9つの聖霊の賜物[Ⅰコリント12章]

コリントの信徒への手紙一
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過去の遺物ではありません。あなたも信仰さえあれば聖霊の賜物を体験できます。

9つの聖霊の賜物[Ⅰコリント12章]

9つの聖霊の賜物[Ⅰコリント12章]

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聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12:1-31

1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

【ノート】
11章までは肉的事柄を正す、メスを入れる内容だった。パウロは重要な事柄を一通り書き終えた後、その他のことについては、「私がそちらに行ったときに決めましょう」とした。もう肉的な事柄について指摘するのはうんざりということ。12章からは霊的事柄。パウロが進んで書きたいこと。1節。「ぜひ知ってほしい」。原語のギリシア語を見ると、無視してほしくないという内容になっている。霊的な賜物はぜひ知らなければならず、無視してはならないこと。しかし、聖霊の賜物ほど無視されているものもなかなかない。
ある人々は、「聖霊の賜物は今はない。過去のものだ」という。ある人々は逆に、聖霊の賜物を乱用してしまう。賜物を全部自分の私腹を肥やすために使ったり、TPOをわきまえずに用いたりする。せっかく主から良いことのために与えられた力を悪用している。どちらも聖霊の賜物を無視しているのだ。私たちは聖霊の賜物を無視せず、聖霊の賜物を求め、いただき、正しく用いるものとなろう。

2節。聖霊の賜物について詳しく触れる前に、突然、異教徒だったころの、ものの言えない偶像の話が出てくる。これは、私たちの信じる神がどれだけ偶像と違うかということを強調している。ものの言えない偶像、それは全くの無能力だ。何の力もないものを信じても何の力も得られない。しかし、主なる神は違う。主なる神は語られる。力がある。私たちに良い力、聖霊の賜物を与えてくださる。預言を通して多くのことを語り、奇跡を通して力を示される。未信者に「なぜいまの時代には新約聖書のころと違って奇跡がなかなか起こらないのか?」と聞かれて、「昔は聖霊の賜物が与えられて奇跡が起こったけど、今は聖霊の賜物が必要なくなったから奇跡は起こらないんだ」というのは苦しい言い訳だ。いまもその未信者を救いに導くために聖霊の賜物が必要だ。私たちは認めなければならない。教会からしるしや不思議な業が失われていったのは、不信仰のゆえだと、教会の霊性が落ちたからだと。悔い改めて信仰を取り戻さなければならないと。教会史を見るなら、力のある教会はどの教派であろうとしるしや不思議な業が起こることがわかる。私の神が偶像と同じレベルに思われたら私は悔しい。主は聖霊の賜物を通して力を発揮する。

3節。聖霊様に対して、恐れたり、危険に思ったりする人がいる。そういう必要はない。聖霊様は私たちの信仰に深く結びついている。聖霊様は必ずイエス様の栄光を現す。聖霊の賜物について、間違った噂話があった。たとえば、ある人が異言を語っている。本人が知らないはずの言語で祈っている。その言語を知っている人がその祈りを聞いたところ、イエス様を冒涜していた。そんなことは絶対にありえない。そういう噂話は根も葉もないものだ。聖霊様は父なる神の栄光を現し、イエス様の栄光を現す。また、ある人は、聖霊を求めて祈っても悪霊が来るかもしれないと心配する。これも間違いだ。それは父なる神が魚を欲しがる自分の子供に蛇を与える、聖霊をほしがる子供に悪霊を与えるような悪い方だしているようなものだ。それは悪魔の嘘だ。父なる神は求める者に良いものをくださる。
真実な信仰告白はすべて、聖霊様から来る。ペトロはイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ったとき、イエス様はそれを喜んで、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」と言われた。信仰告白は自分の意思によるようだが、聖霊様の助けなしには不可能だ。

