勇者よ、主はあなたと共におられます[士師記6章]

士師記
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あなたも勇者です!(^^)/

勇者よ、主はあなたと共におられます[士師記6章]

勇者よ、主はあなたと共におられます[士師記6章]

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聖書箇所:士師記6:1-40

1 イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。
2 ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。
3 イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。
4 彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。
5 彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった。
6 イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。
7 イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、
8 主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。
9 わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。
10 わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」
11 さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
12 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」
13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」
14 主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
15 彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」
16 主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」
17 彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。
18 どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
19 ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。
20 神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。
21 主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。
22 ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」
23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」
24 ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。
25 その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭、すなわち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。
26 あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物としてささげよ。」
27 ギデオンは召し使いの中から十人を選び、主がお命じになったとおりにした。だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った。
28 翌朝早く町の人々が起きてみると、バアルの祭壇は壊され、その傍らのアシェラ像も切り倒されていた。築かれた祭壇の上に第二の若い牛がささげられているので、
29 人々は口々に、「誰がこんなことをしたのか」と言った。尋ねまわってヨアシュの子ギデオンの仕業だということが分かった。
30 町の人々はヨアシュに言った。「息子を出せ。息子は殺さねばならない。バアルの祭壇を壊し、傍らのアシェラ像も切り倒した。」
31 ヨアシュは、責めたててやまない人々皆に向かって言った。「あなたたちはバアルをかばって争うのか、バアルを救おうとでもいうのか。バアルをかばって争う者は朝とならぬうちに殺される。もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊されたのだから、自分で争うだろう。」
32 ギデオンがバアルの祭壇を壊したので、「バアルが彼と争うがよい」と言って、父はその日ギデオンをエルバアル(バアルは自ら争う)と呼んだ。
33 ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が皆結束して川を渡って来て、イズレエルの平野に陣を敷いた。
34 主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。
35 彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もまた彼に従って集まって来た。アシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わすと、彼らも上って来て合流した。
36 ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、
37 羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
38 すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。
39 ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」
40 その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。

【ノート】
1節。主の目に悪とされることとは、具体的にはまたバアルとアシェラをはじめとするほかの偶像の神々を崇拝し始めた。主の目に悪とされると書いてある。人間の目にはどの神を拝んでも良いし、悪には見えない。だからこそ、人間はいろいろな宗教を持ち、自分の気に入った神を選ぶ。「両親は主を崇拝していたが、自分には自分の人生がある」として、次の世代はほかの神々を崇拝し始めた。生きておられるまことの神である主の目には、それは悪だ。礼拝は人間の存在の中で最も重要な部分を占める。どのような神を選んで崇拝するかということは、その人の考え方、神観、価値観、倫理観、人生観を決めることだから、その人の人生全体を方向付ける。主を差し置いて自分の良いと思う宗教を持つというのは、間違った考え方、間違った神観、間違った価値観、間違った倫理観、間違った人生観を持つことであり、人生全体を主がおられない間違った方向に方向付けることになる。それは非常に悪いことだ。そして、主はイスラエルと契約を結んだ。それは子々孫々にまで関係のある契約だ。その契約を破ってほかの神でないものを神とすることは裏切りだ。イスラエルはほかにも罪を犯したであろうが、主の目に悪とされることは常にほかの神を崇拝するという裏切り行為だ。
そこで、今度は主はミディアン人を用いてイスラエルを懲らしめることにした。ミディアンはアブラハムと妻ケトラの間に生まれた子供に由来する。ミディアン人はカナンの地の南側のシナイ半島からヨルダン川の東側のモアブの地までの広い範囲に住んでいた遊牧民だ。

2-5節。主から離れた人生がどのようなものかこの箇所が良く教えてくれる。種を蒔くのは、収穫を期待してのことだ。汗水流して一生懸命種を蒔いて作物を育て、家畜たちの世話をするのは、それによって生きていくための糧を得ることができるからだ。人生は大変な労苦の連続だが、労苦は報われるのでがんばることができる。特に、主がどんな小さなことすら報いてくださるということは私たちにとって大きな希望だ。詩編126:5-6。しかし、主から離れた人々は、大変な苦労して育てた命の糧を全部奪われてしまう。汗水流した労苦の結果が全部何も労苦しなかった他人のものになってしまう。ミディアン人と東方の諸民族はいなごのように数が多かった。多勢に無勢、奪われても抵抗できない。逃げ隠れすることくらいしかできない。ミディアン人がいなごのようだったのは数だけではない。いなごに憐れみの感情がない。作物に襲い掛かるときに容赦しない。同じようにミディアン人は憐れみが全くなく、イスラエルが生きていくことについてはお構いなしに、情け容赦なくすべてを奪い去ってしまった。これは申命記28であらかじめ警告されてきたことだ。申命記28:31,38。主から離れれば労苦の結果を何もかも取り上げられてしまう。もし、いまいなごが自分の人生を食い尽くそうとしていると思われる方がいれば、早く主に立ち帰ることをおすすめする。

