主に用いられるクリスチャンは預言者と同じように扱われます。
あなたは預言者です!
【ノート】
預言者は神から何らかの方法で啓示を受けて、それを人々に伝える人だ。未来のことや知るはずのないことを宣言することもあれば、ただ神から与えられた超自然的な啓示の言葉を宣言することもある。預言はギリシア語では「propheteia」といい、「神の思いと意図を語りだす」という意味。ヘブライ語ではナバという言葉で、湧き出る、あふれ出す、注ぎだすという意味の言葉の「ナバ」から派生したものだ。神の働きかけによって預言の言葉が預言者の口から滝のようにあふれ出すのだ。その預言の内容は大きく二種類。第一に、人々を悔い改めに導く内容。エレミヤ、バプテスマのヨハネ、イエス様と弟子たちは悔い改めのメッセージを宣べ伝えた。第二に、教会の人々を造り上げ、励まし、慰める内容。捕囚からの帰還後にハガイとゼカリヤの預言によって励まされて神殿の再建が進められた。ユダとシラスはアンティオキア教会の兄弟たちを預言によって励まし力づけた。新約の預言は使徒言行録やⅠコリント14章から主に、第二の造り上げ、励まし、慰める内容が中心だということがわかる。預言は主に集会のメッセージの中に与えられたり、執り成しの祈りをしている中で与えられたりする。預言者自身、語り始めるまで自分が何を語ろうとしているのかわからないことも多い。主の促しに応じて口を開いて語りだすと預言が出てくるのだ。個人の祈りの最中や日常生活で突然御声が聞こえたり、夢や幻を通して御心が示されたりすることもある。
イエス・キリストの奇跡を目撃した人々は興奮して「大預言者が我々の間に現れた」と言った。イエス・キリストは神の子だから、大預言者以上の存在だ。しかし、大預言者と呼ぶのは間違いではない。イエス様御自分もナザレにいたとき、御自分をさして「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われた。
また、旧約聖書で約束されているモーセと同じような預言者を立てるというのは、イエス・キリストのことだ。申命記18:18-19。ユダヤ人はメシアやメシアに先立つエリヤを待っていただけでなく、この預言者が来るのも待っていた。イエス・キリストは確かにモーセのような預言者だ。モーセは顔と顔を合わせて神から御言葉を受けたが、イエス・キリストは御子として父なる神と顔と顔を合わせて親密な交わりを持っていた。モーセは雄牛の血によって旧約をもたらした預言者だが、イエス・キリストは御自身の血によって新約をもたらした。モーセはイスラエルの救いのために立てられた預言者で、イエス・キリストは人類の救いのために立てられた大預言者だ。
イエス・キリストはすべての預言者にまさる預言者だ。イエス・キリストは偉大な預言者としてヨナの名前をあげた。ヨナはほんの三日間預言するだけで人口12万人を擁したニネベを悔い改めさせて救った。イエス・キリストは御自分のことを「ここにヨナにまさる者がいる」と言われた。イエス・キリストは三日間で全人類の救いの御業を成し遂げた。
すべてのクリスチャンが預言の賜物を持っているわけではないし、教会で預言者という役職を与えられているわけでもない。皆が預言するだろうかと書いてある。しかし、主はすべてのクリスチャンを預言者となるように招いておられるし、主はクリスチャンを預言者とほぼ同じようにとらえておられる。まず、神は御自分の民イスラエルのことを預言者たちと言っておられる。歴代誌上16:22。それから、ペンテコステの聖霊降臨のとき、ペトロは預言者ヨエルの御言葉がいま実現しているのだと言った。使徒2:17-18。聖霊が降るとどうなると書いてあるか?預言、幻、夢と書いてあるが、結局のところ全部預言だ。主は預言者に対して夢や幻を通して語ると書いてある。
新約の特徴は、すべての人が聖霊様を受けて預言するということだ。すべての人というのは、全人類と言いたいところだが、少なくともすべてのクリスチャンだろう。それが主の御心だ。まだその御心通りになっていないのは、一つの要因としてクリスチャンに聖霊様と預言を求める飢え渇きが欠けているからだろう。私たちは熱烈に求めなければならない。
また、イエス・キリストは義のために迫害されるクリスチャンのことを何と言われたか?マタイ5:11-12。あなたがたより前の預言者たちと書いてある。ということは義のために迫害されるクリスチャンは少なくとも神の目に預言者とみなされているということだ。さらには、イエス・キリストは弟子たちを遣わすにあたり、弟子たちが捕らえられて証しをするときに、言うべきことは聖霊様によって教えられると言われた。マタイ10:19-20。聖霊様が私たちを通して語ってくださるなら、それは預言だ。
最後に、イエス・キリストは、弟子たちを受け入れる人は預言者を受け入れるようなものだといっておられる。マタイ10:40-41。これらの御言葉から、あなたがクリスチャンであれば、あなたは預言者だということ、少なくとも預言者として召されていることがわかる。また、預言者として神からメッセージを啓示されて人々に伝えるということは、決して特別なことでも、一部の人に限定すべきことでもないということがわかる。聖書では、預言を求めるように命じられている。Ⅰコリント14:1。ここで命じられている通り、預言を熱心に求める者となろう。
預言者の働きは教会を建て上げる上で大きな力がある。その反面、偽預言者や人格的に未熟な預言者によって教会が混乱してしまうこともある。私たちは預言者として、どんなことを心得なければならないか?
