私たちの使命

福音&主題メッセージ
スポンサーリンク

使命を再確認しましょう。

私たちの使命

私たちの使命

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
新しい一年が始まった。新しい年には新たな主の御業がある。主は私たちのためにすでに計画を立ててくださっている。イザヤ43:19。私たちはこれを悟ろう。荒れ野に道。私たちの心にかかっていること、思い煩いや祈り課題、何とかしたいこと、しかし、なかなか手が届かない、妨げがある、そこまで到達できない、そこまでの道が見えないということはあるだろうか?主は道を敷いてくださる。全然通れなかったのに、自由自在に通れるようにしてくださる。

また、砂漠に大河。自分の力が及ばない、生き生きとした活動ができない場所、領域。それは私たち自身の心かもしれない。家庭かもしれない。仕事かもしれない。勉強かもしれない。私たちの目に死の砂漠のように思えるその領域に、主が命の大河を与えてくださる。私たちは主からの命に満ちあふれて、どこにいっても、どんな分野でも生き生きと活動できる。

さて、主が新しい御業をなさり、敷いてくださる道、大河による命を期待できることがわかった。後は何が必要か?イエス・キリストが言われたのは、「私は道であり、真理であり、命である」だ。私たちには真理が必要だ。これからの一年間365日をどう歩むか?どんな抱負をいだき、どんな目標を掲げるか?一生懸命努力するという人もいれば、マイペースにやるという人もいるだろう。どちらにせよ、何を基準に、何を目指していくのか?私たちの気分や感情、自分なりの考えだけに頼るなら、おぼつかないものとなる。的外れなものになる。年が変わっても私たちの変わることのない使命は何なのか?それを再確認しよう。では、何によって知ることができるか?真理の御言葉である聖書によって知ることができる。詩編119:105「あなたの御言葉はわたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と書いてある。

聖書には、クリスチャンが使命として認識すべき命令が大きく2つ書いてある。最重要命令と大宣教命令だ。クリスチャンが取り組むことはこの2つに集約される。この2つのことにおいてこそ、私たちは新しい主の御業を期待すべきだ。

まずは、最重要命令について。マタイ22:37-40。2つの掟があげられているが、どちらも愛しなさいという掟。主が私たちに愛することを望んでおられるのはなぜか?それは主が愛のお方だからだ。ヨハネの手紙一4:16には「神は愛です」と書いてある。主は私たちに心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神のである主を愛しなさいと命じておられている。ということは、主は私を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛しておられるということだ。主はみなさんに無限の愛を注いでおられる。あなたは神の愛を体験したか?どのくらいしたか?私たちは知らないこと、体験したことのないことを行うことはできない。英語を知らなかったら英会話しろと言われてもできない。野球をやったことがなかったらいきなり野球をしろと言われてもできない。同じように愛を体験しなければ、愛を行うことができない。この愛を体験したことがない人は多い。この最重要命令で用いられている愛というのはアガペーの愛は世には存在しない。アガペーは神の究極的な愛、無償の愛、無限の愛だ。アガペーの愛を自然に体験することはできない。それを体験しなければ愛を知らないので、愛を行うことはできない。だから、最重要命令はまず私たちが神にいかに愛されているのかということを体験することから始まる。神の愛で私たちの心を完全に満たしていただこう。そうするためには、キリストの十字架の死による罪からの救いを深く心にきざむことだ。ローマ5:8。イエス様が罪人の私のために死んでくださるほど私を愛しておられる!無条件で愛してくださっておられる!その愛を深く知るには、聖霊様に対して心を開くことだ。神の愛は聖霊様を通して注がれるからだ。ローマ5:5。祈るとき、賛美するとき、御言葉を読むとき、聖霊様に対して心を開き、いかに自分が愛されているかを啓示をしていただこう。
さらには、私たちはほかの人が神の愛を知る手助けをすることができる。ヨハネ13:34-35。神の愛はクリスチャンを通して啓示される。ほかの兄弟姉妹が私を愛するなら、その兄弟姉妹を通して私は神の愛、イエス様の愛を啓示していただくことができる。私がほかの兄弟姉妹を愛するなら、主は私を通してその兄弟姉妹に神の愛を啓示されるのだ。私たちはお互いに神の愛を啓示する上で用いられることができる!しかも、神の愛を啓示する対象はクリスチャンに限らない。皆が知るようになると書いてある。神を知らない人も知るということ。神を知らない人が神の愛を知ったらどうなるか?神を知るようになる!神がおられ、私を愛されるお方だということがわかる。