イスラエルは主に助けを求めた。6-10節。これまではすぐに救助者である士師が遣わされたが、今度はまず預言者による戒めの御言葉が語られた。イスラエルはなぜ自分たちが苦しい目にあっているのかよくわかっていなかった。イスラエルは主に助けを求めてはいたが、はっきりとした悔い改めをしていなかった。実際に、人々はまだバアル崇拝をやめていなかった。そこで、主は預言者を通してイスラエルが自分たちの置かれている境遇が偶然によるものではなく、罪のためであるとはっきりと知るためだ。預言者はイスラエルがしてきたことがどうして悪いのかを指摘する。人間が繰り返し罪を犯してしまう理由の一つは、良心が麻痺しているからだ。罪を罪と感じないし、考えない。立ち帰れと言われてもどう立ち帰ればいいかわからない。そういう人に対しては、罪がなぜ悪いのかということを説明しなければならない。

イスラエルには主を信ずべき理由があった。第一に、主は助けてくださった。エジプトで奴隷として苦しめられているところを助けてくださり、カナンの地の征服を助けてくださった。今まで助けてくださった主を信頼し、感謝して従うことが必要だ。第二に、主はあらかじめ命じておられた。アモリ人の神を畏れ敬ってはならないと。だから、悪いことだと知らなかったという言い逃れはできない。
苦しいことが全部罪のよるものというわけではない。しかし、私たちが何か大きな苦しみにあっていて、主による喜びを失ってしまっていることがあるならば、私たちは助けを求めるだけでなく、へりくだらなければならない。特にほかの人や御言葉によってそれを示されたときはそうだ。罪を犯しておきながら、大したことはないと考えていないか。主に助けていただいたことを忘れて、主の命令に背いていないか。罪を認識しないなら主からの助けも得られない。私たちは罪をはっきりと悪いことだと認識して、御前で告白する者となろう。

11節。テレビンは、力や強さを象徴する。礼拝の場として用いられていた。ここでギデオンは密かに主を礼拝していたのかもしれない。ここでいう主の御使いは、受肉する前のキリストのこと。それは後でわかる。キリストが来られたのは、イスラエルの救いに用いる器に、召命を与えるためだ。世界をひっくり返す器を選ぶとなると、私たちだったどこに行くだろうか?主は、世界をひっくり返す器を選ぶために、王族や学者や知識人や軍人のところに行かずに、ガリラヤ湖で魚をとっていた漁師のところにいった。人間には全く理解できない感覚だ。同じように、主はミディアンから奪われないように酒ぶねで小麦を打っていたギデオンのところに行かれた。はたから見たら臆病者にしか見えない。
12節。「勇者よ!」と呼びかけている。ギデオンのどこが勇者に見えたのか?その酒ぶねに隠れて小麦を打っている姿だけを見れば、誰も勇者には見えない!人違いではないか?そんなことはない。主は私たちをご覧になるとき、今現在の弱い私たちだけをご覧になるのではない。主は現在、過去、未来を同時にご覧になる。むしろ、主が私たちをご覧になるとき、私たちが将来主によって到達しうる最高の状態を状態をご覧になるのだ。主がシモン、葦という名前の漁師をご覧になったときも同じようにされた。葦は風にそよぐひょろひょろとした植物。ぽきっと折れてしまいやすい。信仰者の名前としては最悪だ。しかし、主はその葦という名前の漁師にペトロ、岩というあだ名をつけられた。主はその漁師を見たとき、堅固な信仰を持って初代教会の強力な指導者となるペトロを見ておられたのだ。ギデオンは慎重な性格だった。それで、信仰のない人、臆病者と誤解されやすいが、ギデオンは確信を得たときにどこまでも突き進む爆発力を持った人だった。主はそのようにご覧になり、私たちに一声かけられるだけで私たちを励ましてくださる。ギデオンというのは、「切る者」という意味で、その名が指し示すところは、木を伐採する者と強力な戦士の二つに分けられる。その二つであれば、主は強力な戦士ととってくださる。どの時点を見ても良いところ、私たちを呼ばれるときに、最高の時点でご覧になってくださるのは大きな慰めだ。主が私たちを聖なる者と呼ばれるとき、主は御国でキリストにあって罪の汚れが何一つない完全な私たちをご覧になって呼ばれるのだ。
そして、もう一言励ます。「主はあなたと共におられます」と。これがギデオンが勝てる理由であり、私たちが罪に打ち勝ち、世に打ち勝ち、悪魔に打ち勝てる理由だ。

