ルツの落ち穂ひろい[ルツ記2章]

ルツ記
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ルツはただ恵みによって糧を得ることを期待することができました。

ルツの落ち穂ひろい[ルツ記2章]

ルツの落ち穂ひろい[ルツ記2章]

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【ノート】
ルツは主と姑に仕えるために、自分の故郷を離れてベツレヘムに移住した。ルツには何のあてもなかったが、主はすでにルツの信仰に報いるべく救いを準備していた。1節。ボアズはキリストの型だ。ボアズというのはすばやさという意味のある名前。主が御自分に立ち帰る者をいかにすばやく救ってくださることを暗示している。主は一日でも早く腰の曲がった女性を癒すために安息日に癒しを行った。主は私たちが悪霊どもから受けている苦しみをすばやく取り去りたいと願っておられる。主はへりくだり信仰をもって主を求める者には即座に救いを宣言された。「あなたの信仰があなたを救った」と。実際、ルツもベツレヘムについてすぐにボアズを通して助けられる。ルツのように全き心で主に立ち帰ろう。主はボアズがルツにしたように、すばやくあなたに救いをもたらされる。

ボアズはエリメレクの有力な親戚だった。有力というのは、お金持ちということも含む。ボアズはベツレヘムの中では地位も富も持っていたのだ。これはイエス・キリストがお持ちの富の豊かさを表している。エフェソ3:8。キリストの富は人間のお金に換算できない。日本円でいくらということができない。魔術師シモンは聖霊様の賜物を金で買おうとして失敗した。この世界全部よりも聖霊様の方が価値があるからだ。キリストは5つのパンと2匹の魚で5000人の群衆を満腹させた。キリストには無限の供給がある。つまり無限の富がある。そして、キリストの御業はすべて書き記そうとするなら、世界もその書かれた書物を収めきれないほどだと書いてある。キリストには無限の豊かさがある。しかし、不信仰の人の目にはそれが見えない!わからない!エリメレクたちが飢饉を避けてモアブの野に逃れたときも、ボアズはベツレヘムにいた。ボアズに頼ることができたのに、堕落して目が見えなくなっていた。私たちはキリストに頼ろう。キリストが共におられるのに、あくせくして、キリストから離れてはならない。キリストが共におられるということはすべてを十分に持っているということ。

2節。ルツは、神の国につくやいなや、一休みする間も持たず、すぐに自分と姑を養うために畑に出る。ナオミに言われたのではない。自らの意思で動き出した。義理の母親なのに、すばらしい親孝行だ。親に仕えることは主に仕えることに通じる。親というのは神と同じように自分より上の存在だ。十戒では1-4番目の戒めが神を愛することに関して、5-10番目の戒めが隣人を愛することに関して。父母を敬えという戒めはちょうど神を愛することと隣人を愛することの境目の5番目にあり、両者の橋渡しのようになっている。
ルツは「厚意を示してくださる方の後ろで落ち穂を拾わせてもらいます」と言っている。落ち穂拾いは主が貧しい者の救済策としてイスラエルに与えた福祉規定だった。主は貧しい者を助けることに関心がある。レビ23:22。あえて、収穫し尽くさずに穂を畑に残しておいて、貧しい人々に拾わせるのだ。ただ、人間は貪欲なもので、こういう規定があっても収穫を刈り尽くしてしまう不届き者はたくさんいた。なので、畑の所有者が厚意を示してくださる方でなければならない。この厚意とは、恵みと訳すことができる言葉だ。ルツはただ恵みによって糧を得ることを期待できた。これはクリスチャンに必要な霊的な糧にも完全にあてはまる。私たちを霊的に養い、健康的にするものはただ主イエス・キリストによる恵みなのだ。

3節。たまたまと書いてある。ルツが不慣れな土地で右も左もわからず、足を動かした先がたまたまボアズの畑だった。ルツの観点から見れば完全にたまたまだ。この言葉はコヘレトの言葉で7回使われているが、すべてのことは神の御手の中にあるということと関連がある。人間の目にはたまたまに見えるが、その背後には神の計画がある。神がすべてを導いておられるので、神の視点から見れば偶然のことは何一つない。特に、その人を救い主のもとに導くということについて、神は偶然のように思える事柄の内に働かれる。ルツの心と足を動かして救い主の方に導く。
すべての人はそのようにして救い主イエス・キリストと出会う。そのときは、わからなくても、後になって「あのときの出来事は主のご計画で起きたのだ」と気づくことになるのだ。

4節。ボアズと農夫たちが非常に良好な関係であるということがわかる。ボアズは農夫たちの前に現れて、開口一番で恵みの言葉を語った。イエス・キリストは収穫の働き人を愛して、御自身をその人々に現して、恵みの御言葉を与えてくださる。その収穫の働き人が失われた魂の救いのために心を砕いているのなら、必ず主イエス・キリストは御自身を表して、恵みを与えてくださる。それが立派な教会堂でなくても、防音室や飲食店を借りた集会場でも、主は御自身を表して恵みの御言葉を語ってくださるのだ。ハレルヤ!

