罪の目録

悔い改め
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罪の悔い改めは未信者が救われるためにも、クリスチャンが祝福を受けるため、清められるためにもどうしても必要なこと。Ⅰヨハネ1:7-9。悔い改めればイエス様の血によって清められる。しかし、何が罪であるかが分からなければ、悔い改めようにも悔い改めることができない。そこで、今回は罪の目録を提示する。御自身にとって、特に深刻で、すぐに悔い改めなければならないという罪もあれば、この罪は気を付けているから今のところ大丈夫だという罪もあるだろう。どちらにせよ、しっかりと把握することによって、罪を避けやすくなる。そして、悔い改めるべき罪が一つでも見出されたら悔い改めなければならない。なぜなら、一つと点で落ち度があれば、すべての点について有罪になるからだ。ヤコブ2:10-11。すべての点でパーフェクトでない限り罪なしとは言えない。私たちは99点を目指すのではなく満点を目指す。ほかの人よりも高い点であることで満足するのでなく、完全な模範であるイエス・キリストのようになることを目指す。父なる神のように完全な者となることを目標とする。マタイ5:48。

罪の目録は便宜的に大きく十項目に分類しているが、分類の仕方によってはもっと多くなったり少なくなったりするだろう。また、罪には重い罪と軽い罪、地獄に直結する罪とそうでない罪がある。Ⅰヨハネ5:16。これが致命的な罪なのかどうかという点も意識してお伝えする。

罪の目録

罪の目録1【愛の欠如】

罪の目録1【愛の欠如】

罪の目録2【不信仰】

罪の目録2【不信仰】

罪の目録3【高慢】

罪の目録3【高慢】

罪の目録4【霊的な罪】

罪の目録4【霊的な罪】

罪の目録5【性的な罪】

罪の目録5【性的な罪】

罪の目録6【怠惰】

罪の目録6【怠惰】

罪の目録7【憎しみ】

罪の目録7【憎しみ】

罪の目録8【ねたみ】

罪の目録8【ねたみ】

罪の目録9【貪欲】

罪の目録9【貪欲】

罪の目録10【偽り】

罪の目録10【偽り】

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【ノート】
第一に、愛の欠如の罪。最重要命令は神を愛し、隣人を愛することだ。マタイ22:37-40。これが最も重要な掟であれば、全力を尽くして神を愛さず、隣人を自分のように愛さないことが最悪の罪だということ。愛の欠如が最悪な罪。私たちはすべてのことを、愛を動機として行わなければならない。愛があってこそ初めて律法は全うされる。では、もし愛なしにすばらしいことをしたらどれほどの価値があるのか?Ⅰコリント13:1-3。愛がなければ異言を語ったり、預言を語ったり、あらゆる神秘に精通し、あらゆる神学的知識を豊富に持っていたり、山を動かす信仰の奇跡を行ったり、誇るために殉教したりしても、何の意味もない。愛がなければすべて無価値!では愛とは何か?Ⅰコリント13:4-7。これが愛の定義。愛は聖霊様を通して私たちの心に注がれるもの。神との交わりの中で神の愛をいただくことで、愛に基づいた行動をとることができるようになる。

第二に、不信仰。不信仰とは神の存在や人格を信じないこと。神以上に真実な方はいないのに、神を信じないことは非常に悪い。そして信じていたのに、信じなくなるのはもっと悪い。信仰がなければ、神に喜ばれることは不可能。ヘブライ11:6。まず致命的な不信仰の罪は福音を信じない罪。これは致命的であり、福音を拒絶するなら永遠の破滅だ。Ⅱテサロニケ1:8。ここで福音に聞き従わないと書いてあるが、福音の内容を事実であると同意するだけで、行いの全く伴わない信仰であればその人は救われていない。それは死んだ信仰とみなされる。これも不信仰の罪だ。ヤコブ2:17-19。悪霊と同じ信仰ではだめだ。新生のしるしが見られる生きた信仰を持とう。同様に、異端に陥る罪も正当信仰から外れた不信仰の罪であり、確実に滅びる。異端は聖書とは別のものを聖典として出してきたり、三位一体を否定したり、キリストの神性と人性のどちらかを否定したり、罪を犯しても大丈夫だと言ったりする。Ⅱペトロ2:1-2。御言葉を部分的にしか信じないのも不信仰の罪。Ⅱテモテ3:16。聖書はすべての神の霊の導きにより書かれたのだから、すべて信じなければならない。神の属性を信じないことも不信仰の罪。神の属性について同意していても、実際の生活で神の属性を無視していることは多々ある。神が全能なのに、「祈っても聞かれない」と言ったり、神があらゆる場所に臨在しておられるのに神がおられないかのようにふるまったり、神が義なる方なのに神の裁きを侮る発言をしたりするのは、不信仰の罪だ。イエス・キリストを証ししないことも不信仰の罪。その人は再臨の時に恥ずかしい人とみなされる。マルコ8:38。思い悩みは神を信頼していないことによるので不信仰の罪。Ⅰペトロ5:7。臆病も共におられる神を信頼しないことによる。Ⅱテモテ1:7。感謝をしないことも神がなさったことや良い計画を信じない罪。Ⅰテサロニケ5:18。祈らないことも不信仰。サムエル上12:23。祈りが聞かれないことも不信仰による可能性がある。マタイ17:20。そして、確信に基づかないことはすべて罪。ローマ14:23。

