神の計画を信じる

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計画を立てるのは、それだけ真剣だからです。

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【ノート】
あなたは計画性がある方か?あなたは計画を立てて生きているか?計画を立てることは良いことであり、ある程度必要なこと。何の計画を立てなくても、ある程度は通用する。つまり、その場しのぎの一時的なことはできる。何の計画も持っていない人であっても、誰かからの指示や本能的な欲求で動くことはできる。また、計画というのではなく、いつもの習慣でルーティンでほぼ自動的にこなせてしまうこともある。計画がなくても、行き当たりばったりでもなんとかなるにはなるのだ。しかし、計画がない人というのは、主体的な行動をすることはできない。ということは他の人に指示を出してリーダーシップをとることは絶対にできない。そして、お決まりの行動をとることはできても、新しいことに挑戦したり、何か特別なことをしたりすることはできないのだ。さらには、その場限りのことを考えるだけで良ければまだしも、試験を合格するために勉強したり、仕事で大きなプロジェクトに取り組んだりするときには、その場限りの考えというわけにはいかない。どういうスケジュールで、どういう手順で何をどう進めていくか、計画を立てなければならない。計画を立てれば、やるべきことがはっきりして集中して取り組むことが容易になる。大事なことであればあるほど、計画が必要だ。計画があるということは、それだけその人がそのことに真剣であり、大事にしているということだ。なんとしても試験に合格したい!だから計画を立てる。なんとしてもプロジェクトを成功させたい!だから計画を立てる。

神には計画がある。神は私たちの人生に計画を持っておられる。それは、神が私たちを愛しておられ、強い関心を持っておられるからにほかならない。神は私たちのことを真剣に考えていてくださっている。詩編139:16-18。神は私たちの人生のすべての日々について、最初から計画を立てておられ、数え切れないほどの計らいをしてくださっている。今までも自分で気づいていないだけで多くの計らいがあった。私たちが自分で立てる計画もそれなりに効果があるが、神の計画は人間の計画よりもずっと優れていてすばらしいものだ。私たちは神の計画の全部に自動的にあずかるのではない。私たちはイエス・キリストにあって神を信じて従うことによって、神の計画にあずかる。神を信じることは、神の計画を信じることでもあるのだ。「神は御自分に従う人に対してすばらしい計画を持っておられる」と信じないと、神に従うことはできないだろう。神の計画を信じることなく、ただひたすら我が道を行くという人もいる。それは破滅の道だ。箴言14:12。また、全然神に信じて従わないので、神が災いの計画を用意しておられるという人たちもいる。エレミヤ18:11。私たちはイエス・キリストにあって神を信じて従い、神のすばらしいのすべてを計画を体験する者となろう。

神に従う信仰を増やすために、神の計画とはどんなにすばらしい計画なのかという点を御言葉を通して確認しよう。
第一に、救いの計画。Ⅰテモテ1:3-4。神が立ててくださっている計画は、私たちを滅ぼす計画ではなく、救う計画だ。神は私たちを罪から救い、悪魔から救い、死から救ってくださる。その計画の中心は、救い主イエス・キリストだ。イエス・キリストを信じることによって救いを体験することができる。イエス・キリストへの信仰によって義とされること、清められること、完全な者とされること、悪魔に勝利することを体験できる。そのためには、信仰の本質からそれた奇妙な教えを探究したり、聖書の外典に夢中になったり、系図の人名の羅列やあらゆる数字に特別な意味を見出そうとしたり、そういうことばかり心を奪われるのではなく、心の目を救い主イエス・キリストに向けることが大事だ。
第二に、平和の計画。エレミヤ29:11。主は私たちのために立てた計画をよく心に留めてくださっている。主は私たちに実現しようとしている計画に強い関心を持ち注視しておられるのだ。しかも、主は災いの計画ではなく、平和の計画を立てておられる。
ここでいう平和というのはシャロームだ。シャロームにはいろいろな意味がある。平和、健康、安全、休息、繁栄、すばらしい、幸せなど。つまり、主が私たちのために立てた計画はあらゆる意味で良い計画だということ。私たちは今がどういう状態であれ、今後の先行きが不透明であれ、将来は希望に満ちた明るいものだとわかる。神の計画を信じて生きるなら、常に自分が最高のゴールに向かって進んでいることがわかる。