4-6節は聖霊の賜物の出どころと多様性について。聖霊の賜物の出どころは、私たちでも悪霊でもなく、三位一体の神以外にない。霊、主、神とある。それぞれ、聖霊様、イエス様、父なる神様をさしているといえる。だから、私たちは安心して賜物を受ければよい。賜物の出どころは一つだが、画一的ではなく、非常に多様だ。賜物自体多様だ。
この章では聖霊の賜物が9つあげられているが、ほかにもローマの信徒への手紙12章にも賜物が7つ列挙されているし、新約聖書全体にちりばめられている。務めは奉仕の内容だ。神に仕える方法は様々だ。伝道、牧会、教育、賛美、執り成しの祈り、会計、食事作り、案内係など様々な奉仕がある。そして、聖霊様の働き方も多様だ。このことから私たちは人と同じ経験を求めなくて良いということがわかる。聖霊のバプテスマは、ある人は、求めているとき、ある日突然、全身に電流が流れるような劇的体験をして異言が口から出てくる。ある人は人からの導きの中で、静かにではあるが確かに聖霊のバプテスマを受け、異言が出てくる。どちらも聖霊のバプテスマだ。聖霊様が必ず、どういうふうに働くというふうに公式化できない。聖霊様の働きは多彩なのだ。

では、何のために聖霊の賜物を受けるのか?それは決して自分の気分が良くなるためでも、金儲けの手段にするためでも、自慢するためでもない。コリントでは明らかに賜物が豊かな人が、賜物が乏しい人に対して自慢することがあった。それは間違いだ。7節。全体の益だ。つまり、賜物は教会が強められるために与えられている。もし聖霊の賜物がいらなくなったというのなら、教会は初代教会以上に成熟していなければならない。しかし、教会が聖霊の賜物を必要としないくらい成熟したことは一度もない。だから、聖霊の賜物は今も必要であり、父なる神は良いものを私たちに拒まれない。私たちがいま扱っている内容は自分の人生で得ることができるものについてだ。
多様な賜物、務め、働きによって、全体、つまりキリストの体が形作られ、成長する。賜物はほかの人と競って優位に立つためではなく、むしろほかの人のため、全体を建て上げるために与えられていることをわきまえなければならない。

