イエス様からほめられる信仰

福音&主題メッセージ
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イエス様は私たちの信仰をじっと見ておられます。

イエス様からほめられる信仰

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【ノート】
イエス様が人々を見るとき、人々の外見だけを見て判断するということはなかった。イエス様が人々を見るとき、人々の顔よりも人々の心を見た。特に人々の信仰を見た。マタイ8:10、マタイ9:2。信仰はイエス様の目にはっきりと見えた。そして、このようにすばらしい信仰を持っている人たちのことをほめた。逆に弟子たちを見たとき、イエス様は何と言われたか?「信仰の薄い者たちよ!」イエス様が人を評価するとき、いつも用いた尺度は信仰だった。イエス様は人の信仰の良し悪しを見ておられる。イエス様はいつも人の信仰に関心を持ち、注目しておられる。それは、信仰こそが私たちに救いをもたらし、天国を地上にもたらすものだからだ。イエス様は人を癒したとき、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエス様はいまも、私たちの信仰をじっとご覧になっている。イエス様はあなたの信仰を見て何と言われるだろうか?「これほどの信仰を見たことがない」とほめられるか?それとも、「信仰の薄い者よ!」と言われてしまうか?私たちはイエス様にほめられる信仰を持ちたいものだ。
では、イエス様がご覧になってほめてくださる立派な信仰はどういう信仰なのか?そもそも、信仰とは何なのか?信仰は、神に対する信頼、確信、保証だ。信仰は神から賜物としていただく。信仰は永遠に残るものの一つ。私たちはイエス・キリストを主とする信仰によって罪から救われる。ただし、信仰はただ罪からの救い、永遠の命のためだけに用いるものではない。生活の具体的な出来事の中で発揮される。イエス様が信仰をほめられたときも、人々が癒しや奇跡に対して信仰を発揮して行動を起こしたときだ。イエス様にほめられる優れた信仰の特徴を大きく三つお伝えする。

第一に、イエス様にほめられる信仰は御言葉を自分に結び付ける信仰。信仰というのは、何でもかんでも信じるものではない。信仰は神と神の御言葉を信じるもの。だから、御言葉を聞いたり読んだりすることが大事だ。御言葉を受け取るときに信仰は発揮される。ヘブライ4:2。ここでいう「彼ら」というのは神に従わず、約束の地に入ることができなかったイスラエルを指す。彼らはみな荒れ野で死んでしまった。その原因は不信仰だった。彼らもモーセを通して御言葉を聞いていた。しかし、御言葉が聞いた人々と信仰によって結びつかなかった。彼らは御言葉と自分は関係ないと思ってしまった。それで神の約束を聞いていたのに、約束の地に入ろうとしなかったので、荒れ野で死んでしまった。

今でもいくら御言葉を聞いても自分と結びつけることができない人がいる。その人は聖書を大昔に書かれた何千kmも離れた行ったことのない国の話として右から左に抜けていく。神のすばらしい約束や奇跡については、「これは神話に過ぎない。これは作り話だ。これは話を誇張している」と何の根拠もなく否定してしまう。あるいは、読んで感動はする、場合によっては涙を流すけれども、心のどこかで「聖書は聖書。自分は自分」というふうに壁をつくってしまう。罪を戒める内容については、「これはあの人が読めばいいのに」と思い、まさに自分にあてはまる内容でも「あれは仕方なかったんだ。こんなの守れるわけがない」としてしまい、悔い改めない。そういう御言葉の受け取り方だといくら御言葉を読んだり聞いたりしても何の変化も起きない。
私たちは信仰を使うことによって御言葉と自分を結び付けることができる。信仰を使う人は、御言葉を神から私に対して与えられているメッセージだとして受け取る。御言葉を誰かほかの人ではなく、私と結びつける。御言葉はすべて真実だと信じ、自分に結び付けて実践する。聞くだけでなく聞き従う生きた信仰だ。それは現代に生きる私にまさにあてはまる。私に対する約束の御言葉を聞くと喜び踊る。厳しい御言葉は私を生かすための私に対する命令であり警告だ。それを感謝して受け取り、自分を吟味し、悔い改めるべきところがあれば素直に悔い改める。その人は、信仰によって御言葉が自分の内に生きて働くことを体験するようになる。「なるほど、確かに御言葉は真実であり、生きて働く」それによって信仰は増し加わる。
ローマ10:17。信仰によって御言葉を自分に結び付け、御言葉によって信仰が増すという良いサイクルが生まれる。私たちは御言葉を自分に結び付けてイエス様からほめられるものとなろう。「これほどの信仰は日本で見たことがない!」