第三に、変わらない計画。ヘブライ6:17。人の計画というのはうまくいかなかれば、変わることがある。軌道修正することがある。うまくいかないことを見越してプランA,B,Cを用意する。しかし、神の計画は決して変わることがない。なぜなら、神の計画は完璧な計画だからだ。非の打ち所がない計画なので変更の必要がない!神には計画倒れはない。神はそのことを保証するために誓うことさえした。誓いというのは、信用のならない人間が自分の言葉に重みをもたせるためにするものだ。神は真実で正しいお方だから、本来は誓いが必要ない。御言葉は信用できるし、信用すべきだ。ただ、神は私たちの弱さ、不信仰を理解して、人間の目線までへりくだって、あえて誓ってくださっているのだ。神の計画は変わらない完全な計画であることが、保証されている。

第四に、永遠の計画。エフェソ3:11。人間の計画というのは、せいぜい数十年先までのことまでだ。それ以上のことは予測できないし、自分が生きているかどうかもわからないので、あまり関心が持てない。自分の人生についても、老後までの計画くらいしか立てない人が多い。死後に至るまでの考慮が足りない。死後の方がずっと長いのに!人間は近視眼的なのだ。近視眼的だと計画よりも先の未来のことや想定外のことによって、計画の内容が全部覆されてしまうかもしれない。だから、本当はもっと先まで、正確に予測して計画しなければならないがそれができない。神は私たちの永遠の未来までのすべてのことを見越して計画を立てておられる。神は永遠の未来に至るまですべてのことをご存知で、何が良いかをすべて賢く判断して計画を立てておられる。神には想定外のことは何もない。神は「これは予想してなかった」と驚くことはない。この神の計画を信じる者となろう。

