どのように悔い改めればよいのか?

悔い改め
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悔い改めには、たいてい預言者が必要です。

どのように悔い改めればよいのか?

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【ノート】
悔い改めは罪によってせき止められてしまっている神からの祝福をいただくことができるようにする。私たちは悔い改めによって救われ、悔い改めによってブレイクスルーを体験することができる。しかし、多くの人はなかなかそうしようとしない。クリスチャンではない人はクリスチャンになろうとしないし、クリスチャンは新約聖書にある超自然的な力強いクリスチャンライフを体験しようとしない。その最たる原因は、悔い改めを説く預言者がいないからだろう。御言葉を語る人は耳障りのいい言葉ばかり説いて、神の怒りや来るべき恐ろしい裁きについてはなかなか語ろうとしない。「いや、そういうものは旧約聖書の話であって、いまは恵みの時代だから必要ないのではないか?」そう考える人は甘いメッセージにどっぷりつかってしまっている人だ。恵みについて一番多くのことを説いた使徒は誰だったか?もちろん使徒パウロだろう。では、使徒パウロは信仰について未信者の人から尋ねられたときにどう答えただろうか?使徒24:24-25。正義や節制や来るべき裁き!これが恵みを説いた使徒が語った信仰についての話だ。私たちは信仰者として正義や節制や来るべき裁きに思いを向けなければならない。より正しく生きる!より世のことを自制する!審判のときに神から与えられる私の人生についての評価を意識するのだ。

多くの人は悔い改めの必要性を全然認識していないし、悔い改める方法もわからない。だから、預言者が刺し通すようなメッセージをしないと人々は霊的な昏睡状態から目覚めることができないのだ。預言者マラキのメッセージを聞いている人々がそうだった。マラキのメッセージを聞いたイスラエルの人々は、マラキの口から出てくる神の御言葉に対して誰一人アーメン!と言わなかった。マラキは様々な事柄について神の御言葉を語ったが、誰一人、一度もアーメンと言わなかった。マラキの口から出てくる神の御言葉を聞いて、アーメンではなく「え?どゆこと?」となった。マラキ1:2。マラキ2:17。マラキ3:7。彼らは異邦人ではなく神の民であるイスラエルだ。彼らは御言葉を聞いても全然ピンとこなかった!なんのことかわからなかったので聞き返してしまった!神の民の心は神の御心から大きく離れていた!霊的イスラエルである教会のクリスチャンたちもそうかもしれない。私たちは認めなければならない。もし私たちが悔い改めようとしていないとしたら、それは多くの場合、私たちが悔い改めのいらないくらい完璧だからではない。もしかしたらあなたはすでに完全な人になっているかもしれない。しかし、多くの人が悔い改めとしないのは、神の御心を全然わかっていないからだ。どう悔い改めればいいのかも皆目見当もつかない。霊的ににぶくて暗いからこそ、何をどう悔い改めていいのかわからないのだ。悔い改めるためには、神の御心がわかるようにならなければならない。それで初めてスタートラインに立つことができる。