5-7節。ボアズは収穫の様子を見に来たが、穂の善し悪しや収穫量よりももっとルツに関心を持ち、ルツの情報を求めた。物よりも常に人の方が価値がある! ボアズはルツの出身、ナオミに仕えたこと、ずっと熱心に恵みを求めて落ち穂を拾っていることなどの情報を全部知ることができた。ルツ本人がそういう美徳があるということを宣伝していたわけではない。ファリサイ派の人々にはいやらしい意図であえて見せびらかすように善いことをしていたが、そんなことをしなくても、主が見ておられる。主が必要に応じて人々にも知らせてくださる。主の御目に、収穫とは大麦のことではなく、主を求める人々のことだ。主は収穫の様子、つまり主を求める人々の様子を気遣い、御目をとめていてくださる。

8-13節が最初の交わり。8節。ボアズは「よそに行くな。ここから離れるな」という。これは、ルツの行動を制限したいがためではない。他の何よりも、自分こそがルツを豊かに養うことができるという事実に基づいている。私たちの救い主はそういわれる。ヨハネ15章の「私につながっていなさい」と同じ。「私こそがあなたを満たすことができる。ほかの神々や世のものではなく、私があなたを救い、養い、満たす。私のもとにとどまるなら安全で、幸せになる。だから、よそに行かず、私のもとにとどまりなさい。」私たちはこの勧めを聞き入れて、主のみもとにいつまでもとどまろう。

9節。ルツはそれまで落ち穂を拾いつつも、自分はただでさえイスラエルでは嫌われている異邦人であり、落ち穂を拾い過ぎたら悪く思われないかという遠慮や恐れがあった。それが、当の畑の主人の恵みの言葉によって公認されたのだ。これで遠慮なく落ち穂拾いができる。主は私たちに聖書で数々の約束を与えてくださっている。数え方による。7000という人もいれば8810という人もいる。すべてのものの主人である主は良いものを惜しみなく私たちに与えることを良しとされている。だから、私たちは遠慮なく、主からの良いものを享受すればよい。
さらにボアズは、喉が渇いたら水を飲みなさいとルツに言う。もちろん値なしでだ。同じように主は渇く者に命の水を与えてくださる。ヨハネ7:37-39。主は聖霊様で満たしてくださるのだ。ボアズを通しての厚意、つまり恵みはこのように豊かだ。主イエス・キリストは糧を求める者にこのように気前よく与えてくださる。

10節。ルツは異邦人。とうてい厚意を期待できない身分。しかし、ボアズの厚意は驚くばかりの恵み、アメージンググレースだった!主の恵みは大きすぎて、不思議で、どうしてそんなものをいただけるのか疑問に思う。呪われた罪人の私のために御子イエス・キリストを与えてくださる神様の恵みは、不思議で、理由がわからない!

11-12節は恵みの理由。ボアズが知ったルツの信仰的な行動ゆえに恵みを与えたいのだという。恵みに理由があるとすれば、それは信仰だ。
ルツにとって、ボアズは初対面の人でどういう人か知らなかった。しかし、ボアズの方はルツのことを良く知っていた。主は私たちがまだ主をよく知らず、初めて祈り、初めて礼拝をささげるときにも、すでに私たちのことを何もかもご存知で、私たちを守り、すべての信仰的な行動に報いてくださる。

13節はルツの感謝。ルツは心からの感謝を持って恵みを受け取っている。主が遠慮なく受け取るように言われるときは遠慮なく受け取ろう。恵みを拒むのは、主のご厚意を無駄にすることであり、逆に罪深いことだ。ルツは自分がボアズのはしための一人にも及ばないと言っている。バプテスマのヨハネの「その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのに似ている。神の祝福は水が流れるように上から下に注がれる。だから、最もへりくだった者が最も祝福される。

