神の武具を身に着けなさい

福音&主題メッセージ
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神の武具で悪魔の策略に対抗しましょう!

神の武具を身に着けなさい

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【ノート】
続けて霊的戦いについて語るように主に示されている。エフェソの信徒への手紙は使徒パウロが獄中で書いた書簡。パウロが主から示された数々の啓示や教えの頂点をここに見ることができる。そのしめくくりが武器庫と呼ばれる箇所。

エフェソ6:10-13。霊的戦いは悪魔の策略に対抗する戦いだ。クリスチャンは神に従っている限り、神に守られている。だから、悪魔は神に従うクリスチャンを直接攻撃することはできない。そこで、悪魔はずる賢くあの手この手を使って攻撃してくる。この策略にあたる言葉は言語のギリシャ語では、「待ち伏せる」という意味のある言葉だ。隠れて待ち伏せていて、思いがけないときに攻撃してくるのだ。もし悪魔がいつもあからさまに攻撃をしかけてきたら、わかりやすい。武士の戦いのように大声で「私は悪魔だ!」と名乗りをあげて攻撃してくるなら、クリスチャンも警戒して、武装することができる。しかし、一見すれば何の攻撃もないかのようにみえる。戦いがあるというけども、いったいどこで戦いがあるのか?油断して無防備なときにやられてしまうクリスチャンがいる。霊的戦いは霊的だから、見えないところで、私たちの霊と心、感情と思考という領域で展開していく。私たちは見えない敵が待ち伏せていることを認識しなければならない。

この悪魔の策略に対抗するにあたっては、常に武装していることが必要だ。戦場に手ぶらで、私服で行く人はいない。戦いがあるということがわかっていたら装備を用意することが必要だ。今はすべてが順風満帆に思えるかもしれない。しかし、人生は平たんではない。邪悪な日は誰にもやってくる。邪悪な日というのは困難な時、苦難の時とも訳せる言葉。毎日が戦いだが、特に困難な時、苦難の時に備えていなければならない。

どんな武具を身に着けるのか?人間を攻撃するための武具ではない。銃火器や防弾チョッキを身に着けなくていい。私たちの戦いの相手は血肉を相手にするものではなく、悪霊どもを相手にするものだからだ。悪魔は私たちの戦いの相手が血肉の相手だと思わせようとする。人間同士で滅ぼし合わせようとする。それで、戦いの相手を間違えてしまう人が多い。本来は愛すべき、家族、教会、友人知人、職場の人と激しく敵対してしまい、憎しみを抱いてしまうことがある。銃火器でなくても言葉の暴力で攻撃してしまうことがある。それはもう悪魔の策略に陥ってしまっている。悪魔に隙を与えることになる。確かに私たちに直接嫌なことをしてくるのはその人かもしれない。しかし、人間は誰であっても愛の対象だ。その人が無神論者やオカルトや異端であっても愛の対象だ。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るように命じられている。その人ではなく、背後に働く悪魔の存在と敵対しなければならない。血肉を相手にする言葉を捨て去ろう。

私たちが身につける武具は神の武具だ。11節と13節の2回、神の武具を身につけなさいと書いてある。原語のギリシャ語を見ると、すべての神の武具を身につけなさい、完全武装しなさいという意味が込められている。重装歩兵。古代ローマの兵士は武装の度合いによって軽装歩兵と重装歩兵に区別された。完全武装した重装歩兵が主戦力だった。教会も、神の武具で完全武装したクリスチャンが主戦力。そして、すべてのクリスチャンが完全武装するように命じられている。私たちはみんな霊的な戦いの主戦力として戦うように召されている。
神の武具は頭から足まで全身をカバーするもので、全部を身に着けることで悪魔に一切の隙を与えないようにするのだ。偉大な神の力を帯びた神の武具さえ全部身につけていれば、悪魔がどんな策略を使ってこようと関係ない。必ず勝つことができる。

また、これは霊的な武具なので、持ち運びに困ることがない。銃火器を身に着けていたら銃刀法違反で逮捕されるし、寝るときまで全部身に着けているわけにはいかない。神の武具であれば、いつでも身につけていられる。寝ても覚めても身につけていられるから便利だ。いつも身に着けていれば悪魔の待ち伏せにあっても問題ない。

神の武具のリストは14-18節に出てくる。それらはローマ軍の装備にたとえている。ローマ軍は、当時最強の軍事力をもって地中海世界を支配していた無敵の軍団だ。カルタゴもギリシャもエジプトもローマは倒した。そのローマ軍にたとえて神の武具の説明をしている。ということは、教会は霊的な戦いにおいて、どんな悪霊の軍団をも倒す、世界最強の無敵の軍団になるべく召されているということだ。一つ一つの武具を見ていこう。これらの武具をいつも身に着けよう。もし何か身に着けるのを忘れてしまっていた武具やさびたり不具合があったりする武具があればこの時間確認して、修理して磨き上げて、身に着けるようにしよう。

