視線を意識する

福音&主題メッセージ
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ハイレベルな生き方は視線を意識することによって可能です。

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【ノート】
ただいつもやっていることや必要にかられていることだけを行うのであれば、人間には高いモチベーションはいらない。ごはんを食べること、歯を磨くこと、通勤や通学をすること、そういうことは健康であれば体が覚えていてなんとなくできてしまうものだ。特別な努力が必要なことをたくさんする、そういうハイレベルな生き方をするときには、高いモチベーションが必要になる。人間のモチベーションには、視線を意識することによる。よく見られたい。喜ばれたい。好かれたい。怒られたくない。評価されたい。尊敬されたい。ほめてもらいたい。そういうことがモチベーションになる。

聖書には、2種類のハイレベルな生き方が出てくる。その2種類の生き方のモチベーションは、誰の視線を意識するかが違う。今でも結局のところハイレベルな生き方をする人々というのは、誰の視線を意識するかによって大きく2分することができる。

1つはファリサイ派の人々の生き方だ。ファリサイというのは、分離した者という意味で、自分たちが一般人よりもずっと正しい生き方をしている点で、区別されると自認している。ファリサイ派の人々は旧約聖書の律法を徹底的に守るという点で熱心だった。ファリサイ派には律法学者がいて、一つ一つの律法を具体的にどのように順守するべきか、細かい施行細則を作って、それを実践していた。ファリサイ派の人々は律法の行いによって正しい者とされていると思い込むことができるほど、よく実践していた。罪を避けて、週に二度断食し、全収入の十分の一を献げていた。それで、民衆たちから尊敬を集めていた。ファリサイ派の人々は確かに人並ならぬ努力をする人々だった。ファリサイ派の人々はなぜそこまで犠牲を払ってまで律法を守ろうと取り組むことができたのか?イエス様はファリサイ派の人々がすべてのことを何のために行っていたのか、何をモチベーションにしていたのかを指摘している。マタイ23:5。イエス様は「そのすることは、すべて人に見せるため」と言われた。ファリサイ派の人々が祈るのは人に見せるため、断食するのも人に見せるため、十分の一を献げるのも人に見せるためだ。すべてを「なんて信仰の熱い人なんだ」と思われたいがためにしているのだ。実際にはすべて人に見せるために行っているので、そこに神への信仰は何もない。全部ただの信仰が熱いふりをする演技であり、人々をだましているのだ。イエス様が彼らのことを偽善者と言われたのはそのためだ。

ファリサイ派の人々のモチベーションは全面的に人々の目を意識すること。だから、人々の目の届かないことについては無関心だ。つまり、外側を美しく飾るだけで、プライベートの生活や内面の清さについては、注力しない。マタイ23:25-28。

では、神御自身であるイエス様はファリサイ派の人々をどのように評価したか?マタイ23:33。このように強い指摘された人々は他にいない。ファリサイ派の人々は神の律法を徹底的に守ろうとしたのに、人に見せるためという間違った動機によってそうしたので、神から最悪の評価を受けてしまった。このように、間違った動機による信仰が熱いふりの演技や内側の清さに対する無関心というのは、イスカリオテのユダにも見られ、アナニアとサフィラにも見られる。みんな滅びの宣告を受けている。現代のクリスチャンにも見られるかもしれない。クリスチャンは御言葉によって高い水準の生き方が要求されているので、高いモチベーションが必要だが、そこで間違ったモチベーションを持ってしまう人がいる。イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種に気をつけなさい」と言われた。もしファリサイ派の人々のように特徴が自分のうちにあれば、悔い改めてもう一つの生き方を目指そう。

もう1つは神の国の生き方だ。それはマタイ5章から7章の山上の説教で示されている。山上の説教で示されている神の国の生き方は他のどんな教えよりも高い水準の生き方だ。人類最高の霊的、道徳的教えがそこに示されている。イエス様はあなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができないと言われた。ファリサイ派の人々よりも高い水準の生き方が要求されているのだ。それだけに高いモチベーションが必要だ。

山上の説教でのモチベーションは神の視線を意識することだ。そこには隠れたところにおられる父なる神様が隠れたことを見ておられると3回も書いてある。マタイ6:4、6、18。人間が誰も見ていなかったとしても、神は常に御自分の子供を見ておられる。神の視線は私たちに注がれている。じーっと。目をそらすことも、まばたきをすることも、まどろむこともなく、神の視線は私たちに注がれている。それだけ神は私たちに関心を持っておられるのだ。神が御自分の子供をご覧になるのは、特にどういう時だと書いてあるか?父なる神はいつも私たちをご覧になっているが、ここでは特に、私たちが神の国の生き方をする中でする善いことを見ておられることが書いてある。父なる神は私たちの神の国の生き方をするのを特に注目しておられ、それを見て喜び、祝福し、天の報いを備えてくださる。これが神の国の生き方をする上でのモチベーションだ。隠れたところで隠れたことを見ておられる父なる神に見ていただくために善を行う者となろう。

