真の安息

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どこにいけば、何をすれば、真の安息が得られるのでしょうか?

真の安息

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【ノート】
すべての人が魂の安息を求めている。心が安らぎ、安心し、満足できる状態を求めている。幸せとはそういうものだ。しかし、ほとんどの人が安息がなんなのか、どこにあるのかを知らない。
遠い南の島に行けば安息を得られるだろうか?そういう息抜きも良いものだ。しかし、南の島からはいつか帰らなければならない。そこに私たちの魂の安息があるなら、私たちは一生のうちのほんの数回の旅行以外の時間は不幸だ。その他のどんな娯楽によっても一時の気晴らし程度の効果しか得られない。

ある人は人間関係の中に安息を求める。心安らぐ人間関係というのは本当に良いものだ。私たちにはそれも必要だ。しかし、残念ながら安らぐ人間関係よりも争いや分裂の絶えない緊張の人間関係の方が多い。そして、良い人間関係を得ることができたとしても、いつかは別れが来る。
お金が捨てるほどあれば安息が得られるか?逆だろう。もちろんお金は大事だ。しかし、それで安息を買うことはできない。栄華を極めたソロモンは金持ちについてこう言っている。コヘレトの言葉5:11。金持ちは不眠症になる。

移り変わるものの中に安息を求めるなら、私たちは裏切られることになる。では、どこに変わることのない安息はあるのか?それは、変わることのない方であり、私たちを造られた方である神の御言葉に尋ねよう。私たちに安息を与えることは神の初めからのプランだった。神は天地創造の6日間ですべての物を造り、人間を造ったあと、7日目に安息された。創世記2:1-3。これが安息日の起源。安息日は聖別された。他の日と違って特別な日とされた。安息日は十戒の中で人間が神にならって仕事を休むように定められている。出エジプト記20:8-11。安息日は何のためにあるのか?神のためでは無い。神には無限の力があるので休む必要はない。イエス・キリストは、「安息日は人間のためにある」と言われた。安息日は人間に必要なのであり、人間の安息のためだ。安息日にすることは単に仕事を休むことではなく、神を礼拝し、神と交わりを持つことだ。神との関係の中に真の安息がある。神に似せて造られた私たちの魂は、神との交わりなしに安らぎを得ることはできない。

天地創造の目的は、安息だった。神は人間との愛の交わりのために世界を創造された。私たちの一週間も神様との礼拝に目的を置くべきだ。多くの人は週末にリフレッシュすることによって、一週間の仕事をしようとする。神の民ももちろん礼拝でリフレッシュしてそれぞれの場所に遣わされるが、そもそも仕事よりも礼拝による安息が一週間の目的なのだ。仕事よりも礼拝に重きを置くのだ。

しかし、安息日は真の安息をもたらすものではなかった。なぜなら、人間が神の命令に背いて罪を犯したことによって、神との交わりが断たれたからだ。人間は神と断絶されてしまった。人間の不幸はこの断絶による。病気、労働の苦しみ、肉体の死はこの断絶によって始まった。家庭や学校、職場での小競り合いから国同士の戦争に至るまであらゆる争いはこの断絶によって始まった。外側で見られる醜い争いは私たちの内側の醜い罪に起因する。私たちの魂は外側の世界と同じように、混沌とした状態、堕落した状態、満たされない状態なのだ。人間の魂は罪の重荷で苦しみ、決して安らぎを得ることができないようになってしまった。罪人は聖なる神の御前に進み出ることはできない。

では、真の安息をもたらすことができない安息日はなぜ定められ、守られることが求められたのか?それはやがて来る真の安息の実体にあずかるようになるためだ。コロサイ2:16-17。真の安息の実体はキリストにある!キリストは、安息を与えるために来た。「疲れた者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とマタイ11:28で言われた。イエス・キリストのもとに行けば魂に安息を得ることが出来る。なぜなら、イエス・キリストは私たちのすべての罪の身代わりに十字架で死なれたからだ。イエス・キリストが罪による神との断絶を取り除いてくださった。私たちはイエス・キリストを通して神との交わりを回復し、魂に安息を得ることができる。それは環境状況を超越した決して変わることのない安息だ。ハレルヤ!イエス・キリストを罪からの救い主として信じて受け入れると、キリストがその人の心の内に住まわれる。キリストは、その人から決して離れず見捨てない。クリスチャンになった人はキリストと共にある新しい人生を始める。その人の内なる喜びは爆発する。その人は自分が人生の中で追い求めていた幸せをとうとう掴んだと悟る。
ユダヤ教徒は安息日である土曜日にシナゴーグに集まる。しかし、クリスチャンはたいていイエス・キリストが復活された日曜日を主日として教会に集まって礼拝する。日曜礼拝は聖書の時代から教会で続いている習慣だ。それは、影である安息日よりも、安息の実体であるキリストが復活した主日の方がもっと特別な日であり、神を礼拝するにふさわしいからだ。