ギデオンは相手が誰かを知らずに答えた。13節。この箇所から、ギデオンは自分の生活のことだけを考えていたわけではないことがわかる。ギデオンにはイスラエルを憂える気持ちがあった。また、ギデオンは主が過去になさった驚くべき御業を覚えていて、信じていた。しかし、現在のイスラエルの惨めな状況との間の大きなギャップを感じていた。それで、主はイスラエルを見放してしまったのではないかと悩み苦しんでいた。このように大きな問題意識を持っていることは良いことだ。私たちもそうでなければならない。いまの教会の現状でいいと思っていてはならない。
自分の教会で、初代教会のように主の驚くべき御業が起こらないこと、大勢の人が救われないことに問題意識を持たなければならない。そういうところに祈りが生まれ、油注ぎが与えられ、主の御業がもう一度起こる。リバイバルが起こる。

14節。「あなたのその力をもって」と書いてある。主が私たちを遣わされるとき、ないものを要求されることなく、すでに持っているものを用いてくださる。
ギデオンはぜひ用いてほしいと思った。しかし、ギデオンは「あなたのその力を」と言われても途方に暮れてしまった。自分の力では到底勝てそうにないからだ。そこで、ギデオンは自分がどれだけ力がないかを説明する。15節。私の主よ、アドナイ、と言っていることからギデオンは自分が話している相手はただの人ではないということに気づき始めている。主が最高のギデオンをご覧になったのと対照的に、ギデオンは最低の自分を見ていた。いまの自分自身に焦点をあてるなら、主が命じられることに途方に暮れるしかない。大宣教命令を成就する?アガペーの愛で神を愛し、隣人を愛する?この私ができるはずがない!お手上げするしかない。うまくいくとは信じられない。それは良いことだ。自分の力に頼らなくなる。それでは、どうすればいいのか?主に焦点をあてることだ。16節。主は同じことをここでもう一度言われた。ギデオンが否定してしまったからだ。私たちもよく忘れてしまうのではないか。主が共におられる。これが弱くて足りないよう思えても今の力のままで敵を倒せる理由だ。私たちに足りないものは主が全部持っておられる。その主が共におられる。だから、敵を倒せる。使命を全うできる。ミディアン人の恐ろしいところはいなごのように地を埋め尽くすくらい大勢いたことだった。ところが、主はミディアン人を一人の人であるかのように倒すことができるようにしてくださる。主は敵の最も恐ろしい特徴を無力化されるのだ。主が共におられる。ここに焦点をあてよう。そして、主が共におられるその先に最高の自分がいる。主の瞳に自分がどう映っているか、主がご覧になるように信仰の目で自分を見るようにしよう。

17-18節。ギデオンは主の御言葉によって勇気づけられた。しかし、ギデオンは慎重な人だった。主が語られたのかどうか、しるしを求めている。供え物をささげることによって、本当に主からの召命なのかを確かめようとした。主はそのことを咎めていない。単純に不信仰や悪意によってしるしを求める場合、主から叱責される場合がある。しかし、ギデオンの場合は、ミディアン人と戦えという命令を受けている。それが本当に主からの命令かを確かめるのは当然ではないか。もし主からの御言葉ではなく、気の迷いか悪霊の言葉にまどわされて戦いを始めてしまったら取り返しのつかない!ものすごく重大な決断が必要なときには、預言を鵜吞みにするのではなく、よく吟味することが必要だ。19節。子ヤギまるごと1匹に麦粉約23リットル。ミディアン人から略奪されて困窮した生活をしていたに違いなかった状況で、これだけのものをささげるのは容易ではない。しるしを求める場合にもギデオンは誠実だった。ギデオンは精一杯の供え物をした。

20-22節。主はギデオンの供え物を喜び、火をもって応答された。その瞬間、御使いは消え、ギデオンはその方が主の御使いであることに気づいて恐れた。同じことを新約聖書で見ることができる。主は復活した後、エマオに向かっていた弟子たちに現れたが、弟子たちの目はさえぎられていて、主だとわからなかった。主がパンをとり、賛美の祈りを唱えて割いて渡したときに、弟子たちは初めて目が開かれて主だとわかったが、主は見えなくなった。