しかし、神の視線を意識することについて、ネガティブなイメージを持つ人もいる。神が見ておられるということは、私たちが悪事をしないか常に監視していて、罪を犯そうものなら即座に罰を与えようとしているのだと恐れている人だ。これはどの国でもある考えだ。日本でも「お天道様は見ている」という言葉があるが、悪事を処罰する審判者として神のことをイメージする。それで神の視線を意識しようとしないのだ。それで「神がいつもご覧になっている」ということを福音のつもりで話したのに、あからさまに嫌な反応をする人がいた。アダムは罪を犯した後、神から隠れようとした。罪を犯して堕落した人間が、そのように神を恐れて神から逃げようとするのは創世記3章でも今でも変わらないのだ。神が審判者であるというのは正しい。しかし、イエス・キリストを信じて義とされた人に対して、神が常に目を注がれるのは、罪を見て、罰を与えるためではない。神は警察のような目で私たちを見ているわけではない。子供を愛する親の目で見ておられる。そして、なんとイエス・キリストにあって、すべての罪を見逃してくださったということが書いてある。ローマ3:25。神はイエス・キリストにあって罪の罰から私たちを完全に救ってくださった。神は罪を戒めることもあるが、それは滅ぼすためではなく、正しい道に導くためだ。だから、私たちは神の視線を意識することを恐れてはならない。人の視線を意識するなら、平安を失ってしまうこともある。人は敵対的な目、侮る目、悪意や軽蔑の目で見てくることもある。しかし、父なる神が私たちをご覧になるのは、守るためだ。詩編121:1-8。神が絶えず私たちをご覧になっているということは、安全だということ。恐れずに神の見守りの視線を意識しよう。

それでは、神は私たちのどの部分を特に見ておられるのか?神は私たちの心を見ておられる。サムエル上16:6-7。人は外見を見るしかない。人には心を見透かすことはできない。預言者サムエルすら他人の心を見透かすことができなかった。心こそが私たちの言動のもとになっている。それなのに、心が見えないということは、他の人には私たちの最も重要な部分が見えないということだ。だから人間の視線を意識していれば演技をし始めてしまう。しかし、神は私たちの心を見ておられる。ということは、神の視線を意識するなら、演技をしても無駄だということがわかる。演技をしたところで、神にはすぐに見破られる。神の視線を意識するなら、裏表のない真実さ、内面の清さを追い求めなければならないということがわかる。イエス様が山上の説教で説いておられることも、基本的に内面の清さに関することだ。内面は自分の力によって清めることができない。内面は御言葉、イエス様の血潮、聖霊様の力によって清められる。心をご覧になる神の視線を意識して内面の清さを求める者となろう。

隠れたところにおられ、心を見ておられる神、これだけでも神の御目は人間とは全然違うということがわかる。神はどんな目をしておられるのか?父なる神の御顔を直視することはできない。しかし、イエス様の御顔については見ることができる。イエス様の御目について、聖書では何と書いてあるか?黙示録1:14。目は燃え盛る炎を書いてある。イエス様は「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの前進が明るいが、濁っていれば、全身が暗いと言われた。」目に、その人の持つ光が現れるのだ。イエス様の場合はその目が燃え盛るほど。イエス様の持つ光がそこに現れている。その目で、イエス様が私たちをご覧になる。イエス様は私たちを冷めた目で見たり、なんとなく見たりするのではなく、燃え上がるほどの熱い視線を注いでくださっている。それは愛の炎だ。強い愛というのは燃える炎だ。雅歌8:6-7。主は私たちを愛してやまないので、炎の目で私たちをご覧になっておられるのだ。黙示録では、燃える炎の目をお持ちのイエス様が、7つの教会にあててメッセージをお語りになる。それは、イエス様がいつもその燃える愛の炎の目で教会と一人一人のクリスチャンをご覧になっておられたということだ。イエス様はご覧になり、その状況をご存知で、励まし、力づけたいと願っておられるということだ。目は口ほどに物を言うという。イエス様の目を見るだけで、イエス様の燃える愛が伝わってくる。主はあなたを愛して、あなたを燃える愛の炎の目でご覧になっている。主はあなたの状況をご存知で、あなたを御言葉によって力づけたいと願っておられる。主の愛の視線を無視してはならない。

神の視線を意識しよう。報いようとしてくださり、罪を見逃してくださり、見守ってくださり、心をご覧になってくださり、燃える愛の炎でご覧になってくださる神の視線を意識しよう。これをモチベーションとして私たちの原動力として、神の国の生き方を邁進する者となろう。アーメン。

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