しかし、聖書を読むなら、それが安息のすべてではないということがわかる。ヘブライ4:8-11。神の民には、旧約の安息日とは違う、ヨシュアがもたらしたカナンの地での安息とも違う、完全な安息、すべての労働の苦しみから開放される究極的な安息が残っている。そして、このヘブライ人への手紙はクリスチャンにあてたものなので、クリスチャンもまだこの安息にあずかっておらず、将来あずかることにる。そう、キリストを受け入れると確かに魂の安息を得るが、肉体には相変わらず病気、老い、労働、死といった苦しみがある。将来実現する肉体に至るまでの完全な安息が私たちには約束されている。信仰をもってキリストと共に歩み続けるなら、この安息にあずかることができる。この安息がどのようなもので、どういうふうに実現するかはまず影である旧約の律法を知ることによって浮き彫りになる。安息の掟は安息日だけでなく、他にも2種類ある。安息年とヨベルの年だ。安息年については、レビ25:2-7。安息日とは違い7年ごとに土地に安息を与えるためのもの。これを守るためには信仰が必要だ。7年目に収穫をしなくても神が生かしてくださるという信仰。ヨベルの年はレビ25:8-10。ヨベルとは角笛あるいはラッパという意味。ヨベルの年は安息年よりもさらに大きな50年ごとの周期でやってきた。この年には角笛が吹き鳴らされ、解放が宣言される。売却した土地は元の所有者に返却され、身売りした雇い人は解放されて自由になる。これが字義通りの安息年とヨベルの年の意味だ。

しかし、これらの掟は守られなかった。一週間に一度の安息日すらまともに守られないことが多かったが、安息年はさらに守られず、ヨベルの年に至っては一度も実施されなかった。それは人間の強欲によるもの。礼拝、神様との交わり、神様の掟を守ることを求めることよりも、たくさん働いて物質的に豊かになることを求めて安息日を守らず、安息年を守らなかった。そして、買った土地は絶対手放したくないし、本当は禁止されているのにイスラエルは同胞を雇い人どころか奴隷にしてこき使った。ヨベルの年はないがしろにされてしまった。その年を期待して待っていても解放は起こらないのだ。イスラエルの不従順によってヨベルの年の規定を実行されなかったが、それとは別に神は自らヨベルの年を実行されることにした。イエス・キリストが会堂で語ったとき、ある預言の成就を宣言した。ルカ4:18-21。人々が自由になる主の恵みの年とは、ヨベルの年のことである。イエス・キリストはご自分の到来によってヨベルの年が実現したと宣言した。そのとおりに、イエス・キリストの十字架によって、私たちは罪から解放されて自由になった。

そして、イエス・キリストの再臨のときに、完全な解放がなされる!そのとき、天使のラッパが吹き鳴らされる!私たちは古い肉体による苦しみから解放されて新しい復活の体を手に入れることができる。もはや死も労苦も涙もない!最初のものは過ぎ去ったからである。旧約の安息年は一年間だけだったが、キリストの再臨によって始まる安息は、千年だ。千年王国によって、地は完全な安息を取り戻す。すべてが回復したあと、古い世界は終わりを迎え、新しい天と地に入れ替わる。新天新地での安息は永遠だ。私たちは神と共に住む。私たちはその方を礼拝する幸せを永遠に続けることができる。これが真の安息の完成形だ。そこにあたるまで、私たちはキリストによる魂の安らぎによって強められ、世において信仰による圧倒的な勝利者として歩んでいこう。アーメン。

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