祈ってもらう必要もなければ、手を置いてもらう必要すらありません。そして、触れさえすれば、誰でも、どんな病気でもいやされるのです。
触れればいやしていただける
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【ノート】
■マルコ5:24。長血をわずらって女性の癒しだが、もともと予定されていないことだった。ヤイロの娘の癒しの道中だった。予定されておらず、知識の言葉も預言もない、イエス様はその人に気づいてもいなかった。誰もその女性に注目していなかった。しかし、この婦人はいやされた。「呼ばれたのは私ではないから私ではない」「知識の言葉がないから私ではない」違う。待つな。受身的になるな。つかみに行け。「今日は私が奇跡を体験する日だ!」
■マルコ5:25。長い間苦しんでいた。慢性的な病には慣れ親しみの罠。「一生つきあっていかねば」というのは悪魔の嘘。慢性的な病気は癒される。出血があると、汚れたものとみなされて、社会生活に支障が出る。仕事もできなかっただろう。病気は健康だけでなく、経済的、社会的にダメージを与えるもの。病気で苦しむことは御心ではない。
■マルコ5:26。医者には治せない病気がたくさんあるが、ドクタージーザスは何でも治せる。医者も感謝だが、薬の副作用のせいで、手術のミスのせいで苦しむことはある。医療による害からも癒してくださる。
■マルコ5:27-28。婦人は人々の前に出ることが禁じられていたので、密かに服に触れることにした。誰もこの方法で癒された人はいなかったのに、「癒していただける」と信じたのはすごい。迷信っぽい?「この方の服」とある通り、対象はイエス様。その人が誰なのかわかっていると奇跡を体験できる。この時、婦人はイエス様から祈ってもらった?認識すらされていなかった。イエス様から手を置いてもらった?逆に婦人の方から手で触れられている。癒しは祈りも、手を置いてもらうこともなく受けられる。もし祈りや手を置くことが必須なら、我慢が必要になる。癒しの礼拝は月一、日曜日の礼拝になるまで苦しみを我慢、悪化して手遅れになっても仕方ない?ただイエス様に触れればよい。イエス様に触れるとは御言葉に触れる。箴言4:20-22。
■マルコ5:29。すると、すぐ出血が全く止まって。十二年間⇒するとすぐ。主は一瞬で完全に病の苦しみを終わらせる。突然の出来事。しかし、偶然ではない。触れた時に起こる。
■マルコ5:30-32。群衆が触れるのと婦人が触れるのとでは違った。癒されたのは婦人だけ。何の違い?ヘブライ4:2。信仰があった。何に対する?御言葉=イエス様。婦人は信仰によって御言葉と結びついて癒しを受けた。肉体を持ったイエス様に触れたのでは?そうだが、神の子の内には御言葉があるので、信仰によって触れるだけで癒されてしまう。イエス様に触れるとは、信仰によって御言葉と結びつくこと。ディボーションをし、御言葉を思い巡らし、口ずさむことが、イエス様の服の裾に触れることになる。
■マルコ5:33-34。婦人は恐れた。汚れているのに勝手に触れたことについて、罰を受けるのではと。イエス様が婦人を探したのはアフターフォローのため。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエス様は癒しを喜ばれる。どんな経緯であれ、癒しと解放が起こるということは、イエス様から喜ばれる。迷信的な信仰にならないように、御言葉を与えた。三つのものが確認されている。救いの確信は御言葉によって与えられる。公で癒しが確認されることで、社会復帰が促されている。御言葉によって癒しを保持できることが約束されている。癒しは御言葉にとどまることで保証される。
■マルコ6:53-56。イエスの証しは預言の霊。私の証しでなくてなぜイエスの証し?一体だから。私の証しはイエスの証しであり、イエスが私の人生でどのように働いてくださったか。証しは産めよ、増えよと増殖する。一人の癒しはすべての人の癒しの預言となる。信仰によって御言葉に触れることは誰でもできることがわかる。知ってさえいればよい。あなたも知ったので、信仰によって御言葉に触れて癒される。
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