第一に、真理の帯だ。14節前半。神の武具は頭の兜や足にはく靴ではなく、腰の帯から始まっている。軍用の腰帯は、強固なベルトで体を下から支えるよう考案されている。そのほかに小さな武具を指したり、兵士たちが動きやすいにようにはいていたズボンを腰に結んだりする用途があった。さらに帯は「戦いに備えて気を引き締める」ものでもあった。帯がないということはたるんでしまい恥ずかしい、軟弱、怠け者ということを意味していた。帯は体を支え、すべての武具を支える基盤なのだ。
私たちは軟弱だったり、怠け者だったりすることなく、すべての神の武具を支える真理の帯をしっかりと締め、心を引き締めなければならない。Ⅰペトロ1:13。敵は偽りの父であり、嘘ばかりつくから、それに勝利するには御言葉で示されている救いの真理をしっかりと身に着けることだ。真理はヘブライ語ではエメトという言葉にあたる。そこには「堅固」「不変性」「持続」という意味がある。真理は永遠に変わらず、ゆるぎない。悪魔の嘘、風のように変わりやすい教え、世の中の価値観とは全然違う。真理を身に着ければそういうものに惑わされない。真理をしっかりと身に着けよう。イエス・キリストはどのようなお方か?罪とは何か?義とは何か?裁きとは何か?救いとは何か?わかるようになり、それらが頭にあるのではなく、腰に身に着ける。真理の御言葉が自分の人格、品性を形作るものになるようにする。

第二に、正義の胸当てだ。14節後半。胸当ては兵士の急所、特に心臓部を敵の攻撃から守るものだ。槍などが貫通しないように金属を重ねて造られていた。非常に頑丈だった。
ここでいう正義は私たちの善行による正義ではない。もしそうだったら敵の攻撃にあえば簡単に破壊されてしまうだろう。これはキリストの義のことだ。キリストは罪のない完全な人生を送られた。その義を身に着ける。ローマ3:28。キリストの義は、信仰によって神が私たちに着せてくださる。サタンは私たちを告発し、責めて、私たちの心を病気にして弱らせ、最終的には神から離れさせようとする。キリストの義はサタンの告発や責めから私たちの心を守る。心を守ることが大切だ。心は命だからだ。箴言4:23。キリストの義が私たちの心を守り、キリストによって与えられた新しい命を守るのだ。サタンがいくら告発してきても、私たちはイエス・キリストにあって決して罪に定められることはない。

第三に、平和の福音を告げる準備の履物だ。15節。履物は私たちが動くのを容易にする。ローマ兵の靴はカリガと呼ばれ、多くの金属部品や靴底に埋め込まれた鋲で作られていたので丈夫で非常に長持ちだった。それらは兵士たちが滑りやすい岩山を登ったり、砂地を走ったりするときに強力な滑り止めとなった。さらに倒れた敵を踏み潰す武器にもなった。敵が倒れて死んでいないときはカリガで踏めばとどめをさすことができた。
私たちは平和の福音をいつでも証しできるよう準備をしなければならない。Ⅰペトロ3:15。イエス・キリストの福音と神が自分の人生に何をしてくださったかを証しする準備する。そういう準備ができている人に対しては何もその前進を阻むことはできない。福音を携えて前進し続けることができる。伝道者の歩みは、道の状態にかかわらず、滑ったり落ちたりすることなく、敵の策略を福音の靴で踏み付けることができる。多くのクリスチャンたちが福音伝道のために命を落とした。死に至るまで、彼らの前進をとめることができなかった。そして、その殉教の死によっても、福音を広めることになった。死を恐れないで福音を伝えたその姿に人々が平和の福音を見出したからだ。福音による平和は本物だ!平和の福音を告げる履物を履いて前進を続けよう。

第四に、信仰の大盾だ。16節。ローマ軍の盾は盾130cm、横70cmほど。カーブが付いていた。敵の打撃、矢、投げ矢をそらすためだ。木材が数層に重ねられ、塗料が塗られたキャンバス生地と子牛の皮で覆われていた。手の幅ほどの厚さに重ねられていて、鉄の縁取りによって補強されていた。その当時、その盾を貫通することのできる武器はほとんどなかったほどだ。
ここでの信仰は神と神の御言葉である聖書全体を信頼すること。それが大きな盾となる。すべてを信じる信仰によって、主がすべての敵の攻撃からその人を守る。