私たちは良心を持っている。しかし、良心というのは神ではない。良心は欺く、間違う!私たちの良心と神の基準は違う!良心の呵責がなければ罪がないということではない。善悪の判断をするというのは、実はものすごく難しいことなのだ。ヘブライ人への手紙には、善悪の判断ができるのは大人だと書いてある。ヘブライ5:11-14。ヘブライ人への手紙の受け取り手たちは決して新米のクリスチャンではなかった。もう御言葉の教師になることが期待されるくらいに信仰歴の長い人々だった。にもかかわらず、耳が鈍くなっているとある。あまりにも霊的な耳が鈍かったので、その人たちに理解させることは容易なことではなかった。彼らは優れた教師たちに恵まれていた。しかし、彼らは聞いているようで一向に悟らずに初歩の教えを何度もやりなおさなければならない始末だった。御言葉の初歩の教えである「乳」を必要とする霊的な幼子と書いてある。初代教会の使徒や預言者たちに囲まれていたクリスチャンたちですら長年霊的な幼子だったとすれば、現代のクリスチャンの多くも霊的な幼子だろう。ほとんどのクリスチャンは霊的な幼子のまま一生を終えてしまうかもしれない。それはあまりにも残念なことだ!人は成長することが期待されている。一生涯子供のままの人がいたら、それはおかしい!神の御心ではない!
私たちはぜひとも14節にある固い食物を食べることのできる善悪を見分ける感覚を訓練された一人前の大人のクリスチャンとなろう。固い食物とは何なのか?それは13節に書いてある義の言葉であり、私たちの目的、思考、行動を神の御心に合わせることを意味する。神の御心がわかり、神の御心を心として生きていくことができるということ。
問題点とゴールはわかった。問題点は、多くの人が神の御心から大きくかけ離れているにもかかわらず、自分で気づいてすらいないくらい鈍い。霊的な心は覆われ、霊的な目はふさがれ、霊的な耳はにぶい。具体的には、ゴールは神の御心を心とし、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された一人前のキリストにある大人のクリスチャンになることだ。では、そこに至るまでのプロセスは・・・?それが「これだ。これだけをすれば魔法のようにあっというまにうまくいく」というものではないからこそ苦労する。もちろん、御言葉に則って、この方法が有効だという方法はあるが、機械的にこなせばいいというものではない。私たちは神の御心を心とするには、悪戦苦闘することを覚悟しなければならない。

第一に、聖書の御言葉を毎日読もう。聖書は神の言葉だ。当然ながら、聖書には神の御心が満ちている。その聖書を毎日読むことは、神の御心を知る近道だ。聖書は黙読することもできる。しかし、聖書自体で推奨されている読み方は朗読、声に出して読むことだ。黙示録1:3。黙読は目から入る情報に限られる。朗読するなら、口と耳も使う。私たちの口で宣言し、耳にも御言葉が入ってくる。そうすることによってふさがれてしまった霊的な目とにぶくなってしまった霊的な耳の両方を開き、口を清めることができる。目と耳の両方から御言葉を心に納める。そして、読むときはいつものルーティンワークと思わずに、心を尽くして、御心を求めて読まなければならない。詩編119:2。そうすれば、何十回読んだとしてもいつも新鮮な発見をすることができるだろう。こんなことが書いてあったのか!そういう発見をするとき私は嬉しくなる。賛美しながら踊りながらメッセージを書いていることよくある。では、どのくらい読めばいいのか?できるだけたくさん読むことをおすすめする。まずは御自身で何章あるいは何ページ読むというように決めて、毎日読んでみる。それから徐々に読む量を多くして、自分に合う長さを読むようにすることをおすすめする。

第二に、預言者の言葉を聞こう。つまり、聖書のメッセージを聞くことだ。メッセージを聞くことによって、自分で聖書を読むだけでは悟ることができないことを悟れる。私たちが常にへりくだってよく心得なければならないのは、私たちの中には、霊的なエリートであって、自分にまず真っ先に神の御心が示されるとか、自分には全部の神の御心が示されるという人は誰もいないということだ。これは新約時代の特徴だ。使徒2:17。誰にでも啓示は豊かに与えられ、子供が語る預言からも神の恵みを豊かに受けることができる。その人が牧師だろうが、預言者であろうが、使徒であろうが、神の御心は自分以外の人に示されることが良くあるのだ!むしろ、その方が圧倒的に多い!もし「私は聖書をよくわかっているので、誰からも教えを受ける必要はない」と思っている人がいたら、とんでもない高慢の罪に毒されていることを知らなければならない。ほかの人のメッセージを聞くなら、そこには私の知らない世界が広がっている。私が全然気づくことのできない神の御心をメッセージで示される!いまは特にインターネットによって世界中の人々のメッセージを聞く機会に恵まれている。その機会を活かして神の御心を知る者となろう。

