何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか

福音&主題メッセージ
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衣食住も、神の国のことを求めていきましょう!

何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか

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【ノート】
何を思い巡らすかによって私たちの人生は作られていく。私たちは自分がよく考えることを求め、よく考えることによって心が支配され、よく考えることにエネルギーを集中させる。だから、もし私たちが無益なことについて考え、心配するなら、無駄に消耗してしまうことになる。イエス様は私たちが何について無駄に考え、心配してしまっていることをご存知だ。マタイ6:25。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、これが私たちの無駄な心配のベスト3だ。この御言葉からは、2つのことがわかる。

まず、私たちはこれらのものについて、こだわり過ぎる必要はない。私たちは、それなりに栄養のあるものを適度に飲み食いすることができ、機能性の十分な衣類があれば、満足するべきだ。もちろん、おいしいもの、美しいものであればそれに越したことはない。しかし、私たちは究極のメニューや至高のメニューを探し求めなくても良いし、高級ブランドで身を飾ってマウントを取ろうとしなくても良い。それは贅沢な思い悩みだ。イエス様は栄華を極めたソロモンの服装よりも、野の花の方が美しいと言われた。人間の目に優れたものというのは、神の目には必ずしもそうではない。

そして、この御言葉のもっと本質的な意味は、これらのものついて、手に入るかどうかということを心配する必要はないということ。「食べていくことができるか?必要なものが手に入るか?」という思い煩いは現代の日本人にもついて回る。明日のことは誰もわからない。事故や病気に遭うかもしれない。どれだけお金をためて、保険に入っても、大きな災害や戦争が起こって全部を失うかもしれない。お金が紙切れになるかもしれない。それで、生きていくのに必要なものが手に入るかという不安がついて回る。イエス様はこの思い悩みに完全な決着をつけることができることを言われた。マタイ6:31-34。神の国と神の義を求めれば、生きていくのに必要なものはみな豊かに与えられる!主が与え、満たしてくださる。このことをしっかりと信じよう。主が毎日与え、満たしてくださる。主が毎日マナをふらせてくださる。このことを文字通りに子供のように素直な心で確信しよう。

私たちは、この世で何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかという無駄な心配によって心を占領させるのはやめて、ただ、神の国のことを求めることに集中しよう。神の国において、何を食べるか、何を飲もうか、何を着ようかと考え、求めよう。それは無益なことではない。クリスチャンは天に召された後、天国で白い衣を着て、イエス様と共に宴会で飲み食いすることはできる。しかし、ここで言いたいのはクリスチャンはすでに、今、神の国に属するものであり、今、神の国の霊的な食べ物、飲み物、着る物にあずかることができる、それを求めるように言われているということだ。霊的な食べ物、飲み物、着る物は、私たちの霊的な命を保つために必要なものだ。私たちがこの世のものの代わりに思い巡らし、求めるべき神の国の食べ物、飲み物、着る物とは何か?

私たちは何を飲み食いしようか?キリストの肉を食べ、キリストの血を飲もう。ヨハネ6:53-57。イエス・キリストは私たちを愛して私たちを罪から救うために十字架で死なれた。私たちはそのイエス・キリストを信じて受け入れるとき、キリストと一体とされる。そのときに、キリストの十字架で裂かれた御体と流された血潮の内にある罪からの救いの力を体験する。キリストの内にある永遠の命を持つようになる。キリストの体である教会に属するようになり、キリストが自分の内に住まわれるようになる。この救いは一度きりで永遠に効力を持つ。しかし、それでいて繰り返しその恵みのすばらしさを体験できる。聖餐のときに、私たちはキリストの御体と血潮にあずかり、この恵みを霊的に繰り返し体験することができる。あなたはキリストの肉を食べ、血を飲んだことがあるか?イエス・キリストを信じて、その肉を食べ、血を飲むものとなろう。聖餐にもあずかるものとなろう。

ほかには、私たちは何を食べようか?聖書の御言葉を食べよう。黙示録10:9-10。巻物には神の御言葉が書いてある。それは、口には甘いが腹には苦い。これはどういう事か。聖書を読み、聖霊様によってその意味を悟ると、私たちの魂に喜びを与える。それは蜜のように甘い。しかし、御言葉を食べるだけでなくちゃんと腹で消化して栄養にすることで成長できる。つまり、黙想や実践を通して完全に自分のものにするには苦労が伴うので、腹には苦い。苦いけども、黙想と実践を経なければ栄養にならない。だから、避けては通れない。あなたは聖書を毎日食べているか?ちゃんと消化しているか?霊的に栄養失調になっていないか?霊的にぐんぐん成長できるように聖書をしっかりと食べるものとなろう。

ほかには、私たちは何を飲もうか?神の国の飲み物である聖霊様を飲もう。ヨハネ7:37-39。イエス様のところに行けば、代価を払うことなく、聖霊様を豊かにいただくことができる。イエス様を信じるものには聖霊様が与えられる。救いの確信と喜びが与えられ、聖なる生き方をする力、伝道をするための力が与えられる。あなたはイエス様のもとに行って命の水なる聖霊様を飲んだか?飲もう!特に、ここで命の水が川となって流れ出て、周囲にまで影響を及ぼすようになる。様々な現象が現れてくることを聖霊のバプテスマという。使徒言行録を読むなら、聖霊のバプテスマは人々が求めるとき、すぐに与えられたことがわかる。父なる神様とイエス様はどちらも、御言葉ではっきりと聖霊様を与えると約束してくださっている。主は嘘をつかない。主が言われることは常に真実であり真剣だ。私たちが求めるなら聖霊様は当然に与えられる。主に求めよう。聖霊様を豊かに飲む者となろう!

