あなたの一生涯を背負おう

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【ノート】
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」徳川家康の遺訓の一部だ。家康はそれを覚悟して我慢するのが大事だという。これは非常にあたっている。私たちは生まれてからこの世を去る日まで、いろいろなものを背負い込んで生きている。人生は確かに山積みの重荷を背負って長い道のりを歩くようなもの。苦労の連続だということ。しかも、重荷は日毎に増していく。

経済という重荷がある。生きるために必要な家賃や家のローン、食費、学費、医療費の支払をしなければならない、そのために十分な収入を得なければならないというプレッシャーは常についてまわる。お金持ちになっても今度は従業員に払う給料や税金のことや収入の維持や失ってしまわないようにするための対策などのプレッシャーを新たに抱えることになる。
人間関係という重荷がある。ほかの人というのは、自分と気の合う人ばかりではない。どうしてもそりがあわない人、相性が悪い人は必ずいる。中には自分を目の敵にしてくる人もいる。そういう人との付き合いを避けることができればいいが、どうしても自分が行かなければならない場所、家や学校や職場にいたら避けられない。その人と顔を合わせると思うだけで毎日が暗澹たるものとならざるを得ない。また、親しい友人や恋人ができたとしても、突然裏切られたり仲たがいしたりして大きな痛みを経験することもある。

肉体という重荷がある。イエス様は「心は燃えても肉体は弱い」と言われた。私たちの体は生まれつきの不自由さがあって、したいと思うことを何でもできるわけではない。そのうえ重い病気にかかったり、怪我をしたりすることもある。何もなくても老化し、あちこちが弱くなる。当たり前にできたことがどんどんできなくなる。仕事にも、人間関係にも支障が出る。肉体の重荷はそれだけにとどまらず、経済の重荷、人間関係の重荷にまでつながるのだ。そして、苦労して生きながらえても結局最後にはみんな死んでしまう。

日本人は家康の遺訓のように、よく苦しい状況に我慢している人が多い。しかし、いくら我慢しろと言われても人間の我慢には限界がある。苦しいと感じる状況に、ずっと耐え続けることはできない。2020年版自殺対策白書によると、2009年から2019年までの中高年の自殺理由の5割は健康問題、3割は経済問題だ。また、後期高齢者では家庭問題、女性では夫婦関係の不和が多い。つまり、肉体、経済、人間関係の重荷が人を押しつぶし、死にまで追いやってしまうのだ。

それで私たちはこういう重荷を担っていけるように、様々な人の助けを借りて生きている。子供のころは、親から養われないと生きていくことができない。しかし、親はいつまでも面倒みてくれるものではなく、私たちは自立していかなければならない。そして途中で立場が逆転し、子供が親の介護をしなければならないときがくる。友人や家族やメンターの助けを借りることもある。しかし、彼らとて私たちの抱えている重荷を全面的に解決できるほどの能力があるわけではない。そこまで人に自分の重荷を負わせることはできない。それでも、こういう重荷から何とか抜け出したい。そこで宗教や哲学などに救いを求める。それは当然のことであって、恥ずかしいことではない。人間は弱い。誰もが一生涯より頼むことができるものを必要としている。