第三に、血潮の12の宣言をしよう。イエス・キリストの血潮は私たちが霊的に大人のクリスチャンになる上で非常に有益だ。血潮の12の宣言の内容はすべて御言葉の約束に基づいている。たとえばヘブライ9:14はピンポイント。信仰をもって神の約束を宣言することは預言に等しいことであり、大きな力を発揮する。また、宣言することによって私たちの心を強め、刷新する効果もある。心を完全に変えるために毎日するとよい。血潮の12の宣言をする。
1.イエス様の血潮はサタンの支配から私を贖いました。2.イエス様の血潮は全ての呪いから私を贖いました。3.イエス様の血潮は私のために永遠の契約を成し遂げてくださいました。
4.イエス様の血潮は私を父なる神、すべての人々、すべての被造物と和解させ、平安をくださいました。5.イエス様の血潮は私のすべての罪を赦してくださいました。6.イエス様の血潮はすべての罪から私をきよめます。7.イエス様の血潮は罪に定める全てのことから私を弁護し、私に敵対するサタンの訴えを無効化し、今まで一度も罪を犯さなかったかのように私を義と認められます。8.イエス様の血潮は主のものとするために私をきよめ、主に献身する者として私を聖別します。9.イエス様の血潮は死んだ行いから私の良心をきよめ、生ける神に仕えることができるようにされました。10.イエス様の血潮は聖なる神に仕えるために、私をまことの聖所に入らせます。11.イエス様の血潮は私がサタンとその全ての力に打ち勝つようにさせます。12.イエス様の血潮は私の永遠に続く喜びの源です。
第四に、祈ろう。祈りは神と話すこと。人と話していれば相手が何を考えているかだんだんわかる。同じように、神と話していると神の御心がだんだんわかってくる。私たちは神に祈りの中で何かを尋ねるとき、その答えが返ってくることを期待しなければならない。そうでなければ信仰をもって祈っているとはいえない。神は物を言わない偶像とは違うのだ。Ⅰコリント12:2。私も初代クリスチャン。言ってみれば信仰のアブラハムだ。昔は、よくわからないで物を言わない偶像を拝んで罪を犯したことがあった。私が偶像の前に行ったとき、偶像が何かを話したことは一度もない。しかし、主なる神は語られる!私たちは神からの返答を期待できる!聖書を読むなら、祈りの中で神とクリスチャンとの間に会話が成立していることを見ることができる。もちろん、何もかも答えが返ってくることはないだろうが、やってみると結構答えが返ってくることに気づく。その答えというのは、はっきりと御声を聞くこととは限らない。祈っていると映像が思い浮かぶこともあるし、声は聞こえなくても心に何かをするように示されることもなる。もしどのように悔い改めればいいかわからないときは、「主よ、私が従順しなければならないことは何でしょうか?私が悔い改めなければならないことは何でしょうか?」と祈る。そうすれば、神はすべきことを示してくださるだろう。

第五に、イエス・キリストから目を離さないようにしよう。イエス・キリストがいつも父なる神の御心を知り、それを行うことができたのは、父なる神をいつもご覧になっていたからだ。ヨハネ5:19。イエス様は霊の目でご覧になり、父なる神がなさる通りに行動された。同じように、私たちは霊の目でイエス・キリストを見つめ、キリストに倣って歩む。「これが私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と神から指定されているのはイエス・キリストだからだ。そしてイエス・キリストを見る者は父なる神を見る。マタイ6:22-23。ここでの澄んだ目とは、イエス・キリストだけを見つめる目のことだ。イエス様ならこのときどうするか、イエス様はいまどう感じておられるか、確認しながら歩む。濁った目にならないように、イエス・キリストに集中できなくするものがあれば、除外しなければならない。テレビやスマートフォンが私たちの目を完全に奪ってしまうなら、私たちは時にすべてをシャットダウンしてイエス・キリストを見るように訓練しなければならない。
第六に、従順しよう。神から示されたことを従順することは神の御心を行うことだ。そして、従順すれば、神の御心をより深く知ることができる。ああ、だから神はこのことを望んでおられたのか!そのことに気づいて、自分の心が神の御心に大きく近づくことを経験するようになる。従順する者に対して、誘惑する者は逃げていく。ヤコブ4:7。私たちは一つの勝利をここで経験することになる。全然従順しない者には、神が新たに命令を与えることがなくなっていく。命令を与えてもどうせ従順しないからだ。従順する者に対しては、神はより高いレベルでの従順を要求される。そのようにして、私たちの善悪の判断は神の基準に等しい者となっていく。私たちは神の御心を心とする霊的な大人のクリスチャンとなることができるのだ。このメッセージの中で何か示されることがあれば一つでも取り組むことを始めることをおすすめする。いま、そのことを決断しよう。

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