっと益となることをしたい。神からの召命にこたえて、永遠の報いを豊かにする生き方がしたい。そして、御前に立つときに主にほめていただこう。「忠実な良い僕だ。よくやった。」
二つ目の原則は「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。自由を間違った方法で用いて罪を犯すなら、罪に支配されてしまい、その分自由は剥奪されることになる。罪を犯し、罪に束縛されるのは不幸なことだ。罪とまでは行かなくても、世のことに没頭してしまうことも、そのことに支配されてしまうことだ。そういうことをしなくて良いのはすばらしいことだ!無駄なこと、聖霊を悲しませることを私たちはしなくていい!これがクリスチャンに与えられている自由を用いる原則だ。

この二大原則に反するものとして、13節から20節では、コリントで特に問題となっていたみだらな行いをとりあげ、それがいかに益とらず、私たちを支配しかねない悪いものであるのかを説明する。13節で食物は「腹のため、腹は食物のためにある。」両者には深い結びつきがあり、互いを目的としている。しかし、これらは一時的なものであり、神はどちらも滅ぼされる。「体はみだらな行いのためではなく主のためにあり、主は体のためにおられる。」ここでいう体というのは、キリストの体である教会と一人一人のクリスチャンのことをさす霊的な意味と私たちの肉体というそのままの意味の両方が込められている。主と体には深い結びつきがあり、相互を目的としている。主は体のためにおられる。私たちは神聖な存在だという、私たちは主にとって大事だということ。そして、主と体の関係は永遠的なものだ。私たちの体も一度は滅びるが、やがてキリストが復活したように復活する。キリストと私たちの結びつきは永遠だ。
主と体、キリストと私たちが深く結びついているということは、私たちのすることすべては、キリストと関わっているということだ。この点からみだらな行いの罪の特殊性と深刻な影響を見ることができる。15-18節ではみだらな行いの罪の深刻な特性について、3つ説明されている。
1つ目は15節。みだらな行いはキリストを汚しかねない。聖書も神の力も知らない人はマグダラのマリアがイエス・キリストの妻だということがある。スキャンダル好きの人間の気持ち悪い嘘だ。しかし、もしキリストと結ばれた人がみだらな行いをするなら、嘘ではなく、キリストに気持ち悪い罪との関わりを実際に持たせてしまうことになる。もちろん、「決してそうではない」と書いてあるように、キリストは決して汚れることのないお方だ。キリストが汚れた者に触れるとキリストが汚れるのではなく、汚れた者の方が清くなる。それでも、キリストの御顔に輝く栄光に泥を塗ることになってしまうに違いない。

2つ目は16節。みだらな行いは相手と強い結びつきを発生させる。一時的な快楽目的の性的関係を持とうとしても、決して一時的ではすまされない。その相手との汚れた霊的な結びつきが残ってしまう。二人は一体となると書いてある。その結びつきを通して相手の霊的、精神的、肉体的な状態が侵入してくる。もし過去に配偶者以外との性的関係を持ったことがあれば、悔い改めて、主イエス・キリストの御名によってその関係を断ち切ることをおすすめする。

3つ目は18節。みだらな行いは体に対して罪を犯す。ほかの罪は自分の心を汚すことになるが、みだらな行いは心+体を汚す。その影響は体の内に残る。だから、みだらな行いは避けなければならない。戦いを挑むのではなく、避ける。逃げるが勝ち。

みだらな行いを避ける上で大事なのは、私たちの体がいかに大切かを知ることだ。19-20節。神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿とある。ここでいう神殿にはナオスという言葉が使われている。神殿にあたるギリシア語は二種類ある。ナオスとヒエロンだ。ヒエロンは神殿全体をさす。ナオスは至聖所をさす。神の臨在が最も著しく臨む場所だ。私たちの体はこの世界の中で、神が御自身を最も強く現わされる場所なのだ。私たちの体は尊い。私たちは体を大切にしなければならない。
私たちの体というけれども、それは私たちが所有している体という意味ではない。もし私たちの体が自分のものだったら、自分のものをどう処分しても罪に問われることはない。しかし、私たちの体は自分のものではなく、所有権は私たちを愛してご自分の命を代価として払ってくださったキリストにある。私たちの体はキリストのものだ。他の人の体に悪いことをしたら犯罪だ。
これらのことを知るだけでみだらな行いをやめる人、それだけでなく体に害となるドラッグ、酒、タバコをやめる人がいる。やめろと言われてやめるのではなく、体は大切だからやめるのだ。
では、キリストが所有する至聖所である体を預かっている者として、私たちは体をどう用いればいいのか。私たちは至聖所をまかされている祭司として、神の栄光を現すために体を用いる。益となること、神に喜ばれることのために生きる。自分の体で神

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で教会と聖書勉強会の集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました