時に、聖霊様は苦難にあえて向かうように導かれることがあります。しかも、命の危機に瀕するような苦難にです。しかし、召命を全うすることには、命をかける価値があります。
命すら決して惜しいと思わない[使徒20:13-24]
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【ノート】
■13節。パウロ以外は船旅。徒歩での旅行。御霊の導き。そこでないと会えない人がいる。起こらないことがある。一人の徒歩での移動は神様との会話の時間にもなる。祈りは歩きながらできる。
■14-17節。ミティレネ、キオス島、サモス島、ミレトス。全部実在の地名が正確に記載。パウロが2年間福音化に励んだエフェソによらないのはエルサレムへの旅を急ぐため。エルサレム教会の貧しい聖徒たちに献金を届けるというプロジェクト。少しでも早く助けたいという思い。そして、ためらわずにすぐに行くように御霊の促しがあった。エフェソに寄ったら、絶対に一時的な滞在では済まない。パウロの見知っている顔が、パウロの話を聞こうと詰め掛ける。そうなるとパウロも振り切って出発するのが難しい。誘惑にならないようにあえて避けた。とはいえ、長老たちに語りたいことはあった。
■18節からが告別説教。18-19節。パウロが呼ぶと、長老たちはみんなスケジュールをキャンセルして集まって来る。リーダーの集会の号令には従う。メッセージはパウロ自身のことから始まる。力あるメッセンジャーは自分自身が最も強力なメッセージ。最初の日以来と書いてある。つまり、Day1からパウロは変わらなかった。一貫性のある働きをしていた。大勢の人の前で「よくご存知です」という。誰も認める事実。信頼できる。その人が語る神の言葉も信頼できる。ユダヤ人から迫害の中、どのように主に仕えたか、「自分を全く取るに足りない者と思い」⇒新改訳では謙遜の限りを尽くし。仕えるにあたって何でもしたということ。私は使徒だからこんな下っ端の仕事はしないなんてことは全くなかった。皿洗いが必要なら皿洗い、重い物を運ぶ時は運ぶ、資料作りが必要ならした。いつか他の人ができるとよい。しかし、必要ならどんなことでもするのが主の僕。どんなことでも耐え忍んだということでもある。謙遜の限りを尽くす人は迫害に遭っても「何で私がこんな目に」と主に不平不満を言わない。不平不満を言ってしまうと耐え忍んでいることにならない。黙って「涙を流しながら」耐え忍んだ。
■20-21節。語って来た内容。神の言葉=役に立つこと。人生を豊かにする。あらゆる機会をとらえて語った。その主な内容は、二つ。神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰。死と復活のようなもの。古い自分に死んで別れを告げ、キリストにある新しい命に生きる。別人になること。これが何よりも役に立つこと。人生全体の豊かさにつながる。
■22-23節。エルサレムへは聖霊様に促されて。宣教は御声を聞くことが必要。祈りと御言葉に集中すること。エルサレムへの旅に待ち受けるもの。投獄と苦難。どの町でもエルサレムでは大変なところにある、けども行きなさい。明らかな促しでありながら、明らかな苦難。えっと思ってしまうことなのではっきり語られる。イエス様の十字架と同じ。苦しいとわかっていながらも、人々の救いのために突き進まなければならない道がある。
■24節。自分の決められた道=召命。その中にエルサレムの投獄も。投獄すらも福音を証しする機会になる。投獄されても釈放されると思っているからではない。命すら惜しくない。場合によっては死ぬことも覚悟している。召命は命をかけるもの。その価値がある。どうしてか?肉体の命にまさるは、多くの人の永遠の命。あなたは自分の召命に命をかけるか?
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