第三に、高慢。高慢とはありのままの姿よりも自分を高く上げることだ。高慢の罪は堕落の引き金になっている。ルシファーは自分が神であるかのように錯覚して堕落した。アダムとエヴァは神のようになりたいと願って堕落した。高慢な者は神の敵だ。ヤコブ4:6。高慢な人は自己義認に陥る。つまり、自分で自分のことを義、完全に正しいものと認めることだ。その人は神からの助けも救いもなしに自分の力で天国を勝ち取ろうとする。だから、非常に努力をするし、有能な人が多い。ただし、神の御前でへりくだることはできない。悔い改めることができない。その人は神の御前で自慢話をし、神ではなく自分を賛美する。ルカ18:11-12。私たちを裁くのは私たちではなく神だ。私たちは自分で勝手に自分を義とするのではなく、信仰によって神から義とされる者となろう。高慢な人は神からのものを自分で獲得したと勘違いする。Ⅰコリント4:7。高慢な人は批判的になる。批判というのは相手よりも自分の方が優れているという思い上がりから来るものだ。批判が高じると聖霊に対する冒涜につながる。マタイ12:31-32。私たちはほかの教会で自分たちのスタイル、経験、知識とは違うムーブメントが起こっているとき、無暗に批判してはならない。高慢な人は自分を神の位置に置くので、他の人を裁くようになる。マタイ7:1-5。これは他の人の罪を一切指摘してはならないということではない。人を悔い改めに導くためには罪を指摘することは必要。相手のためになること以外の目的で人の悪い点を槍玉にあげることは、神の立場を奪う罪だ。高慢な人は自分が一番正しいので、他の人に全然従わない。私たちは過ちを犯しやすい存在なので、相手が誰であろうと、適切な忠告には耳を傾けなければならない。ヤコブ2:19。話してばかりいるメッセンジャーは高慢になりやすい!特に目上の人であれば、神が立てた権威があるので、目上の人に従わないことは、神に対する反逆となってしまう。十戒の中では特に父母を敬えと命じられている。ノンクリスチャンの両親であっても例外ではない。また、教会の指導者に従うことも私たちの益のために必要。ヘブライ13:17。そして、世の中の指導者や世の中の法令についても、順守することは御心に適う。ローマ13:7。もちろん、目上の人が神に背くことを命じるなら、私たちはそれを拒んで神に従うことを選ばなければならない。