第五に、救いの兜だ。17節前半。兜は頭を守るもの。1世紀のローマの兜は首と耳を防御するようなっていた。ファルクスという武器から兵士を守るために、内側は数本の金属棒で補強されていました。ファルクスは木の柄に取り付けられた湾曲した刃を持つ武器、一撃で相手を切断する武器だ。湾曲した刃で一度切り付ければ首が切り落とされてしまう。かぶとに装着した金属棒は、それを防ぐためのものだ。
救いの兜をかぶらなければならないというのは、頭が敵の攻撃目標になることを警告している。頭は思考をつかさどるところだ。敵は私たちの思考が新たにされないように躍起になっている。私たちはどのような思考をするのか?思考についていろいろなことが命じられている。Ⅰヨハネ3:1。ヘブライ3:1。ローマ6:11。フィリピ4:8。神の愛のすばらしさ!イエス・キリストのすばらしさ!そのイエス・キリストに結ばれて生きていると考える。中心は常に私ではなく神であり、キリストであり、神がよしとされるあらゆる優れたことだ。

第六に、御言葉の剣だ。17節後半。ローマの兵士は様々な攻撃用の武器を持っていた。遠距離用の長い槍と近距離攻撃用の短い槍、大型と小型の剣、ベルトには短剣をさし、盾の内側には投げ矢が数本あった。ローマの兵士は歩く武器庫だったのだ。兵士は自分の持っている武器を熟知し、どれを使用したらよいか瞬時に判断し、次々と武器を繰り出す能力が必須だった。
神の武具で取り上げられている攻撃用の武器は、この御霊の剣である御言葉だけだ。これは長さ50cmくらいの短剣で攻撃にも防御にも使用できた。私たちは神の御言葉によって誘惑を退けるという防御ができる。それと同時に御言葉を用いて悪霊を叱責し、追い出すという攻撃ができる。そして、短剣は数多くある攻撃用の武器全体を代表して書いてあると言える。御言葉はたくさんある。私たちは御言葉を効果的な武器として用いようとするなら、御言葉について熟知していなければならない。御言葉をたくさん使って、慣れなければならない。イエス様は荒野でサタンの誘惑を受けられたとき、ふさわしいみことばを用いて迎え撃った。私たちにはすぐに使用できる御言葉、いつも使っている御言葉はいくつあるか?それらのレパートリーを増やしていこう。また、一つ一つの御言葉を状況に応じて適用し、宣言し、御言葉の武器に熟練していこう。

第七に、御霊による祈りだ。18節。神の武具について多くの解説を確認したが、この御霊による祈りを神の武具に含めていない人もいれば含めている人もいる。含めていない人は、祈りだけ、ローマの兵士の武具にたとえておらず、そのまま祈りと書いてあるからだろう。しかし、実際には祈りは確かに神の武具だ。祈りをローマの兵士の武具にたとえられなかったのは、祈りが純粋に霊的なものなので、どんな血肉の戦いの武器に置き換えることもできなかったからだ。祈りを除けば神の武具は6つ。祈りを含めれば神の武具は7つ。7は完全数だ。つまり、祈りがなければ、神の武具は不完全であり、祈りによってこそ、神の武具は完成して、装着できる。神の武具を万全なもののにするのも、神の武具を用いるのも祈りによるものだ。祈りによって、真理の帯はしっかりと結ばれ、正義の胸当ては強固なものとなり、福音を告げる準備の履物を履いた足は軽快なものとなり、信仰の大盾と救いの兜は頑丈になり、御言葉の剣は切れ味を増す。

ここでの祈りは御霊に助けられての祈りだ。異言での祈り、聖霊様で満たされてする祈りだ。私たちは自分の力では祈ることができない。何を祈ればよいかもわからない。聖霊様の油注ぎが祈りを燃え上がられて、熱心なものにする。聖霊様の導きが祈りを御心にかなったものにする。そして、祈る対象はすべての聖なる者たちだ。あらゆるクリスチャンだ。私たちは霊的な戦いを一緒に戦っているほかの兵士たちのことを気にしなければならない。ほかの人々が守られ、勝利できることを願わなければならない。戦いは教会として、多くのクリスチャンたちと共にするものだからだ。ほかのクリスチャンたちも完全武装して戦いに勝利できるように祈り求めていこう。絶えず、目を覚まして、根気強くと書いてある。その祈りは私たちがこの世での信仰の歩みを続ける限り、ずっと続いていくものなのだ。すぐに効果がでないように見えても続いていくものなのだ。ここで命じられている通りに私たちが祈るなら、教会全体が完全武装した不屈の軍団となり、大勝利を遂げることができる。大リバイバルを見ることができる。エフェソが小アジア全体に福音を伝える宣教基地として用いられ、病人が癒され、魔術師が悔い改めたことが私たちの間でも見ることができる。神の武具を身に着けてそのような勝利を得ていくように、前進を続ける私たちになろう。アーメン。

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