私たちは何を着ようか?神の国の服であるキリストの義の衣を着よう。天国はどんな服でも入れるわけではない。天国にはドレスコードがある。ドレスコードというのは、時間帯や場所、場面などにふさわしいとされる服装をしなければならない決まりごとのことだ。たとえば、高級レストランにジャージで入ろうとすると、「お客様・・・」と呼び止められて入店拒否されてしまうかもしれない。私たちは天国にふさわしい服装を常に心がけておくものとなろう。天国のドレスコードについてマタイ22:2,8-14に書いてある。ここでの王とは父なる神様のこと。王子はイエス・キリストのこと。婚宴は世の終わりにある天国でのキリストとキリストの花嫁なる教会の結婚のお祝い。父なる神様は憐れみ深いお方であり、天国にはイエス・キリストにあって善人も悪人も招かれている。どんなに罪深い者であっても、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じる者はみんな天国に行ける。ただし、一つだけ決まりがあった。それがドレスコードだ。婚宴には礼服を着ていないといけないのだ。この礼服とは何か?礼服とはイエス・キリストへの信仰による義の衣のことだ。イエス・キリストを信じる者は、信仰によって義とされる。完全に正しい者とみなされる。その人が過去にどれだけ多くの罪を犯したとしても、その人が義とされているなら、父なる神様がその人をご覧になるとき、何の罪も見出すことがない。イエス・キリストが正しい者であるように正しい者であるようにご覧になる。これがキリストの義の衣だ。私は義とされている!いつもこの衣を着ていよう。そうすれば、私たちは悪魔の告発によって心を弱くしたり、「私は罪人だから罪を犯すのだ」と悪いアイデンティティを持って罪から抜け出せなくなったりしない。神の子としての清い誇りを持って、神の子としてのふさわしい歩みをすることができるようになる。あなたはキリストの義の衣を着ているか?もし義の衣を着ていないなら霊的に裸の状態であり、いつも恥ずかしい思いをすることになる。ちゃんとこの衣を着る者となろう。

ところで、何を食べるか、何を着ようかと、生活の基礎のうち、衣と食については言及されているのに、住についての言及が聖書にはない。この世のことについて、「どこに住もうか」ということは聖書に書いていない。たとえば、使徒パウロはこういうことを言っている。Ⅰテモテ6:8。食べる物と着る物と書いてある。住む家とは書いていない?なぜか?そこにはちゃんと理由がある。

この地上においては、私たちはずっと仮住まいの身だからだ。私たちのこの世での住まいというと聖書では二通りのことが書いてある。一つは私たちが住んでいる家のことであり、もう一つは私たちの体のことだ。どちらも仮住まいであって、永遠の家を持つには、天国に入るまで待たなければならない。家のことについては、ヘブライ11:13-16。アブラハムとサラは、故郷のカルデアのウルを離れて遠いカナンの地に移住して天幕で生活をした。どこかで定住するということがなかったし、故郷に戻ることもなかった。その理由は、天の故郷を熱望していたからだ。「都を準備されていたからです。」と書いてある。この都とは、黙示録に書いてある新しいエルサレムのことだ。都全体が神の栄光によって輝き、城壁は宝石、十二の門は真珠でできていて、道路は純金でできている。父なる神様とイエス様がいつも共におられる都。それが私たちの故郷だ。私たちにはそれぞれ、本籍があり、出生地や成長地、なじみのある土地がある。しかし、私たちもアブラハムと同じ信仰を持とう。天の故郷を熱望しよう。そこに入る希望を持って地上での旅人としての人生を生きていこう。

もう一つの住まいである肉体については、Ⅱコリント5:1-4。地上の幕屋と書いてあるのがこの世での私たちの肉体のこと。罪によって人間の体には苦しみ、病気、死が臨むようになっている。この不完全な体を持って苦しみもだえるのが、この世での人生では通らなければならないところ。しかし、希望がある。4節で天から与えられる住処と書いてある新しい復活の体を得ることだ。新しい復活の体は、朽ちない。色褪せない。衰えない。それは罪を犯す性質のない体だ。神に仕える上で、肉によって悩まされることはもうない。純粋な奉仕を神にささげることができる。この地上での体の限界を様々な点で大きく超えることができる。自然法則にとらわれずに、したいことをあきらめずにすることができる。死も苦しみも涙もない。その体を持って、永遠に生きることができる。
永遠の家に対する希望を持っているか?その希望を持とう。天国に入ることを熱望し、仮住まいの人生を生き生きと歩んでいく者となろう。アーメン。

何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、どこに住もうか、これらの日常の事柄について、神の国のすばらしいものがあることを覚えよう。そういうことについて考えるたびに、世のこと以上に神の国に照準を合わせ、思い巡らす者となろう。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。ハレルヤ!

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