しかし、人間は不信仰に陥り、神の計画を疑ってしまうことがある。試練が襲ってくると、本当にこれが神の計画なのかと疑ってしまうのだ。イエス・キリストを信じたら何の障害も苦労もなく生きられると思ったのに!主はそんなことは約束しておられない。私たちは神の計画の中には試練も含まれていることを知らなければならない。主は私たちを愛するがゆえに試練によって訓練されるのだ。神の計画をしっかりと信じてさえいれば、それらの試練を乗り越えることができる。イエス様はあるとき、ガリラヤ湖で「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。イエス様は神の計画に従って向こう岸に渡ろうとされたのだ。しかし、舟を漕ぎだすと、激しい嵐が起こし、舟が波にのまれそうになった。イエス様は激しい嵐の中で眠っておられた。弟子たちは「先生、助けてください。溺れそうです」と言った。イエス様は起きて「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者」風と湖をしかりつけるとすっかり凪になった。そして、一向は予定通り向こう岸に着くことができた。神の計画が向こう岸に着くことであれば、何があって向こう岸に着くことができる。私たちはゴールにたどりつくことができる。嵐はある。しかし、神の計画は必ず実現する。そのことを信じてイエス様と共にいよう。
試練を予期しておくことで、それに直面したときにうろたえることがなくなる。神の計画に対する試練を大きく3つとりあげる。
第一に、未知という試練がある。私たちは神の計画のすべてを知ることができない。海辺の砂よりも多い神の計らいのすべてを知ることは不可能だ。神には計画があるが、そのプロセスや全体像を私たちは知らない。神も積極的に教えようとはなさらない。知らなくても私たちが信じることを神は望んでおられる。
中には、知らないということに耐えきれなくなって、不法な方法でそれを知ろうとする人がいる。占いがそれだ。あるいは、神の計画を信頼せず、幸運をもたらすあらゆるものに飛びつく人々もいる。お守り、開運グッズ。それは主を捨てることだ。イザヤ65:11。もし不法な方法で未来を知ろうとしたり、幸運をもたらそうとしたりするなら、私たちは神の計画を捨てて悪魔の計画に従うことになる。私たちは神の計画を詳しく知らなくても、信頼しなければならない。アブラハムは主から「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じられたとき、行き先も知らずに旅だった。神の計画を信頼していたからだ。
第二に、待つという試練がある。現代は何でもインスタントに手に入る時代だ。食事はファーストフード店に行けばすぐ出てくるし、飛行機に乗れば地球の裏側まで半日で生ける。インターネットであらゆる情報に瞬時にアクセスできる。だから、待つということが苦手な人が多い。クリスチャンには苦手がことが何もないようにしよう。「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」と書いてある。待つことに訓練されなければならない。主は、私たちが考えている以上に待たせることがある。私たちの計画では数年のうちにミニストリーがうまくいく、事業がうまくいく、成功することができると思う。それは私たちの計画であって、それが神の計画とは違うなら、神の計画に道をゆずらなければならない。アブラハムはサラとの間に子供が与えられると約束された。その約束が最初に与えられてから、実際に子供が生まれるまで、25年間かかった。私たちの感覚では遅い、何も起こらないと思えても、神の計画は相変わらず進行中だ。そのことを信じよう。
第三に、転落という試練がある。私たちの計画というのは、たいてい右肩上がりのものだ。グラフは開始時点ではゼロに近く、時間の経過と共に値が高くなる。だんだん能力が増え、お金が増え、人数が増え、人望や名声が増していく。そういうのを期待する。しかし、神にはそんなの関係ない。神は途中で転落するのを良しとされる。その方が最後に引き上げられるとき、人間の知恵や力によるのではなく、主がそれを行ったということが明らかになり、主の栄光が現わされる。ヨセフがそうだった。ヨセフは、自分が家族の中で支配者の地位につくという夢を見た。それであれば、どんどん家族の中で偉くなりそうなものだ。ところがその後ヨセフが経験したのは、二度の転落だ。兄弟に陥れられ、奴隷としてエジプトに売られること、さらには、濡れ衣を着せられて囚人になることだ。どんどん落ちている!それでも、ヨセフは神の計画を信じていた。それで、ファラオの夢を解き明かして、一躍エジプトの支配者になるのだ。神を信じて従っていても、転落することはある。しかし、それは神の計画が頓挫したからではない。それは神が私たちを一挙に引き上げるためだと信じよう。
あらゆる試練があっても神の計画が実現することを知りたいなら、救い主イエス・キリストを見よう。イエス様は神の独り子が人間としてこの世に来られたお方だ。イエス様は300以上の旧約聖書の預言を成就した。神の計画の完全さをその人生を通して立証したのだ。この方は、長く待たなければならなかった。普通の子供として成長し、大工として生計を立て、世界を救う働きとは何の関係もないように思える日々を30年間過ごさなければならなかった。それは神の計画を実現するための訓練期間だった。水のバプテスマを受けた後、いよいよメシアとしての働きをするかと思いきや、何もない荒れ野で40日間過ごさなければならなかった。それからやっと働きが始まった。イエス様は3年半の働きによって、有名になり、エルサレムに入場するときには、「ホサナ、ホサナ」と人々からの賛美の声を浴びた。ところが、その一週間後には裏切られ、濡れ衣を着せられ、十字架にかかって死んでしまうのだ。人気絶頂のときに陰府の底まで転落した。しかし、イエス様は三日目に復活なさった。そして、大勢の人々の救いを成し遂げ、大勢の人々がイエス・キリストは主であることを公に言い表し、父なる神をたたえるようになった。神の救いの計画、平和の計画、変わらない計画、永遠の計画はこうして実現した。私たちの人生にも神の計画がある!神のすばらしい計画は実現する。そのことを信じて、一生涯熱心に主に仕える者となろう。アーメン。

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