贖い主は一人しかいません。
贖い主の裁判[ルツ記4章]
【ノート】
ルツはボアズと婚約した。後はボアズが動くのを信頼して待つだけ。ボアズを急かしたり、ボアズに言われてもいないのに自分でも動いてみたりしたら、信頼していないことになる。確かな約束を主からいただいたら、信頼して祈りつつ待つことにこそ信仰。主がそう言っておられるのを聞こう。イザヤ30:15-17。こんなふうに主の御言葉に背いてじたばたして、悪い結果を招いてはならない。「待て」という主の命令があるのに、背く人々は不信仰に陥って悪い思いを抱き、悪い言葉、悪い結果を招いている。私たちはむしろ、主イエス・キリストが聖霊の力を受けるまでエルサレムにとどまっていなさいという御言葉に従順して、天に上られた後に十日間祈って待ち続けた弟子たちのようになろう。
ボアズの動きを見てみよう。1-2節。ボアズも、落ち着いて町の門の前に座っていた。あえてあちこちに行って人々を探し回って集めるということをしていない。にもかかわらず、決着をつける場が整えられる上で、すべてが折良く進んだのを見ることができる。これも神の働きだ。御心に適うことをするとき、苦労しそうに思えることでも、神はすべての状況を支配して絶好のタイミングを与えてくださる。私たちはそれを信頼しよう。大事なことを進めるときは、どっかりと腰を据えて落ち着いて取り組むのが良い。
町の門の前というのは、その町での重要なことを決めるための中央機関。あるときには裁判所になる。ボアズはそこで親戚の人との間裁判を開いて、神の国の法律である律法に基づいて贖いをしようとしたのだ。ボアズにはルツに対する恵みがあり、約束があったが、最後は法律によって贖いを確実なものにする。そうすれば、その贖い、その救いはゆるぎないものであり、ルツもナオミも安心できる。主イエス・キリストも、私たちを救うにあたって、律法を無視したのではなく、律法を重んじた。律法の一点一画も変わることはないと言われた。そして、律法の完成として、贖いを成し遂げられた。キリストの十字架による贖いは、律法に書いてある通り、血によるものだ。律法に書いてある通り、命の代価として命を支払うものだ。律法に書いてある通り、傷のない神の小羊をささげるものだ。律法に書いてある通り、木にかけられて罪の呪いを一身に受けるものだ。律法に書いてある通り、大祭司が天の至聖所に入るものだ。律法に書いてある通り、罪の負債によって人間が失った神からの良いものを、全部買い戻してくださるものだ。だから、私たちはその贖い、その救いがゆるぎないものだと安心できる。律法によって、すべてはもう確定事項となっている!アダムが失った神の栄光の輝きを全部回復できる!失ってしまった麗しい神の似姿を完全に取り戻すことができる!荒れ果ててしまった私たちの心にエデンの園の豊かさを取り戻すことができる!神の愛で満たされて、神との間に何の隔たりもない親密な交わりを回復できる!