第四に、霊的な罪。霊的な罪はすべてが致命的なものだ。霊的な罪は私たちが契約を結んだ神に対する裏切り行為であり、霊的な姦淫だ。そして、たいていの場合、それは悪魔と契約を結ぶ形で行われる。私たちはまずわかりやすい霊的な罪から対処しなければならない。まずは偶像崇拝だ。出エジプト20:2-6。主以外のものを神とすることとその具体的な形として偶像崇拝を禁じている。主は至高の存在。私たちの愛を独占するべきお方。他の宗教の神々を崇拝してはならないし、偶像を大事に持っていてもいけない。偶像崇拝を禁じるのは旧約聖書に多いが、これは当然の前提として新約の民であるクリスチャンも守らなければならない。ヨハネの手紙の最後。Ⅰヨハネ5:21。偶像崇拝は悪魔崇拝。Ⅰコリント10:20。家に偶像あるいはそれに準ずる数珠とか、般若心経とか、お守りとかがあれば、惜しみなく処分しよう。心からも偶像を一掃しよう。私たちが神よりも大事にするものが何かあればそれが人間であれ、物であれ、仕事や趣味であれそれは全部偶像。ある人にとっては牧師や恋人が偶像、ある人にとっては仕事や旅行が偶像、ある人にとってはお金が偶像。聖霊に満たされて主の愛の炎によって心の偶像を全部焼き尽くそう。その他の霊的罪。申命記18:10-11。占い、霊媒、魔術というのは、悪霊どもと深い関わりのあることだ。過去に一度タロット占いをしてもらったことが原因で長年呪いを受けて苦しんだというケースがある。もし少しでもこれらのことに関わったことがあれば、そのことを悔い改めて、悪魔との契約を破棄しなければならない。占いや魔術関連のグッズも全部処分しよう。日本ではテレビをつければ普通に星座占い、動物占い、血液型占いをやっていたり、占い師や霊媒師にスポットライトをあてた番組まであったりするので、注意しないと悪い影響を受けてしまう。もちろん私たちはイエス・キリストの血潮によってサタンの呪いから贖われているので「あれも悪霊!これも悪霊!ああたいへん!」というふうに神経質になりすぎる必要はないが、分別力を持ち、適度な警戒はしておくことが大事。
聖書で具体的にリストアップされていなくても、いたずら半分でどこかの本に書いてあった呪文を唱えたり儀式を行ったりしたことがあるとか、こっくりさんをしたことがあるとか、丑の刻参りをしたとか、何かしら霊的なものと接触した可能性があれば全部悔い改めてイエス様の血潮によって清めていただこう。そして、聖霊充満を求めよう。ただ私たちの心、私たちの家、私たちの人生でお迎えする霊は聖霊様だけ!

第五に、性的な罪。性的な罪はクリスチャンにとっては神殿を汚す罪。Ⅰコリント6:18-19。一番罪を犯している本人が自覚しやすい罪だ。それでいて、抜け出すことが容易ではない。なぜなら、性というのはその人が死ぬまでついて回るからだ。性自体は悪いものではない。人を男と女に造ったのは神だ。神が認めるあり方以外で性的関係を持つことが悪いことなのだ。神が認めている性的関係は男と女の夫婦の間での関係だ。それ以外の性的関係については、すべて姦淫の罪だ。姦淫の罪は多くの場合、旧約の律法に照らすと死刑だ。今までそうと知らずに犯してしまった罪があれば、あなたの罪の代わりにイエス・キリストが死刑になってくださった。悔い改めてもう罪を犯すことのないようにしよう。死刑となる性的罪が列挙。レビ記20:10-16。結婚前の性的関係も死刑。申命記22:20-21。こういう罪を一度も犯したことがないという人は立派だが、イエス・キリストが掲げる基準はもっと高い。マタイ5:27-28。このことを避けることは不可能ではない。イエス・キリストの教会では、兄弟姉妹として清らかな交わりを持つことができる点が魅力。神様は御自分がお定めになった結婚という制度にこだわっておられる。これはキリスト御自身も花嫁なる教会と結婚することになるくらい、結婚は重要。結婚相手は独身の異性であれば誰でもいいのかというとそうではない。相手はクリスチャンに限られる。Ⅰコリント7:39。旧約聖書では、異邦人との結婚が禁じられていたにもかかわらず、イスラエルの民が異邦人と結婚してしまったことで、偶像崇拝の罪が入ってきた。洪水の前、ソロモン、エズラとネヘミヤの時代に見られる。同じように、ノンクリスチャンと結婚することで信仰を失ってしまうこと、子供が信仰を持つことができないこと、そうでなくとも全然価値観が合わずに苦労することが多々ある。ただし、クリスチャンになる前にクリスチャンでない人と結婚したとか、だめだと知らずにあるいはだめだとわかっていてノンクリスチャンと結婚したという場合は、別れるべきではない。Ⅰコリント7:10-16。この非常に具体的なガイドラインに従わなければならない。
罪は私たちを不幸にする!神との交わりを妨げる!悔い改めて神に従うことは私たちを幸せにする!