14節が二度目の交わり。14節。二度目のボアズとルツの交わりは、より親しいものとなっている。つまり、食事だ。ボアズは手ずから、ルツに食べさせている。しかも有り余るほど!このように私たちの主との交わりはどんどん親密なものとなり、距離は近くなり、私たちはこの交わりの中で霊的に満たされ、満ちあふれるようになる。

15-16節は二度目の交わりの後。ボアズは最初のときよりももっと恵み深くなっている。ただ落ち穂拾いを許可するだけでなく、麦束の間の穂まで拾うことを良しとし、ひそかに余分に穂を落としておくようにした。主との交わりは深まれば深まるほど、主の私たちに対する取り扱いはますます恵み深いものになっていく。この命令はボアズからひそかに出されたので、ルツは知らなかった。ルツはもしかしたら、自分が一生懸命がんばったからたくさん拾えたのだと思ったかもしれない。しかし、実は豊かな恵みのお陰だった。使徒パウロの告白にはこのように主の恵みの働きが書いてある。Ⅰコリント15:10。主が恵みによって、私たちが収穫しやすいようにひそかにアシストしてくださるのだ。ハレルヤ!

17節。ルツは恵みをいただいても仕事を早めに切り上げるということはしなかった。恵みをいただくと小さな労力で大きな成果が得られるが、恵みはそれだけでなく勤勉に働く意欲まで与えるもの。1エファというのは約23リットル。
18-19節。ルツは残した食べ物を差し出した。ルツはボアズから恵みを受けたので、それをナオミに分けることができた。私たちが主から恵みを受けて霊的に満たされると、それをほかの兄弟姉妹にも分かち合い、満たすことができる。

ナオミはルツの持ってきたものを見て驚き、「どこで働いてきたのか。どこでそんなすばらしい恵みを受けてきたのか」と尋ねた。もし私たちがどこかの聖会に参加したり、祈りに献身したりして大きな恵みを受けると、他の人々もその変わりよう、恵まれように気づき、「どこでそれを得たのか」と尋ねるだろう。
ルツはボアズの名前を知っていた。ボアズの富を知り、ボアズの恵みを知っていた。しかし、この時点ではボアズが自分たちを贖い主であるということを知らなかった。

20節。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」とある。ナオミは主のことを「ひどい苦しみを与える全能者」と告白していたが、ルツを通してそれまで不信仰によって見えなくなっていた贖い主を啓示していただき、主を慈しみ深い方と告白するように変わった!救い主イエス・キリストを見れば、心が変えられ、主に対する感謝と賛美が出てくるようになるのだ。そして、贖い主は死んだ人にも慈しみを与える。贖い主を知る人は死を恐れなくて良いのだ。「家を絶やさないようにする責任のある人」というのが、贖い主と訳すことができる言葉。

当時、貧しくて嗣業の土地を手放した人がいる場合、その親戚の人が代わりに買い戻さなければならない。ただし、実際にそういうことが行われたケースは非常に稀だった。なぜなら、誰も自分の財産を犠牲にしてまで親戚を助けようとするほどの富と恵みのある人がいないからだ。ボアズにはそれがあった。ルツもこのナオミの言葉を聞いて希望を持ったに違いない。ボアズが畑を取り戻してくれる。私たちはイエス・キリストにあってその希望を持つのだ。主はアダムが罪を犯して失ったすべての霊的な祝福を贖ってくださる。神の子として身分。内なる神の似姿。神との麗しい交わりにある喜びと平和。完全な清さ。朽ちない体。主は贖ってくださる。この希望を抱いて歩んでいこう。

21節。ルツはボアズの約束の言葉を覚えていた。その内容は離れるなというもの。主の御言葉を覚えることで私たちの信仰は成長し、何かの試練があったとしても、主から離れず、主に頼ることができるようになる。

22-23節。ルツは最初に訪れた畑がボアズの畑だった。しかし、イスラエルのどの畑でも同じというのではなく、ボアズの畑での恵みは特別なことであり、すばらしいことだった。もしほかの畑だったら、ひどい目にあったかもしれない。もし主イエス・キリスト以外のところに行っていたら、ひどい目にあったかもしれない。少なくともそこには恵みも救いも罪の赦しもない。そのことを認識しよう。ルツは大麦と小麦の収穫が終わるまで、つまりペンテコステの時期まで、何の妨げもなく落ち穂を拾う恵みにあずかることができた。最終的にボアズとルツの間で愛の実が結ばれるようになる。私たちも、主イエス・キリストのもとにとどまり、恵みにあずかり続け、主への愛の実を豊かに結ぶ者となっていこう。

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