愚かな議論を避ける
【ノート】
議論というのはお互いが自分の主張を押し通そうとするものだ。それでは何かを学ぶということができない。たとえ激しい議論の末、どちらかが相手をこてんぱんに論破したところで、論破された人は納得するだろうか?自分を論破した人の主張を認めるだろうか?認めない!むしろ、自分を論破した人に対して憎しみを抱くだろう。そういう例が聖書に出てくる。使徒6:9-11。キリストを信じない人がステファノに議論をしかけた。ステファノは聖霊の賜物を使って論破した。そうしたら、論破された人々は「ステファノの言う通りだ」と思ったか?逆ギレしてステファノに濡れ衣を着せて殺してしまった。イエス様に敵対した人々もイエス様に議論をしかけて論破された。論破された人々は「イエス様の言うことは正しい」と信じたか?イエス様を十字架につけてしまった。御言葉に反対して議論をしかけるということは、キリストを十字架にかけることに通じることだと認識しなければならない。議論をして良い結果が得られることはまずない。逆に分裂をもたらすことになる。聖書中で最も問題だらけだったのはコリント教会だ。コリントの信徒たちは議論が大好きだった。それで、分派ができていつも争っていて、問題だらけになった。そういう教会には絶対になってはならない。もし誰かが感情的になって議論を始めようとしたら、全員で全力で止めに入ってほしい。
聖書で議論を肯定する箇所は全然ない。Ⅰテモテ1:5-6。清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛、これこそ私たちが目指すもの。議論はという無益だ。無駄だ。やめなさい。Ⅰテモテ6:3-5。主イエス・キリストの健全な御言葉に従わなければならない。異なる教えを説いて議論を起こしてはならない。そこからあらゆる悪いものが出る。Ⅱテモテ2:23。議論をするのは愚かで無知だということをさらけだしている。争いのもととなる!テトス3:9。議論でどちらかが賢いかを決めることはできない。なぜなら議論をする人はどちらも愚か者だからだ。
だから、極力議論は避けなければならない。新約聖書中で議論が必要になったケースはエルサレムの使徒会議の場くらいだ。それは、神の御言葉を信じる者同士が、特定の問題や事柄について何が神の御心であり、真理であるかを明らかにするために行われたものだ。議論が必要になるのは非常に限定的な場合だ。議論をせず、主イエス・キリストの健全な御言葉に従う者となろう。
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