第六に、怠惰。怠惰というのは、神から与えられている賜物を用いないこと。私たちは神から時間とチャンスを与えていただき、能力を与えていただき、人間関係を与えていただき、お金や物を与えていただいている。それらは神と隣人に仕えるために与えられているものだ。怠惰な人は、豊かに恵まれていながら、何もしない。何もしないことがそんなに悪いことなのか?ものすごく悪いことだ。マタイによる福音書25章はイエス様が最後の審判について三連続でたとえ話を語られた箇所だ。私たちもいずれ神の法廷に立つ。すべてのたとえ話では、天の報いが与えられるグループと厳しい罰を宣告されるグループが出てくる。悪い人々は全部怠惰な人だ!怠惰であることが裁きの座で最も責められる!十人のおとめのたとえ。マタイ25:3。十人のおとめのうち、愚かな五人のおとめは、油の用意を怠った。油とは、聖霊様を意味する。日ごろから祈りと賛美を通して聖霊様による親しい交わりを持つこと、それによって聖霊様の九つの実、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を結ぶこと、これを怠けてはならない。日ごろから忠実に、神様との親密な交わりをしていなければならない。これがほかのすべてのことを熱心にするための土台だ。もし自分の力で御言葉を行おうとするなら燃え尽きてしまうが、油注がれて行うなら燃え続ける。あなたは神との交わりを豊かに持っているか?いざというときに、油を分けてくださいと言っても、誰も分けてくれない。誰もあなたのために神様と交わりを持つことはできないし、誰もあなたのために聖霊の実を結ぶことができない。いざというときに、ご主人様、開けてくださいと言っても「わたしはお前たちを知らない」と言われてしまう。神様と交わりに全然興味がないという人に対しては、神様も冷たい態度をとるのが当然だ。
タラントンのたとえ。1タラントン預かった僕はタラントンを運用するのを怠って、土に埋めてしまった!タラントンとは6000万円くらいの大金のことだが、才能という意味もある。私たちは持ち物や才能を忠実な管理者として主人である神のために使うことが期待されて与えられている。僕が期待を裏切ったのはなぜか?主人の評価はどうか?マタイ25:24-26。僕がタラントンを運用するのを怠ったのは、主人をいじわるな人物だと誤解していたからだ。確かに主人は厳しい方に違いないが、いじわるな人物なら6000万円もの大金を信頼して託してくれるはずない!主人のその僕に対する評価は、「怠け者の悪い僕だ!」怠け者であることは非常に悪いことなのだ。主なる神を正しく知らないなら怠け者の悪い僕になってしまう恐れがある。日々忠実に祈りと御言葉を通して主を知り、持っているものを最大限生かして神の栄光を現す者となろう。
最後は羊と山羊。山羊とみなされた人々がイエス様に裁かれるのは、最も小さい者の一人に良いことをするのを怠ける罪を犯した。多くの人が見向きもしないような部類の人々にする良いことをしなかったら、イエス様にしなかったことと同じ。それゆえ裁きがくだる。マタイ25:41-43。山羊に分類された人々は神を冒涜したとか、何か特別な犯罪をしたから地獄に落ちるのではなく、良いことを怠けたから落ちる。終わりの時を思うとき、怠惰を戒めることができる。「目を覚ましていなさい」という命令が新約聖書に何度も出てくるが、それを読む度に「終わりに備えて霊的に怠惰な生活を悔い改めなさい」という警告として受けとろう。
なすべき善を行わないことは罪だ。ヤコブ4:17。御言葉によって命じられていることを知ったらすべて行わなければならない。働く能力と機会があるのに、働かないことも怠惰の罪。Ⅱテサロニケ3:10。
全力を尽くさないこと、熱心でないことも怠惰だ。聖書全体を貫いているのは、尽くすこと、熱心であること、励むこと、精を出すことだ。なまぬるいラオディキア教会の人々にイエス様は悔い改めを求めると共になんと言われたか。黙示録3:19。熱心に努める!それが悔い改めた人の特徴だ。怠惰を乗り越えるにはどうしたらいいのか。ヘブライ6:12。良い模範に倣うこと!