まずは、偽預言者にならないように気をつけよう。クリスチャンであれば、「偽預言者になりたい!」という人はいない。しかし、意図せずそうなってしまったり、そう呼ばれても仕方のない失敗をしてしまったりすることがある。私たちはそういう過ちを犯す人に対しても憐れみ深くある必要があるが、自分自身が偽預言者にならないようにすることは必要だ。預言というのは百発百中ではないし、全面的に信頼するものではない。吟味が必要だ。Ⅰテサロニケ5:20-22。自分に対して語られる声が全部神の声とは限らない。大きく3つの可能性がある。①神の声、②悪魔や悪霊の声、③自分の肉だ。神の声ではないことを神の声と信じて宣言してはならない。だから、神からの啓示を受けたと思われるときは、「これは預言なのだから絶対に正しい」と意地にならず、吟味が必要だということを覚えて控えめでいることをおすすめする。
ある程度偽預言者と預言者を見分ける方法がある。これを自分や他の人に適用しよう。
第一に、イエス・キリストを否定するのは神の声ではない。Ⅰコリント12:3、Ⅰヨハネ4:3。もちろん、クリスチャンであれば、真向からキリストを否定することはないだろう。これは預言者が預言によって自分の名前を有名にしようとしたり、積極的にイエス・キリストの御名を伝えなかったりすることも含まれるだろう。私たちはあくまでも主の僕として主の栄光のために主の御名が賛美されるようにしなければならない。
第二に、聖書の預言と矛盾するのは、神の声ではない。聖書については吟味が必要のない神からの啓示だ。Ⅱテモテ3:16。預言はこの先に与えられた聖書と調和しつつ、その時々の個人や教会に対して神の御旨を語ったものだ。聖書と矛盾するなら、その預言者がどんなにしるしや不思議な業に用いられる人であっても、その預言は信じてはならない。私たちはこういう過ちを犯さないように、聖書に精通していなければならない。
第三に、良い実を結ばない預言者は神から遣わされていない。マタイ7:15-18。実というのは第一に言葉や行動に現れてくる品性だ。私たちは聖霊様の結ぶ9つの実、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が結ばれているだろうか?それとも恐れ、不寛容、怒り、高慢、悪意、貪欲などの実を結んでいるだろうか?聖霊様から来ない悪い実を結んでいるなら、聖霊様の賜物にも不純物が多く混ざることになる。たとえ真実を預言できたとしても、愛が欠けていたら人々を建て上げるどころか、人々を傷つけ、つぶしてしまう。ローマ2:4。
第四に、語っても実現しない預言は神からのものではない。申命記18:22。この点についてあてはまるとしても、即偽預言者だということはない。ほかの人が預言した内容がその通りにならなくても偽預言者呼ばわりせずに寛容力をもって接することが必要だ。つまり、優れた預言者であっても自分の希望的観測を語ってしまうことがある。また、神から与えられた啓示の内容の時期や詳細について正確に解釈できないことによって啓示の内容は成就しても預言した内容は成就しないということがありうる。たとえば預言者アガポの預言は成就しなかった。使徒21:11。実際にはユダヤ人たちがパウロを縛って異邦人に引き渡していない。ユダヤ人たちからパウロが暴行を受けていたのをローマの千人隊長が見つけて、ローマの千人隊長が鎖で縛った。しかし、大筋としてはパウロが預言通りにユダヤ人を通してローマ人に捕らえられているので成就している。何をするにしても失敗はつきものだ。めげずに励もう。
神からの訓練を受ける。神は預言者に御自分の御言葉を人々に伝えるという重大な働きをまかせるにあたって、いきなりまかせるのではなく、預言者を訓練する。御自分に忠実に従う僕となるように訓練する。主からの訓練過程によく協力するなら、私たちはどのような奉仕にも耐えられる器となることができる。
指導者からの訓練がある。人間は人間を通して指導されなければならないことがある。人は自分だけでは気づけない弱さがあるし、他の人の強さから学ぶべきことがある。特に聖霊の賜物というのは分け与えることができるものだ。エリシャは預言者として立てられるまで、エリヤにずっと従い続けた。エリヤのしていることを見て、エリヤの言葉を聞いて、エリヤを通して働く神の力を感じた。それで、エリヤからの霊的な遺産を豊かに受け、エリヤと同じどころか、エリヤの二倍の霊を受けることができた。
謙遜の訓練がある。高慢な人は主の栄光を現すことができない。モーセが預言者として召されたのは80歳の時だ。モーセが用いられるためには、ミディアンの地で羊の群れを飼う何者でもない者として40年間過ごすことを通して完全に打ち砕かれ、謙遜になる必要があったのだ。
孤独の訓練がある。預言者は神との交わりに集中するために、孤独を味わわなければならないことがある。エレミヤやエゼキエルはそういうところを通った。人間は一人にならないと神と真剣に向き合えないことがある。孤独であるということは神との深い交わりに入り、御声を聞くための絶好のチャンスだ。預言者としての働きを充実させるには、目安として祈りと御言葉による個人的な主との交わりには最低1日1時間、できれば2-3時間くらい祈ると良いだろう。
荒れ野の訓練がある。不毛で不便で何もないところを通るときにも、主を信頼し続ける訓練だ。イスラエルはこれを通ったし、イエス・キリストも通った。
従順の訓練がある。神が命じられることは私たちにとって不合理に思えることが多々ある。しかし、神はたいてい理由を説明せずに命じられる。私たちは神を信頼して従順しなければならない。従順するなら、最終的にはすばらしい成果を得ることができる。
その他に、名誉や富や個人的な野望などについても、主は私たちに対して取り扱いをなさることがある。そういうことがあれば、喜んで主に明け渡す者となろう。主はささげた以上のものを与えてくださる。この世においてか、あるいは御国において。御国での永遠の報いについて特に期待できる。イエス様は預言者に与えられる御国での報いは大きいと何度も言われている。
主があなたを祝福し預言的な油注ぎを豊かに与えてくださるように祝福する。
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