3-4節。日本語の訳だと良くわからないが、飢饉のときにモアブに行く前に土地を売ったナオミのために土地を買い戻す責任を果たすかどうか聞いている。イスラエルの土地は約束の地であり、主がイスラエルに与えたものだ。しかし、土地というのは、究極的には神のものだ。レビ25:23。土地は神からの良い賜物として預かっている。そういう意味で、土地のことを嗣業の土地と書いてある。人間が勝手に嗣業に対して変更を加えることはゆるされない。だから、貧しくなって売ることがあったとしても、神からの神聖な嗣業なのだから、いつまでも買い戻す権利が続く。新しい契約に生きる私たちの嗣業は神の国だ。神の国に対する私たちの権利は永遠に続くのだ。私たちは私たちの嗣業、神の国を大事にしなければならない。親戚の人は、ナオミのために土地を買い戻す責任を果たすことに同意した。この決断もすばらしいことだ。ナオミのために畑地を買い戻してあげても、それはナオミのものであり、畑から得られる作物も全部ナオミのものだ。何の得にもならない。ここまでは、親戚の人が責任を果たすことになるかに思われた。しかし、これだけでは贖い主の条件は満たされない。5節。土地だけでなく、亡きルツの夫のための贖いをも成し遂げないければならない。贖い主は全部の責任を果たし、全部を贖わなければならない。
6-8節。責任の譲渡にあたって、手続きの認証のために履き物を脱いで渡したと書いてある。これと似たことが律法にも書いてある。申命記25:7-10。神がこのような律法を定められたのは、責任を果たそうとしないことは恥であるということを御自分の民に教えるためだ。しかし、あまりにも多くの人が責任を果たそうとしなかった。それでいつしか唾をかけるという屈辱を与えることはなくなり、靴を脱ぐということだけが残った。親戚の人は故人の名前を残す責任についてまで問われて、すっかりうろたえてしまった。そこまでの責任は負えない!ここまでは贖い主は何人もいるかと思われた。しかし、よくよく吟味してみれば、すべての責任を果たす贖い主はたった一人しかいないのだ。多くの人が深く吟味しないので、贖い主はたくさんいると勘違いしている。あの神を信じてもこの神を信じても救われると思い込んでいる。しかし、その神には決してすべての責任を果たすことはできない。そんなことを求めたらその神はうろたえてしまう。どれだけ多くの宗教があり、神々と呼ばれるものがあったとしても、罪なき完全な人生を送って、あなたの罪の責任をすべて負って十字架で死なれた方はイエス・キリストの他にはいない。だから使徒4:13にはこう書いてある。「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」アーメン。ただイエス・キリストだけ。ただただイエス・キリストだけ。
9-10節。贖いによる救いの御業が成し遂げられたということが大声で宣言している。親戚の人はうろたえて、そこまで責任は負えないと言ったが、ボアズは「そら来た!」とばかりに喜んで宣言している。ボアズは土地の買い戻しとルツとの結婚の二つの責任を果たした。どちらを喜んだのか?どちらが目当てだったのか?もちろんルツとの結婚だ。ボアズはルツを愛していたので、大きな犠牲を払う責任であっても喜んで引き受けた。主は神の国のたとえ話の中でこれと似たことをあげた。マタイ13:44。宝を見つけた人はその宝を目当てに、全財産をはたいて畑ごと買い取って、中にある宝を手に入れるのだ。目当ては宝だ。これはどういう意味なのか。天の国が宝物のように貴いのだということも言える。しかし、もう一つの視点で見ることもできる。宝を見つけた人はイエス・キリストだ。畑は全世界だ。そして、キリストの目に貴く映る宝は私であり、あなただ。私が宝!?本当に!?そう思う人もいるかもしれない。本当にそうだ。主の目にあなたは宝物だ!確かに、あなたも私もキリストによって贖われるまでは、失われた人だった。しかし、イエス・キリストは失われた者を探して救うために来られたお方だ。イエス・キリストは失われた者に宝のように価値を置き、愛する。キリストはあなたを愛して、あなたのためにすべてのものを犠牲にして全世界を贖い、その中にいるあなたを贖った。ローマの信徒への手紙8章では人間以外の被造物全体の贖いということが書いてある。そして、黙示録には麗しさをすべて回復した新しい世界、新天新地と新しいエルサレムが書いてある。主はすべてのものを贖う。しかし、その目当てはあくまでも宝のように貴いあなたなのだ。あなたは贖われた。コロサイ1:14。罪の負債は全部キリストが肩代わりしてくださいました。あなたは代価を払って買い取られた。Ⅰコリント6:20。あなたはもうキリストに結ばれ、キリストのもの。キリストはやがて、しみもしわもその類のものが何一つない栄光の教会を花嫁としてお迎えになる。
11-12節。町の主だった人々がみんなボアズとルツの結婚を祝福した。それは贖いが多くの証人たちの見ている前で行われたからだ。キリストの十字架の死と復活も大勢の証人の面前で行われ、天の万軍が注目している中で行われた。だから、私たちがキリストに結ばれて救われることも、天使たちと雲のように私たちを取り巻く証人たちの祝福を受ける。誰もいない場所でひそかに一人で受け入れる祈りをして救われる人もいるし、大きな変化を感じない人もいる。しかし、天ではあらゆる楽器を使って盛大なお祝いがされている。天国に入るときにそのことに気づくことになる。
人々はルツを二種類の女性に照らして祝福している。まずはラケルとレア。ヤコブと結婚して十二部族のルーツになった姉妹だ。そのように、人々のルーツになるようにという祝福だ。
自分を通して、霊的に養い育てた霊の子供が与えられ、影響が後世まで続いていき、偉大に用いられる信仰者を輩出していくというのは大きな祝福だ。私もあなたを祝福する。あなたが人々の霊的なルーツの一人となるように!