第二に、イエス様にほめられる信仰は見えないものの保証となり、証拠となる信仰。ヘブライ11章は信仰の章。神にほめられたすばらしい信仰者たちのリスト。その冒頭がヘブライ11:1-2。信仰の機能について、二つのことが言われている。まず、「望んでいる事柄を確信し」とある。新改訳第三版では「望んでいる事柄を保証し」となっている。私たちは神にいろいろなことを祈り求める。特に信仰によって自分に結びつけられた御言葉の約束の実現を祈る。それは良いことだ。主は求めなさいと命じておられる。信仰を使って祈ると、信仰は、まだ祈り求めたものが与えられていなくても、与えられるという保証となる。保証というのは、絶対に大丈夫だと太鼓判を押すもの。その人は実際に与えられる前に平安を得て確信を持ち、神に感謝することができる。
そして、「見えない事実を確認する」とある。英語の聖書では確認するは“Evidence”、つまり証拠となっている。見えない事実の証拠が信仰。信仰が見えない事実の証拠なら、見えないものを確認する上で信仰以外のものは必要ないということがわかる。「神を見たら信じる」という人がいる。しかし、すでに見えている事柄は信仰の対象にならない。たとえば、自分が持っている財布の中のお金は、目に見えるので信じることはできない。
見えないものであっても、科学で説明できることがある。空気中には酸素や窒素や二酸化炭素があり人間はそれを吸って生きているし、空気中には様々な電磁波が飛んでいて太陽からの紫外線については対策をしなければならないし、人為的に電波を出して無線でインターネットに接続できる。そういったことは目に見えないが科学的に説明できるし、証拠をあげることができるので、もはやあえて信仰を発揮する必要はない。信仰はもっと広い範囲をカバーする。信仰はそれ自体、あらゆる目に見えないものについての最後的な証拠だ。信仰を使えば、科学ではほとんど説明できない霊的な事柄や超自然的な事柄を信じることができる。悪霊の追い出しやあらゆる病気と煩いの癒し、その他の奇跡を信じて、実践することができる。イエス様はからし種一粒の信仰があれば山を動かすことができると言われた。信仰を使えば山を動かすことも信じることができる。そして、実践して不可能を可能にできる。
さらに、信仰を使えば、論理的に破綻していることをも信じることができる。三位一体論は、論理的には説明できない。一つでありながら三つであり、三つでありながら一つであるというのは論理が破綻している。矛盾している。しかし、信仰を使えば信じることができる。信仰者は神の本質は人間の論理を超越していると信じる。だから、仮に口のうまい無神論者と議論してやりこめられたとしても、信仰者は大して気にしない。信仰者は自分の頭やほかの人間の頭といったちっぽけなものよりも、偉大な神を信じるからだ。信仰者は論理よりも優れた信仰という証拠を持っている。
そして、信仰者はたとえ死んだ後に地獄で目覚めても、神を信じ続ける。信仰者は目の前に広がる地獄の光景よりも神の約束の御言葉によって自分が天国に入れることをもっと信じる。だから、地獄で目覚めても、悪魔の惑わしか、脳の錯覚か、何らかの啓示によるものであって、自分は御国の住民であり、天国に入れるということを信じて疑わない。嘘かまことかわからない目の前の光景よりももっと強力な、信仰という証拠をもっているからだ。
地獄で目覚めても信じる!これが信仰だ。何があっても絶対に神を信じる。盲目的だと批判する人がいるかもしれない。実は逆だ。信仰は神からの賜物であり、言ってみれば第三の目を開いて見るようなもの。信仰のない、つまり霊的に盲目な人には見えない事実を信仰者は見ることができる。信仰を使うというのは肉体の目よりも優れた新しい目が開いてみることなのだ。イエス様が目には見えないはずの私たちの信仰をじっと見ておられるように、信仰者の方も、目には見えないものが見えるようになる。見えないものを見る信仰によって生きる者となろう。アーメン。

第三に、イエス様にほめられる信仰は試練に耐える信仰。信仰にはいろいろな試練がつきものだ。試練というのは、大変なことが起きて信仰が厳しく試されること。具体的には、信仰のゆえの迫害、経済難、病気、霊的戦い、約束の実現を長い年月待たなければならないこと、状況が悪化しているように見えること、神から大きな献身を要求されることなどが挙げられる。
大変なことは起きてほしくない。しかし、試練は避けることができない。そして、避けるべきではない。試練は善いことのために与えられるからだ。Ⅰペトロ1:7。「信仰が本物と証明され」と書いてある。
試練は信仰をくじくために与えられるのではない。神の御心は、信仰によって試練に打ち勝ち、私たちの信仰が本物と証明されることだ。試練は信仰がちゃんとあるということを示すチャンスとして与えられる。本物の信仰があればどんな試練も乗り越えることができるということ。そして、試練が与えられていること自体、すでに私たちの信仰がある程度神に認められているということ。もし私たちの信仰が試練に全然耐えられないものなら、神は最初から試練を与えない。大きな試練が来ることは大変光栄なことなのだ。私たちは試練を乗り越えることができる。信仰を守り抜き、望んでいる事柄を手に入れることができる。

そして、本物と証明された信仰の価値はどれほどのものかというと「火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて」とある。試練と火の精錬は似たところがある。それは不純物を取り除いてより価値のあるものにするということ。試練によって私たちの信仰はより純粋なもの、価値のあるものに成長できる。そして、その価値は精錬された金よりも尊い。金の価格は最近のレートだと1g7000円前後。尊いね!でも信仰はそれよりもはるかに尊い。金は朽ちてしまうが、信仰は永遠に残るからだ。
ものの価値というのは、それを評価する人によって決まる。私たちの信仰を評価するのは、イエス様だ。イエス・キリストが再臨されるとき、私たちの本物の信仰をご覧になって、イエス様は高く評価し、ほめてくださる。「称賛と光栄と誉れとをもたらす」と書いてある。イエス様が私たちをほめ、永遠に残る天国民栄誉賞を授与してくださる。試練は、イエス様からほめられるチャンスなのだ。だから、試練に遭ったら喜ぼう。ヤコブ1:2には「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときはこの上ない喜びと思いなさい」と命じられている。イエス様から信仰をほめられた人々はみんな、試練に遭っている人たちだった。自分の大切な人が病気だったり、悪霊にとりつかれていたりした。私たちも、そういう危機的な状況にあってこそ信仰を発揮して、主にほめていただけるものとなろう。アーメン。
イエス様はいまもこれからもあなたの信仰を見られる。これからは主の目に自分の信仰がどのように映るか、意識して歩んでいこう。そうすれば、かの日に、イエス・キリストが再臨される日に、ほめていただけるだろう。「立派な信仰だ。」

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