ところが、宗教や哲学も、多くの場合新たな重荷になるだけなのだ。うんざりさせられるのだ。イザヤのバビロン滅亡の預言にそのことを見ることができる。イザヤ46:1-2。
ベルとネボは両方バビロンの偶像だ。「ベル」はバビロンの主神マルドゥクのヘブル名。このマルドゥクはダニエルたちが礼拝するのを拒んだ神であって、「ネボ」は「ベル」の息子だ。バビロンは強大な帝国を築いて、自分たちの神々こそほかの神々よりも最も優れていると信じていた。ところが、ペルシアのキュロスによってバビロン帝国は滅ぼされてしまった。命からがらバビロンを逃げ出した人々にとって、偶像が重荷となった。偶像は木や石や金属でできていたのでかなり重い。しかも主神の偶像であれば大きかっただろう。たとえば、ネブカドネツァル王がドラの平野に立てた像は高さ30mもあった。そういう重くてどでかい像を運ぶのは大変だ。偶像が国を守ってくれなかったので国が戦争で負けた。ただでさえ役立たずの偶像。逃げるときにそれを運ばなければならず、足手まといにまでなる!それで疲れた家畜に背負わせたが、家畜たちにも重荷となり、動けなくなる。それで、みんな逃げ遅れてとらわれて捕虜となってしまう。世の宗教や哲学はこの偶像たちのように重荷となる。「あれをしてはならない、これをしなければならない」という宗教的な義務を山ほど負わされるだけで、肝心なときには救ってくれず、逆に命取りになる。役に立たない。「私は何も信じていない。無宗教だ」という人も何等かのポリシー、何らかの考え方を持っている。それらも含めて私たちの重荷になるばかりだ。

では、私たちは何に救いを求めればよいのか?背負わなければならない重荷となる偶像ではなく、生きておられる神に救いを求めればよい。主なる神は逆に私たちを背負ってくださる!神は神の民、つまり私たちに対して語り掛け、御自分こそが重荷から私たちを救ってくださる方であることを呼び掛ける。私たちが頼んだのではなく、神の方から私たちに約束してくださった。イザヤ46:3-4。新改訳では胎内にいるときからになわれており、生まれる前から運ばれた者よとなっている。主は私たちの弱さを一生涯背負ってくださる。人生の最初から最後まで、一生涯責任を持ってくださる。胎内で、まだ存在する前から、年老いて白髪になるまで背負ってくださる。イギリスの福祉政策でゆりかごから墓場までというスローガンがある。救いの選びと永遠の命という点からすれば、主はそれ以上に、永遠の昔から永遠の未来に渡って面倒を見てくださる。原語のヘブライ語4節を見ると、「わたし」という意味の「アニー」という人称代名詞が5回も出てくる。主は私たち背負うことを天使にまかせず、主自らがずっとつきっきりでお一人でしてくださる。主は私たちにとって唯一無二の頼れるお方。

主は私たちの経済の重荷を担ってくださる。主は御自分に従う人を養ってくださる。詩編37:25。主は御自分に従う人の必要をご存知で、惜しまず与えてくださる。マタイ6:31-32。主が必要なものを与えてくださるので、私たちは経済のことで思い悩む必要がない。
主は私たちの人間関係の重荷を担ってくださる。主イエス・キリストの十字架は相容れない人々をも和解させる力がある。エフェソ2:14-16。犬猿の仲だったユダヤ人と異邦人すら十字架のもとで一つになった。あらゆる被造物との和解が可能だ。
主は私たちの肉体の重荷を担ってくださる。イザヤ53:4-5。主イエス・キリストの十字架は私たちの病、痛みを負ってくださったものだ。肉体の苦しみは主御自身が同じように苦しんで、同情してくださる。慰めてくださる。主が肉体の弱さを別のもので埋め合わせてくださる。
そして、主はここで約束されているように私たちを癒してくださる。すでに十字架の御業は成し遂げられた。それを信仰によって受け取るなら癒しが私たちのものとなる。

何よりもすばらしいのは、主が私たちの罪の重荷を背負ってくださることだ。罪こそが経済、人間関係、肉体、宗教などのすべての重荷の根源だ。罪からあらゆる苦しみ、あらゆる呪いが始まった。主イエス・キリストは十字架で私たちを押しつぶそうとするすべての罪の重荷を身代わりに背負い、死んでくださった。その結果、私たちはあらゆる重荷から解放されて自由になることができるようになった。その十字架による救いの恵みは一生涯、私たちのものだ。主は私たちの重荷をずっと背負い続け、私たち自身を背負ってくださる。詩編55:23。主に私たちの重荷をゆだねよう。主に私たちの身をゆだねよう。まだイエス・キリストを受け入れたことがなく、重荷をおろしたい、主に背負っていただきたいという方は、今、イエス・キリストを心にお迎えすることをおすすめする。

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