第七に、憎しみ。憎しみはサタンの行動原理であって、憎しみを持つ人は簡単にサタンの操り人形になってしまう。憎しみはその人を奴隷にしてしまうのだ。憎しみは憎む相手が不幸になることを願うが、実際には憎しみを抱く人自身が最も不幸になってしまう。イエス様は私たちの罪をすべて赦してくださった。私たちも憎しみをすてて、すべての人を赦さなければならない。私たちが敵対してよいのはサタンだけ。もし人を赦さず、あえて憎しみ続けようとするなら、その人は十字架の御業を否定しているのだから、天国に行けなくなる恐れがある。マタイ6:14。これは主の祈りの後にイエス様が説明されたことだ。「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」赦さないなら赦されない。もし一人でも赦していない人がいたら、今すぐその人に対するゆるしを宣言することをおすすめする。憎しみを捨てて、自由になろう。
特に怒りの感情を持つとき、人間は「自分が相手に対して怒ることは正当な権利がある!」というふうに思いがちだ。正しく怒っている。義憤だと思うのだ。そうか?ヤコブ1:20。正しい怒りなんて幻想!だから、極力怒らないようにしよう。では、怒ったら即罪なのかというと、セーフな場合もある。エフェソ4:26。怒りをそのままにしておくと憎しみに発展し、罪となる。そうならないよう、その日のうちにゆるしを宣言して怒りを手放す。
殺人も憎しみから生まれる罪だ。殺人まで行かなくても口で相手を攻撃したり怒ったりするだけでも罪。マタイ5:21-22。特に口での攻撃についていえば、陰口に気をつけなければならない。ローマ1:29。陰口は共同体を破壊してしまう。陰口というのは他の人の評判を本人のいないところで貶めてしまう。影で相手の評判を殺してしまうという意味で、暗殺に等しい。もし、誰かが陰口を言い始めたら、調子を合わせるのではなく、止めなければならない。では、ほかの人からひどいことをされたらどうすればいいのか?主が命じられたのは一切復讐せず、むしろ相手を愛し、祈ることだ。マタイ5:39,44。善によって悪に打ち勝つのがクリスチャンのやり方。
争いを集団単位でさせるのが党派心。キリストの愛は全人類に対するもの。だから、党派心によってその対象を狭めて、ほかの派閥と敵対してはならない。コリント教会がこの問題をかかえて分裂してしまった。Ⅰコリント1:12。教会には様々な教派がある。考え方がいろいろあることは非常によいことだ。しかし、もし同じキリストの体でありながら、教派が違うというだけで喧嘩をしてしまうのであれば、悔い改めなければならない。違う教派の人を尊重できるかが試される。キリストの十字架を見上げてすべての人と愛と平和の関係を持つ私たちとなろう。

第八に、ねたみ。ねたみは優れた相手を悪く思うこと。ねたみが原因の罪は広く見られる。自分よりも誰かが幸せになること、注目されること、愛されること、優遇されることに我慢ならない!カインにアベルを殺させたのは妬みだった。弟アベルの献げ物だけが受け入れられたことをねたんでアベルを殺した。サウルにダビデを殺させようとしたのも妬みだった。「サウルは千をうち、ダビデは万をうった」と歌うのを聞いて、ねたみが燃え上がった。ユダヤ人たちが使徒たちを迫害したのもねたみによるものだった。人々の注目が使徒たちに移ってしまったからだ。イエス・キリストを十字架につけたのは宗教指導者たちのねたみだった。それは異邦人のピラトにすらわかるくらい、あからさまなものだった。マタイ27:18。ねたみは最悪な罪に手を染めさせるまで私たちを暴走させうるのだ。ねたみを抱く相手は、優れている相手だ。相手は悪くない。悪いのは全面的にねたみを抱く本人だ。あなたはほかの人をねたむことがあるか?
自分にねたみがあるかないか簡単に知る方法がある。ローマ12:15。喜ぶ人と共に喜べないなら、それはねたみによるものだ。合格、就職、結婚、出世など、他人の成功や幸福を心から祝福しよう。優れた人を憎むのではなく、その人を尊敬しその人から学ぶものとなろう。
ねたみを抱く限りは、私たちは絶対に幸せになれない。私たちは神ではないのだから、みんな一長一短ある。他人と比較すれば必ずねたましい相手が出てくる。ねたみによって台無しになる。私たちは他人と比較するのではなく、まずは神からユニークに創造されている作品だということを知らなければならない。私には私にしかない味があるのだ。私に与えられているものは、私の固有の役割を果たすためのものだ。そして、自分がねたむほど神から愛されていることを知ること。ヤコブ4:5。愛には当然ねたみが伴う。愛するがゆえのねたみは罪ではない。神の愛に満たされて生きるなら、ねたみはなくなる。すでにこの上ない宝を持っているからだ。逆に人々があなたの姿を見てねたみ、あなたのようになりたいと思うようになるだろう。そのように、ねたみがきっかけでイエス・キリストを信じることはある。ローマ11:14。