ギデオンが恐れたのは、神を見た者は死ぬと書いてあるからだ。しかし、主は安心させる。23-24節。主の御言葉を聞いて、ギデオンは安心した。ギデオンは神との間に平和を得た。そこで、祭壇を築き、「平和の主」、アドナイ・シャロームと名付けた。シャロームはキリストが復活した後に、弟子たちにした挨拶だ。「あなたがたに平和があるように」とキリストは繰り返し言われた。
受肉する前のキリストを見ても、ギデオンは死ななかった。そして、シャロームを得た。キリストは大きな隔たりがある神と人との間を十字架によって橋渡しをするために来られたお方だからだ。キリストにあって、私たちは神との間に平和を得て、心に平和を得ることができる!その平和は状況や環境を超越したものだ。ギデオンはこれから大きな戦いを始めようとするところだった。最も心が乱されやすい状況だった。その中にあって主によって平和を得ることができた。アドナイ・シャロームは大きな戦いの中にあっても主によって平和を得ることができることを示している。そして、平和は勝利を得ることが約束されているからこそのことでもある。だから、主によって、戦いに勝利して平和を勝ち取ることもできることを指している。

25-27節。ギデオンの父ヨアシュもバアル崇拝者だったのだ。ギデオンはそういう家庭環境の中でも流されずに主への信仰を持った人物だった。どんな環境で生まれ育っても、私たちは主を信じることができる。主は戦いを前に家族の中にある偶像を破壊するように命じられた。家族が問題だらけなのに、何もせず、遠くにいる自分と直接関係ない人たちばかりに関心を持つのは偽善だ。家族の問題を解決しようとする人が、ほかの人々に対しても通用するようになる。ギデオンは命令に従順した。人々を恐れて夜に偶像を破壊したが、主は昼間に実行するようにとは言われなかったので、命令に背いてはいない。ギデオンを見ると、確かに非常に慎重な性格ではあったが、主が命じられたことに不従順するということが一度もない。命じられたことはすべて従順した。人々を恐れる以上に主を恐れていたからだろう。主を恐れて、その命令に従う人については主が守ってくださる。
28-32節。バアルの祭壇はヨアシュのものだった。ところが、怒ってギデオンを殺そうとしたのは、町の人々で、当の祭壇の所有者だったヨアシュはギデオンを弁護した。息子を思うあまりというより、ギデオンの行動に感銘を受けたのだろう。主によって心動かされたのだろう。ヨアシュは自分の息子から祭壇を守ることができないバアルを崇拝することの虚しさに気づいた。ましてや、そんな無力なバアルをかばおうとするのは愚の骨頂だ。ギデオンの行動は多くの主を礼拝するイスラエル人を奮い立たせた。
33-35節。敵が迫ってくると、主の霊がギデオンを覆った。それまで何も変化がなかったとしても、戦いが迫れば、聖霊様の力も激しく臨むようになる。ギデオンは聖霊様によって大胆になり、人を動員した。すると、まず自分の一族のアビエゼルが集まってきて、次にほかのマナセ族の人、それから、アシェル、ゼブルン、ナフタリも合流した。3万2千人も集まった。

36-40節。ギデオンの慎重さはものすごいものだった。3万2千人も人を集めたら、もう後にはひけないと思わないか?ギデオンは思わなかった。むしろ、自分の命だけでなく、3万2千人の命がかかっているのだ。ギデオンはなおさら慎重になった。もし自分の気の迷いだったら、「主はやっぱり語っておられなかった」と言って、3万2千人を送り返す気だった。ギデオンは場の空気に流されることなく、どこまでも確実さを追求する人だった。しかし、ギデオンとしても、主に何度もしるしを求めるのは、はばかられる、そんなにいいことではない、という思いはあった。だから、39節で、「お怒りにならず、もう一度言わせてください」と言っている。主は、お怒りになったか?お怒りにならなかった。しるしを見せてくださった。トマスに御自分の手と脇腹の穴をお見せになったように。主は信じたい、従いたいという思いでしるしを求めることを決してお怒りにはならない。だから、私たちも大きな決断が必要なときに、このようにしるしを求めて祈ってみても良い。主が同じように答えてくださるケースはある。羊の毛と地面のしるしからわかるのは、主は一つ一つの対象を正確に見分けておられ、主はある者にだけ命を与え、ある者だけを滅ぼすということを意のままにすることができるということがわかる。主は私たちに命を与え、敵を滅ぼしてくださる。ハレルヤ!そのことを信じて、信仰の戦いに踏み出していく私たちになろう。

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