マタイ22:40には律法全体と預言者はこの2つの掟に基づいていると書いてある。私たちが神に従う、聖書の御言葉を実践する上ですることのすべては、神を愛し、人を愛するということに基づいている。毎週日曜日に礼拝に出席するのはなぜなのか?礼拝に出席しないと牧師がうるさいからか?なんとなく自分で決めた習慣だからか?それだけの理由であれば弱い、足りない。 聖書に「集会を怠るな」と書いてあるからか?御言葉を守るのは良いこと。しかし、それに加えてなお必要なのは、「神を愛して礼拝したいから、教会の兄弟姉妹たちを愛するから!」というのが根底で必要だ。すべての奉仕もそう。集会の準備や片づけ、賛美の奉仕は何のためにするのか?その動機は何か?誰かがしなければならないから?それをするのが好きだからか?奉仕の根底に、神を愛して、兄弟姉妹たちを愛するという愛がなければならない。
最重要命令、これを私たちの一生涯の使命として、取り組んでいこう。神の愛を受けて、神と人とを愛する者となろう。アーメン。

次に、大宣教命令だ。大宣教命令も、愛の実践として取り組んでいくものだ。全世界に蔓延している殺人ウイルスがある。それは、すべての人に感染していて、致死率100%。しかもそのウイルスによる死はただの死ではなく、終わらない苦しみをもたらす死だ。その殺人ウイルスとは罪だ。ローマ6:23。ここには殺人ウイルスと共に、特効薬が書いてある。ちょっと免疫がつくくらいではない。それが与えられれば確実に治る。それがイエス・キリストによる永遠の命だ。福音を伝えるということは、殺人ウイルスに対する特効薬を提供するということ。これ以上に重要性の高い愛の実践はない。それは未信者に対する愛の実践ということだけでなく、神に対する愛の実践でもある。人が一人救われれば、神は喜ぶ。救われた人は神に感謝と賛美をささげるので、神の栄光となる。イエス様が来られた目的も人々の救いのためだ。ルカ19:10。大宣教命令の遂行は具体的な愛の実践の中でも核となるものなのだ。

イエス様は各福音書の最後に、大宣教命令をなさっている。弟子たちに昇天する前に最後に告げたのが大宣教命令だった。弟子たちと次に顔と顔を合わせるのは、再臨のときだ。長い間会うことがない。長期間のお別れの前に最後に大宣教命令をしたということは、それだけ重要な使命だということ、イエス様が再臨されるまで教会が取り組まなければならないことだということ。使徒言行録は教会が大宣教命令を遂行していく経過だ。私たちはこの延長線上にいる。私たちはこの使命を忘れてはならない。

マタイ28:18-20。大宣教命令は、天と地の一切の権能を授かっているイエス様が私たちに命じられた。主が御自分の権威を強調してこれを命じられたということは、私たちは決してこれを拒んではならないということ。主の権威に逆らってはならない。大宣教命令は困難の伴う命令だが、そこにはすばらしい約束が伴うので必ず果たすことができる。それは、世の終わりまでイエス様がいつも私たちと共にいてくださるということだ。主は世の終わりまで、つまり再臨まで、大宣教命令を遂行しようとする私たちと共にいてくださる。天と地の一切の権能を授かっているイエス様が共にいてくださるということは、大宣教命令は必ず成就できるということ。伝道しよう。福音を伝えよう。イエス様が私たちと共に働いてくださる。