第九に、貪欲。自分の必要なものを欲することは罪ではない。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」というふうに祈るよう、主は命じておられる。主はこの祈りに答え、必要なものを与えてくださる。貪欲というのは、不要なものまで求めて、それが得られないと不満を爆発させるもの。イスラエルが出エジプトしたあと、神はマナをふらせてイスラエルを毎日養った。日用の糧を与えてくださった。ところが、イスラエルは「肉が食べたい!」と大声で不満をいった。イスラエルが生きていくにはマナだけで十分だったのに、貪欲に肉を欲しがった。神は彼らの願いに答えて、肉を与えた。ところが、彼らは肉について神に感謝せず、肉に飛びついてそれをむさぼり続けた。そこで、神は彼らをうたれた。民数記11:33-34。貪欲な人はこのように滅ぼされる。貪欲な人の特徴はいつも不満なこと。何をもってしても貪欲を満足されることはできない。与えても常にもっとほしいというからだ。その不満が高じることで争いが起こる。ヤコブ4:1-3。貪欲は戦って奪い取ってまでも欲望を満たそうとする。戦争はたいてい貪欲の罪によって起こる。十戒のうち、第8の戒めの「盗んではならない」と第10の戒めの「隣人の家を欲してはならない」は貪欲の対する具体的な禁止。貪欲は掟によって抑制しなければ盗んだり奪ったりする。
貪欲は見えるものに依り頼むことで、信仰を後退させる。この世のものに対する執着によって、御国への希望を衰えさせる。世に対する愛によって、神への愛をなくしてしまう。貪欲はいつまでも残る信仰と希望と愛を滅ぼして、残らないものばかりを求めさせるのだ。Ⅰヨハネ2:15-17。貪欲は偶像崇拝に通じる。貪欲な人はこの世のものを神よりも愛するからだ。コロサイ3:5。貪欲は私たちの関心もエネルギーも全部つまらないことに浪費させてしまう。だから、イエス様は貪欲には用心するように言われた。ルカ12:15。私たちの命を左右するのはどなたか?神だ。神こそが肉体の命と霊的な命を左右する。貪欲は物を豊かに持つことで安心を得ようとするが、失敗する。私たちは神が与えてくださる命に満たされることで貪欲を制することができる。ヨハネ6:35。

第十に、偽り。神を信じることができないという人がいるが、神は信頼できるお方。信頼に値しないのは多くの場合、そのように言う当人の方だ。罪人は嘘をつく。嘘つきの父は誰か?ヨハネ8:44。嘘を平気でつくなら、悪魔を父としていることになる。神は真実な方であり、嘘偽りが大っ嫌い。十戒の第9の戒めでも「偽証してはならない」と命じられている。裁判の席ではもちろんのこと、ふだんのコミュニケーションの中でも噓偽りはいけない。コロサイ3:9。単なる嘘のほかに人間にはどんな偽りの罪が入り込む可能性があるのか?まずあからさまなケースとしては詐欺。人をだまして金銭をかすめとる。Ⅱテモテ3:13。詐欺師は自分も悪魔やほかの詐欺師にだまされている。だましあいによってますます悪に増幅してしまう。偽善も偽りの罪だ。偽善というのは、自分の罪深い性質を隠して、うわべだけ善人らしく装うこと。
イエス様から最も厳しく非難されたのはファリサイ派。マタイ23:27-28。ファリサイ派の人々が大衆の目の前で祈ったり、施しをしたりして、さも敬虔であるかのように見せつけながらも、内側が不法で満ちていた。罪を犯しているのに、罪を犯していないふりをしてはならない。Ⅰヨハネ1:8。
約束を破ることも不誠実であって、偽りの罪。もちろん、最初から破るつもりで約束をするわけではないかもしれない。約束を守ろうと努力しても、能力が及ばなかったり、状況が変化したりしたことで、結果的に守れないこともある。それでも、真実ではない言葉を口にしたには違いない。神に対してした約束、人に対してした約束で、守っていないことがないか?もしあれば悔い改めよう。今からでも、果たせるなら、果たそう。
人間はお互い、自分たちが全く信頼できないということを知っている。だからこそ、後で欺かれてしまわないように、何らかの契約をするときは、びっしりと文字で埋め尽くされた契約書にサインする。また、人は誓いをする。普通に語る言葉では信頼できないので、誓いによって言葉の重みを増すようにする。日本でも、裁判では、証人が嘘偽りを語らないことを宣誓しなければならない。これは偽証人の存在を前提としている。イエス様は誓いについて何と言われたか?マタイ5:33-37。これは誓いが必要ないくらい誠実さを認められる人格を持ちなさいということ。主はそのような人格を持っておられる。黙示録19:11。主は真実、誠実。この方のように、嘘偽りを捨てて、誠実に歩む私たちになろう。

罪の目録によって、何かしらの罪が示された方、いま悔い改めよう。その罪があなたの重荷であり、あなたを不幸にしている。悪魔を喜ばせ、神を悲しませている。それを思い切って捨て去ろう。

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