もう一方はタマルだ。タマルはルツと似た形で用いられた。タマルはユダの息子のエルと結婚したが、エルは子供を残さずに死んでしまった。次にユダはタマルとエルの弟のオナンと結婚させて、エルのために跡継ぎの子供を残そうとしたが、オナンが生まれてくる子供は兄のものになってしまうと思い、あえてタマルを妊娠させまいとしたのでオナンは神に打たれて死んだ。ユダにはもう一人、シェラという子供がいたが、ユダはシェラまで死んでしまうのではないかと恐れてシェラが成人してもタマルと結婚させなかった。つまり、ユダもユダの子供たちも神が律法で命じておられた責任を果たそうとしなかったことで、家が絶たれそうになっていたのだ。
そこで、タマルは一芝居をし、娼婦を装ってユダと関係を持って身ごもった。その方法は悪かったが、タマルだけが神の律法を行おうとした。だから、この祝福はルツも家が絶たれる危機を救う上で用いられるようにというもの。私もあなたを祝福する。あなたが信仰継承が絶える危機を救う上で用いられるように!
ボアズとルツは結婚した。しかし、まだ贖いは実現していない。子供が生まれないと、家を再興するということができないからだ。一人の人間が生まれるというのは、完全に主の領分だ。私たちが御心に従って祝福を求めるなら、主は確実に御自分のところを行ってくださる。13-17節。オベドの出生については、はっきりと「主が身ごもらせた」と書いてある。贖いの実現は全面的に主による。一人の人間が新しく生まれることについても、多くの人の祈りと伝道があれど、やはり主の御業が中心になる。一人の人が生まれてきたことで、ベツレヘムの女性たちは主を賛美し、ナオミに対してその子がナオミを元気づけ、支えると預言した。そして、女性たちが子供に名前をつけた。オベドとは、仕える者という意味。オベドは年老いたナオミを仕え続けただろう。それは、主は最後まで御自分の民を見捨てないというしるしだ。ベツレヘムに帰ったとき、ナオミは全能者にひどい目にあわされたと告白した。そういうところを通ることもある。しかし、それでも、主は最後まで私たちを見捨てることはない。主は回復を与えてくださる。オベドを与えてくださる。そのことを信じよう。オベドはダビデの祖父だ。
18-22節。ペレツからダビデまで十人の名前がある。ルツはモアブ人。モアブ人は呪われた民族で、十代たっても主の民に加わることはできないと書いてある。ところがルツはイスラエルの民の中に加わり、しかも十代ダビデに至るまでの十代の系図が続いていく上で用いられた。そして、これは結局のところダビデの系図にとどまることなく、イエス・キリストに続いていく。ルツはイエス・キリストの系図に入った。マタイ1章のイエス・キリストの系図でははっきりとルツの名前が書いてある。もともと呪われた身分だったにもかかわらず、イエス・キリストにある者とされた。それは誰であっても、イエス・キリストを信じて贖われた者は、もともとどんなひどい罪人であったとしても、イエス・キリストにある者、イエス・キリストにアイデンティティを置く者となることができるということ。過去のあなたがどんなに呪われた者だったとしても、イエス・キリストを信じた瞬間からあなたはキリストにある者、クリスチャンだ。
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