しかし、この大宣教命令では、ただイエス様の福音の初歩を伝えるだけでは十分ではない。主は、弟子にしなさいと言われた。このことから、大宣教命令に取り組んでいくためには、地域教会に通うことが必要だということがわかる。イエス様は、弟子たちを御自分のそばにおいて教えた。ただ座学で教えて「さようなら」というだけでなく、弟子たち一緒に食事し、愛の交わりを持ったし、一緒に伝道をして模範を示した。時にはイエス様は弟子たちに愛を持って戒めたり、誤りを正したりした。イエス様は弟子たちが立派なクリスチャンになるように訓練したのだ。イエス様と弟子たちのグループは、教会の原型だ。今は、弟子の育成は教会が担っている。教会で密な交わりをすることを通して、イエス様に似た者を育てるのだ。もし、教会に行かずに自分で独自に聖書の研究をするだけなら、絶対にイエス様の弟子にはなれない。当然イエス様の弟子を立てることはできない。悔い改めるべきことがあってもそのままになる。どうやって伝道をすればいいのかもわからない。私たちは地域教会での密な交わりを通して成熟したキリストの弟子となり、また、弟子を生み出していく者となろう。

また、大宣教命令では、人が水のバプテスマや聖霊のバプテスマを受けるところまで導くだけでなく、「すべて守るように教えなさい」とまで言われている。人それぞれ賜物があり、大宣教命令に関わる方法も違うが、ちゃんと学んだ人は誰でも、教えることができる。チャレンジすればある程度できる。饒舌である必要はない。ひとこと、ふたことだけ語って人にインパクトを与えることができる人もいる。特別頭が良い必要もない。苦労して理解した人ほど上手に教えられるものだ。また頭の理解ではなく、経験したことを通して教えることもできる。教え方、スタイルは違ったとしても、誰しもすばらしい教師となる潜在能力を私は持っていると信じている。私たちはただ教えを自分のためにインプットするだけでなく、アウトプットすることを心がけよう。教会でどんなメッセージを聞いたのか、自分の近しい人に話すのも良いだろう。ディボーションした内容をシェアするのも良いだろう。できればもう一歩進んで、聖書に関心がある人に対して、テキストを使ってイエス様についての基礎を一対一で教えられるようになると良いだろう。マナ教会で使っているテキストがたくさんあるから、それを使えば良い。聖書の書簡をテキストとして扱うというのも教える上で良い。創世記や福音書などを1章ずつ教えていくのだ。教えている相手の目が輝き、人生が変えられていく有様を見れば、これ以上貴い働きは他にないということに気づくことになる。

愛することと福音を伝えて弟子にすること、これがクリスチャンに対して主がお与えになっている使命だ。主にあって不可能はない。主にあってできないことはない。主にあって万事問題ない。信仰とは何か?ヘブライ11:1。信仰者というのは基本的に超ポジティブシンキングだということ。根拠のないポジティブシンキングは迷信であり、実を結ばないし、窮地に陥ったときに弱い。しかし、主への信仰に基づくポジティブシンキングは実を結ぶ。窮地にもゆるぎない。

あなたが今年主に新しいことをしていただきたいことは何か?道を敷いていただきたい、命に満ちあふれたいと思う領域は何か?真理の御言葉に基づく私たちの使命に関してどんな領域で前進したいか?もし100%願いが適うなら主に何をしてほしいか?それこそがあなたが信仰をもって祈るべき内容だ。もし今まであまり祈る習慣がなかったという方は、信じて祈ろう。イエス様はそれを願っておられる。ヨハネ14:12-14。この内容からわかるのは、イエス様の御名に願って適えられる内容、それはイエス様が行った業、そして、イエス様が行った業よりも大きな業だ。イエス様は死人を生き返らせ、病人を癒し、悪霊を追い出し、福音を告げ知らせた。それよりも大きな業を行うなんてできるのか?イエス様はできると言っておられる。それを踏まえると、イエス様の御名で祈って適えられる内容の度合には何の制限もないということがわかる。もしあなたが今まであまり祈ってきていなかったらどうすればいいのか?これから、祈るようにすれば良い。ヨハネ16:24。目標を立てて、祈ろう。主のすばらしい御業を見る1年となるように。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました