あなたは祭司です!

王、祭司、預言者
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責任重大ですが、聖霊様の油注ぎによって全うできます。

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【ノート】
祭司は神と人間の間の仲介者であって、人間のために執り成す存在だ。執り成すというのは二者の間に立って、うまくとりはからうのこと。イエス・キリストはメルキゼデクと同じような祭司だ。メルキゼデクは創世記に出てくる主の祭司で、出エジプト記以降に出てくるレビ族の祭司とは違う。メルキゼデクには父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の始めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者で永遠の祭司だ。イエス・キリストはメルキゼデクのように古い契約に仕えたレビ族の祭司とは違って新しい契約に仕える大祭司だ。イエス・キリストの十字架は霊的には、地上の幕屋よりもはるかに大きな天の至聖所に入って、御自身の血潮によって永遠の贖いの御業を成し遂げるものだ。イエス・キリストが大祭司としてどんなに重要の役割を果たしているのか、いろいろな聖句を一挙に見ていこう。Ⅰテモテ2:5。ヘブライ9:15。ヘブライ7:25。ローマ8:34。

イエス・キリストを見れば祭司の役割がどんなに重要かがよくわかる。すべての人はイエス・キリストの祭司としての執り成しのお陰で罪から救われ、執り成しのお陰で祈りが聞かれる。すべてのクリスチャンは祭司だ。イエス・キリストは大祭司だが、クリスチャンはいってみれば大のつかない普通の祭司。Ⅰペトロ2:9。つまり、クリスチャンは祭司として重大任務を帯びている。私たちは人類を代表する祭司として、神と人間の間の仲介者となり、人々の救いのために執り成さなければならないのだ。それはイスラエルに与えられた召命であり私たち教会に与えられた召命でもある。出エジプト19:6。責任重大だ。しかも、誰もほかに代わりはいない。民数記3:10。主が立てた祭司が永遠の契約によって祭司の役割を果たすのであって、他の人が勝手に祭司になろうとするなら厳しい罰を受ける。クリスチャン以外にキリストの祭司は務まらない。もしクリスチャンが祭司としての責務を全然果たさなかったらどうなるのか?人類はおしまいだ。罪人が祭司の働きなしに自分から悔い改めるということはない。南ユダ王国が滅びるときには、祭司たちが汚れ、利をむさぼっていたことが書いてある。私たちは人類が立つか滅びるかを決める立場にいる。しかし、私たちは祭司として役割を果たすことができるに違いない。なぜなら、神が私たちに聖霊様の油を注いで祭司に任命してくださっているからだ。私たちには油注ぎによって祭司としての権能が与えられている。そして、未来をご存知の神が私たちを信頼して任命してくださったということは私たちは立派にその責務を果たすことができるに違いないということだ。

重大なミッションを帯びている人は、そのミッションの内容を知らなければならない。どんなミッションか知らずに果たすことはできない。祭司として私たちが果たすべきミッションは何なのか?いろいろあるが大きく6つとりあげる。

第一に、祭服を着る。祭司は油注がれるだけでなく祭服を着なければ祭司としての務めをすることができない。主はあえて、祭司と大祭司のために特別な祭服のデザインを詳細に与えられた。出エジプト28:2。私たちに威厳と美しさを添える衣は何か。大祭司の衣の中に私たちが祭司として必要な事柄を見ることができる。大祭司が着る服は、亜麻布のずぼん、亜麻布の長い服、飾り帯、亜麻布のターバン、青い上着、エフォド、胸当ての7つ。亜麻布のずぼんからターバンまでは普通の祭司も着る。亜麻というのは光沢のある白い布で、これは神の義を象徴する。すべてのクリスチャンはキリストの義の衣を着て雪のように白くされ、罪に定められない者とされることで祭司の務めができる。
ほかの3つの衣は大祭司特有の衣。つまり、すべてのクリスチャンが持っているわけではないものだ。青い上着は義の衣の上に着る。これは聖霊のバプテスマを象徴する。出エジプト29:31-34。長い上着は真ん中に頭を通す穴が開いているので着る時は上からすっぽりとかぶる形になる。これはイエス様が「上よりの力に覆われるまでは都にとどまっていなさい」と言われた聖霊のバプテスマと同じだ。破れないための襟のふちどりは、聖霊の力を乱用しないように、秩序が必要だということを現している。上着の周りにはざくろと金の鈴をつけるが、ざくろは御霊の実、鈴は御霊の賜物を表している。
エフォドと胸当ては神の栄光と臨在を象徴している。両者とも金、青、紫、緋色の毛糸と亜麻のより糸というふうに色とりどりの糸を使ってつくられている。神の栄光と臨在の豊かさを表している。胸と肩にはそれぞれ十二部族を表す宝石がある。それは神にとって御自分の民が宝石のように値高く貴いこと、神が御自分の民のことを心にとめておられ、責任を持ってくださり、御自分の民のただなかに臨在されることを表している。

第二に、主なる神へのささげものをささげる。神にささげるものは多岐にわたる。旧約を見るなら多くの場合、祭司はそれらのささげものをするにあたって立ち会う。動物の生け贄や穀物のささげものをささげることがある。幕屋や神殿の建築や修繕のために財産をささげることがある。人間が自分の人生を神にささげる献身がある。あらゆる楽器を使いながら感謝と賛美のささげものをすることがある。安息日に時間をささげることがある。過越祭、除酵祭、初穂の祭り、五旬祭、ラッパの祭り、大贖罪日、仮庵の祭りの7つの主の例祭をささげることがある。こういう様々な方法によって神に近づく。旧約ではイスラエルの中でも一部の祭司だけがこういうことをすることが許されていたが、新約ではすべてのクリスチャンが祭司だ。すべてのクリスチャンが直接神へのささげものをささげることができる。ただし、主なる神へのささげものをするにあたっては、どんな方法でも良いわけではない。主がお決めになった規定に反してはならない。規定に反した方法でささげものをささげるとどうなるか?レビ10:1-2。規定に反するなら命にかかわる。祭司の務めは命がけなのだ。では新約の祭司に与えられたささげものの規定とは何か?感謝なことに新約の場合シンプルだ!イエス・キリストを通してささげるということだ。ヨハネ14:6。これが私たちが祭司として絶対に守らなければならない規定。旧約のさまざまなささげものの規定のほとんどが、イエス・キリストを予表する陰のようなものだ。ほかの名前によってではなく、ただイエス・キリストの御名によって父なる神に近づく。なぜなら、イエス・キリストの血潮が神に受け入れられる完全なささげものだからだ。

第三に、執り成しの祈りをささげる。執り成しの祈りとは、誰かのために祈ることだ。新約の祭司の務めとして特に重要なのがこれだ。決して日のあたらない務め、目立たない務めだ。それをしたからといって、この世では誰もほめてくれないかもしれない。しかし、人知れずささげた祈りはすべて神に聞かれており、人を動かし、国を動かし、歴史を動かすことができる。教会が伸るか反るかは執り成しの祈りにかかっている。霊的な戦いに勝つか負けるかは執り成しの祈りにかかっている。では、私たちは誰のために祈ったら良いのだろうか。エフェソ6:18。まずはすべての聖なる者たちのため。といっても、クリスチャンは何億人といるので、全員を覚えて祈るの無茶。少なくとも、神の教会のために祈り、自分の教会のために祈り、知り合いのクリスチャンのために祈ろう。聖霊様が祈りを助けてくださる。絶えず目を覚ましてとある。睡眠を多少削らないといけないこともあろう。根気よくとある。ちょっと祈って変化がないからやめてしまうというのではいけない。祈りの中で勝利を得るまで祈ろう。
次は誰のためか?Ⅰテモテ2:1-2。次は未信者も含めたすべての人のためだ。救われていない人については救われることを祈らなければならないだろう。さらには国の指導者が御心に適った国のかじ取りをするように祈らなければならないだろう。執り成しの祈りの中で歴史を動かしていく私たちになろう。

第四に、人々を祝福する。祭司の務めは人々を裁くことではなく、祝福することだ。民数記6:23-27。これは執り成しの祈りと違って見えないところで行うのではなく、相手が聞いているところで行う。「主があなたを祝福し」と相手に対して祝福を宣言している。神が御言葉によって天地万物を創造されたように、神の子である私たちの言葉にもそれなりの力があって、宣言したことを実現することができる。ほかの人が霊的、肉体的、経済的、社会的に祝福を受けられるように祈り、祝福を宣言する私たちになろう。

第五に、聖と俗、清いものと清くないものを区別すること。律法書を読むと、祭司がいろいろなものの判定をし、区別をしていることを見ることができる。皮膚病の判定、かびの判定、ささげものの支払額の判定、家畜の善し悪しの判定、土地の値段の判定、不倫の判定などが書いてある。判定の結果、価値を決めたり、「清い」、「清くない」という宣言をする。これらは一般人が勝手に判断してはならず、必ず主の祭司の判定によらなければならなかった。このことからものの価値、善悪、清さと汚れというものは全面的に主が判断するものだということを知ることができる。祭司がこの判断を怠ってなあなあにしてしまうなら、主なる神の主権がないがしろにされてしまい、神の民は栄えない。そのことがエゼキエル書22:26で指摘されている。私たちは新約の主の祭司として、御霊と御言葉によって、善悪を判断し、神に喜ばれることを追い求めていくものとなろう。ローマ12:2。

第六に、契約の書の内容を教える。契約の書は祭司のところにあった。当時はコピーが簡単ではない。だから、必然的に契約の書の内容は主に祭司が教えなければならなかった。祭司の部族であるレビ人が各部族に散らばっていた一つの理由は、どの部族も主の掟を守れるようにするためだ。しかし、イスラエルの歴史を見るなら、祭司やレビ人が律法を教えることを怠ったこと、民たちに信仰教育をしなかったことがイスラエル滅亡の大きな要因となったことがわかる。歴代誌下15:3。教えることが期待されていたが祭司は全然教えていなかったのだ。それどころか契約の書は忘れ去られて、南ユダ王国の末期のヨシヤ王の時代に神殿でほこりかぶっていたのが発見されるほどだった。エズラの時代には異邦人の王であるアルタクセルクセス王がエズラに対して、ユーフラテス西方の民が律法を守るように教えるように命じた。エズラ7:25-26。あんまりにも祭司が務めを果たさないので、神は異邦人の王の口からすら教えるように命じたのだ。私たちはこの務めを十分果たしているか?もしノンクリスチャンがクリスチャンに対して、「もっと聖書の内容を多くの人に教えてください」と言ったらどうだろう。すごく恥ずかしいことだ。新約の主の祭司である私たちは、すでに信じている人にも、全然信じていない人にも、聖書の内容を教える使命がある。パウロの宣教も祭司としての働きだった。ローマ15:16。この働きを怠ってはならない。どのくらい熱心にすべきか。Ⅱテモテ4:2。御言葉を伝える上で貴く用いられる私たちになろう。
私たちは主の祭司としての務めを忠実に果たしているだろうか?自分は全部できているという人はほとんどいないだろう。それであればどうするべきか?祭司は衣を割くことを禁じられている。衣を割くのではなく、心を割いて悔い改めなければならない。

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