8-10節は賜物のリスト。賜物は3つの区分できる。知恵の言葉、知識の言葉、霊を見分ける力が啓示の賜物。信仰、癒し、奇跡が力の賜物。異言、異言の解釈、預言が音声の賜物だ。
それでは、それぞれがどんな賜物かみていこう。8節。第一は、知恵の言葉。知恵の言葉とは、難しい問題に直面したとき、誰もが納得するようなすばらしい解決策を出す賜物だ。初代エルサレム教会にはヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人が出た。彼らはみな財産を共有し、平等に分け合っていた。ところがあるとき、ギリシャ語を話すユダヤ人から日々の分配が不公平だと苦情が出た。そのとき、初代エルサレム教会を牧会していた十二使徒たちは全員ヘブライ語を話すユダヤ人だった。それで、ヘブライ語を話すユダヤ人の方が立場が強くなってしまっていた。そこで、使徒たちは言った。使徒6:2-4。それで任命した7人は全員ギリシャ語を話すユダヤ人だった。これで不公平感が解消されて教会に平和が戻った。
第二は、知識の言葉。知識の言葉とは、知るはずのない情報やある人の状況についての知識が与えられることだ。その人が癒しを必要としている箇所を知識の言葉で見抜いて、それを癒しの賜物で癒すというように、癒しの賜物と併用することもある。また、本人しか知るはずのない人間関係の問題、罪の問題を見抜くこともあるし、住所、電話番号、銀行口座の番号などを見抜くこともある。見抜かれた人は罪を悔い改めて、神を信じるようになる。
9節。第三は、信仰。信仰は、クリスチャンであれば、全員持っている。それは救いを受け取る信仰だ。ここでいう聖霊の賜物としての信仰は、神の力が現わされることを大胆に宣言し、その通りに実現する力だ。ペトロが神殿の美しい門の前で物乞いをしている生まれつき足の不自由な人に対して、「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言った。すると、その人はたちまち癒されて立ち上がり歩き出した。ペトロは癒された理由を何と説明したか。使徒3:16。信仰と書いてある。
第四は、病気をいやす力だ。癒しはすべてのクリスチャンが実践可能だ。マルコ16:18には信じる者に伴うしるしとして、「病人に手を置けば治る」と書いてある。そして、癒しはイエス様から命令されている。マタイ10:8。
だから、「私には癒しの賜物がないから癒せない」と思わず、癒しのために祈ろう。癒しが起こる教会の特徴は、癒しのために祈ることだ。あきらめずに信仰を持って癒しの祈りを実践し続ければ、癒しは起こる。日本のある教会の牧師は100人のために癒しを祈っても癒されなかったが、150人あたりから癒しが頻繁に起こるようになった。一度二度祈ってやめるのではなく癒しが頻繁に起こるまで挑戦。イエス・キリストはありとあらゆる病気や患いを癒された。
同じように、私たちが行う癒しにも制限はない。心の病気、肉体的な病気、怪我、痛みなどを癒すことができるし、死人が生き返ることもある。
10節。第五は、奇跡を行う力。特別な必要があるときに、自然法則に介入して超自然的な業を行う力。イエス様が水の上を歩いたり、パンを増やしたり、水を葡萄酒に変えたりしたのがそれだ。神は不必要には御自身が造った自然法則を曲げない。このような奇跡は常にその必要があるときだ。インドネシアのリバイバルが起きたときには、宣教のために水深70メートルもある川を浅瀬であるかのように渡ったり、わずかな食べ物と飲み物しかないときにそれらを増やしたり、ぶどうが全くできないので水を葡萄酒に変えるという奇跡が起こった。同様にアフリカの貧しい国であるモザンビークでの宣教や文化大革命で強い迫害にさらされていた中国のクリスチャンたちの間でも奇跡を行う力が現れることがあった。
第六は、預言する力。預言は人間の考えや思いを超えた神からの言葉を語ることを通して、人々を奮い立たせ、励まし、信仰を強めるものだ。旧約聖書では、悔い改めの預言が主流だが、新約聖書では罪赦された教会に対しての励ましが主流だ。使徒15:32。預言する者は預言によって神の御心を伝えて教会を励まし、建て上げるのだ。教会が預言の言葉に耳を傾けるなら、神が始められた御業を最後まで担うことができる。預言は必ずしも未来について語るとは限らない。しかし、複数の人々に同時に似た預言が与えられたり、知識の言葉が同時に出たりすることによってその預言が確かだというしるしを伴うこともある。預言は直接神からの御声を聞く場合もあれば、夢や幻を通して語られる場合もある。
第七は、霊を見分ける力。これは、霊的なものを見て、その正体や状態を診断する能力だ。まず、霊を見ることができなければ見分けることもできないので、霊的な事柄を見ることに長けている。礼拝中にほかの人には見えない天使の姿が見えたり、人にとりついている悪霊の姿が見えたりするのだ。この賜物があれば、霊的なものが神から来たものか悪魔から来たものかがわかる。だから、悪霊の教えやだましごとを看破できるので、教会は安心して神からの良いものだけを受け取ることができる。また、人々の霊の状態を見分けて、その人の成長をはばんでいる問題を察知したり、賜物を見抜いたりすることができる。
第八は、種々の異言を語る力。異言は、神から与えられる天的な言語であり、語っている本人を建て上げるものだ。種々というだけあり、異言はわけのわからない言葉で語ることもあれば、本人が知らないはずのほかの国の言葉で語ることもある。どちらにせよ、解釈する人がいなければ異言を語っている本人すら何を語っているのかはわからない。何を語っているかわからないのになぜ異言を語るのか?それはわからなかったとしても力があるからだ。異言で祈るなら、神を賛美したり、霊性を開発しほかの賜物をも使えるようになったり、どう祈ったらいいかわからないときに神の御心に適ったことを祈ったりすることができる。聖霊のバプテスマのしるしは異言だ。異言が与えられたら異言で忠実に祈ろう。一日30分くらいは祈ろう。地味だが、続けるなら豊かに実を結ぶことができる。
第九は、異言を解釈する力。異言の意味を解き明かす賜物だ。解き明かす相手は自分自身のこともあれば、他の人のこともある。異言と共に用いることで、預言と同じように教会を励まし、建て上げることができる。

聖霊の賜物はどうすれば得ることができるのか?11節。聖霊様は望むままに一人一人に分け与えてくださる。だから、聖霊様が賜物を与えたいと思われる人になればいい。聖霊様はどういう人に賜物を与えたいか?聖霊様を求め、聖霊様を歓迎し、聖霊の賜物を求める人だ。また、聖霊の賜物が必要な働きに身を投じている人だ。さらには、すでに与えた賜物を忠実に使っている人だ。まずは、信仰をもって祈り求めることだ。聖霊様御自身を求め、賜物を求めよう。そして、実践してみることだ。癒しなら癒しの祈りをする。異言なら口を開いて異言で祈ってみる。聖霊の賜物を熱烈に求め、活かしていく者となろう。アーメン。
そして、賜物の主導権が聖霊様にあるということは、私たちの道具として自由に使い、百発百中うまくいくというわけにはいかないこともわかる。この人が癒されたからといってあの人も癒されるとは限らない。昨日食べ物が増える奇跡が起きたからといって今日も増えるとは限らない。預言を語る人が熱狂して神からの言葉ではなく自分の願望を預言として語ってしまうこともある。だから、私たちは聖霊様の導きに敏感になるようにしよう。

12-31節は一つのキリストの体と多くの部分について。私たちはキリストの体の一部を構成している。賜物の発生源が三位一体の神でありながら、非常に多様なのは、教会も一つのキリストの体でありながら、いろいろな人がいるということに通じる。違いは、多くの場合、コリントの信徒たちがそうだったように対立を生み出す。しかし、教会の場合は、一つの体であるということによって、一致できなければならない。13節。人種的な違いと身分の違いが示されている。これは現代に至るまで克服するのが非常に難しい違いだ。水のバプテスマと御霊のしるしによって根拠づけられているキリストの体の一部となるということによって、一致がもたらされる。一つの体なのに一致していないのはおかしいし、いろいろ問題が起こる。まず、体のどの部位も体の一部だ。私たちはすべてのクリスチャンとつながっている。17節。奇妙だ!おかしい!みんな同じなら、その他の人が持っていた多くの機能が欠けてしまうということだ。18節。教会に多様性を与えたのは神だ。その意図をくみ取らなければならない。21節。体がこのように喧嘩し始めたらどうなるか?大変だ。どの部位が勝って、他の部位を追い出しても、体全体がダメージを受けることになる。
コリントの信徒たちはお互いのことを比べて、身分や派閥などによって相手を判断し、格下の相手に対して優越感に浸って相手を小ばかにしたり、お前たちなんていらないと言ったりした。ところが、実は見劣りする部分を神はいっそう引き立たせた。低く見られがちな人の方が神に用いられたのだ。神はそのようにバランスをとっておられる。
26節。箪笥の角にゆびをぶつけると飛ぶあがり、痛みを全身が感じる。「あなたの目は素敵ですね」とほめられると全身が喜ぶ。クリスチャンは運命共同体であり、お互い切っても切り離せないのだ。
このことから、教会には、ルーテル教会、改革派教会、長老派教会、バプテスト、メソジスト、ホーリネス、ペンテコステ、カリスマなどの教派があるが、主にあって一致できなければならない。

28-30節では神によって賜物が与えられて建てられた人について。いろいろな役職、奉仕の人がいる。そして、使徒がどんなに優れた役職であっても全員使徒になるわけにはいかないし、常にほかの役職や奉仕を必要としている。そのようにして支えあっている。31節。さらに大きな賜物をいただく秘訣は熱心に努めることだ。ただし、役職や奉仕に問わず、常に最高の賜物がある。それは愛だ。次回は愛の定義について。

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