ダビデの幕屋のリバイバル[アモス9:11-15]

アモス書
スポンサーリンク

アモスに与えられたのは裁きの預言が中心でしたが、しめくくりに救いの預言がなされます。
しかも、それは復興の預言、つまりリバイバルの預言です。これは今の神の教会が多い関わるものです。

ダビデの幕屋のリバイバル[アモス9:11-15]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
アモスはずっと裁きの預言を語ってきた。偶像礼拝、支配者階級の人々が貧しい者を虐げて贅沢三昧な生活をすること、預言者の言葉に耳を傾けないことなどがイスラエルの罪であり、その結果、イスラエルは地震と捕囚にあい滅びることになる。しかし、イスラエルは全滅を免れることができた。そして、生き残ったイスラエルに対して回復の預言がなされている。裁きと救いは必ずセットで与えられる。裁きばかり見て落ち込まない。裁きはキリストが代わりに受けてくださった。救いの側面を見よ。この預言は神の教会に通じる。

ダビデの幕屋を建て直す
11-12節。復興=リバイバル。リバイバルの預言。復興という言葉は、ギリシャ語では復活にあたる言葉。リバイバルはキリストの復活にあやかることによる。
どんなリバイバルなのか?「私は…と主は言われる。」「主はこのことを行われる。」主なる神様によるリバイバル。私たちの努力ではない。一生懸命伝道する、それは良いことだが、それによるリバイバルではない。主が主権を持ってなされる。では、私たちがそこにどう関わることができるのか?このことが成就することを宣言して祈ることによって関わる。預言者に与えられた幻は、成就するかどうか、預言者の祈りにかかっている。イスラエルの滅亡は、預言に耳を傾けないことによった。リバイバルは、主からの預言に耳を傾け、そのことについて宣言して祈ることによるリバイバル。ダビデの幕屋の預言がその通りに成就するように宣言していこう。

リバイバルはダビデの幕屋を建て直すもの。ダビデの幕屋とは?歴代誌上16:37。ダビデは、サウルの治世に放置されていた契約の箱を、エルサレムに運んだ。契約の箱は、ギブオンにあったモーセの幕屋ではなく、ダビデの幕屋に置かれた。それは、ソロモンの神殿が完成するまで続いた。モーセの幕屋でもソロモンの神殿でも、契約の箱は聖所のさらに奥の至聖所に置かれ、大祭司だけが年に一度そこに入ることができた。ところが、ダビデの幕屋では、契約の箱はただ天幕が張ってあるだけで、ほとんど何もさえぎるものがない剥き出しの状態で、すべての民が目に見える形で置かれた。もしダビデが自分の考えでそうしたなら、冒涜にあたって神に打たれただろう。しかし、ダビデは啓示によってそうした。レビ人のアサフを中心に、賛美奉仕者を24組に分けて、24時間絶えず賛美と祈りがなされるようにした。これは黙示録4章の天上の礼拝に出てくる24人の長老をダビデが見て、導入したものだ。このダビデの幕屋はイスラエルの中心で約30年間、心臓のように賛美と祈りをささげたことにより、神の臨在が激しくイスラエルに臨み、神の統治がなされた。この時期にイスラエルは黄金時代を迎え、豊かに栄え、イスラエルを通して主の栄光が諸国に現される事となった。ダビデの幕屋のリバイバルは、祈りと賛美によるリバイバルなのだ。

12節から、ダビデの幕屋はただイスラエルのものではなく、エドム人や主の御名をもって呼ばれる国々と共に分かち合うものだ。エドム人はイスラエルの人々から憎まれていた。ヤコブの兄エサウの子孫であり、イスラエルの兄弟の民族だが、敵対することが何度もあった。オバデヤ書はエドム人がバビロン捕囚を喜んだことにより、裁きの預言に遭っている。イエス様を殺害しようとしたヘロデ大王はエドム人の末裔だ。しかし、その日には、決して和解できないはずの民族をも、ダビデの幕屋にあって主は一つにしてくださるのだ。
共に賛美と祈りをささげるとき、神の民はすべての違いを超えて一つになる。ダビデの幕屋についての預言は、使徒会議で初代エルサレム教会の指導者のヤコブの口を通しても引用されて、異邦人を教会に受け入れる根拠とされている。使徒15:15-18。異邦人が迎え入れられた教会こそが、ダビデの幕屋の預言の成就する対象なのだ。
ダビデの幕屋の預言は異邦人が教会に受け入れられたことで半分が成就した。それでは、24時間の賛美と祈りという点はどういう形で成就するのか?

第一に、祈りの家運動の中で成就を見ることができる。近年の祈り家運動により、全世界に24時間賛美と祈りをささげる教会や施設が存在するようになっている。日本では新宿シャローム教会にあるSHOPが活発に祈っていたし、台湾に行ったときにはTODという超教会的な祈りの家があった。そこは、確かに神の臨在が激しい場所だというのは、すぐにわかった。

第二に、一人一人が24時間賛美と祈りをささげる生活を送る。神の臨在が地上で最も顕著なのは、旧約のころは幕屋や神殿にある契約の箱だった。今や、すべての信仰者が、聖霊様が宿る神の神殿であり、神の臨在が内在している。だから、誰もが、毎日の生活の中で、賛美と祈りをささげ続けることができる。Ⅰテサロニケ5:16-18。私たちはこういう者とされている。私たちは思いの中で、また、口に出すことで、喜び、祈り、感謝をささげ続けることができる。口癖のように祈りがわいてきて、感謝の言葉があふれてくる者になろう。そうすれば、私たちがどこいても、神の臨在が激しく臨み、豊かに祝福され、イスラエルがそうだったように主の栄光を現すことができる。

リバイバルによって起きること
13-15節はリバイバルによって何が起きるか。ダビデの幕屋があったとき、イスラエルが黄金時代を迎えたように、ダビデの幕屋のリバイバルはイスラエルと教会が共に黄金時代を迎え、全世界に主の栄光を現すことになる。
13節。「耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く」収穫があまりにも多くて処理しきれないほどになる。前の刈り入れが終わらないうちに収穫。通常の収穫は7月、耕作は10月だった。ところが、収穫が止まらない。土地が良いからだ。良い土地といえば、種を蒔く人のたとえ。良い土地は、御言葉を聞いて悟る人のことだった。ダビデの幕屋の影響で、人々は皆変えられ、御言葉を聞いて悟る人になるのだ。御言葉が語られたら、誰もが30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。未信者は福音が語られるとたちまち救われ、すでに信じている者はたちまち完全な状態に成長する。救いが止まらない。霊的成長が止まらない。経済的祝福が止まらない。

ぶどうの汁⇒新改訳では甘いぶどう酒と訳されており、良いぶどう酒のこと。品質が極上のぶどう酒。カナの婚礼のようにイエス様が水をぶどう酒に変えたときのぶどう酒は良いぶどう酒だった。ぶどう酒は神と人との喜びの交わりを意味する。喜びの交わりはどのように経験するか。聖霊様によって。ペンテコステの聖霊降臨の時、弟子たちが異言で神を賛美していると、ある人は「新しいぶどう酒で酔っているのだ」と嘲ったが、聖霊様は新しいぶどう酒として喜びの交わりを提供する。「山々」「すべての丘」と書いてあるように、ダビデの幕屋のリバイバルによって、人々は皆、どこにいても聖霊様で満たされて喜びにあふれるようになる。ぶどう酒による喜びは、聖餐でも繰り返し覚えられ、究極的には、携挙された教会が経験する小羊の婚宴において完全な
14-15節。イスラエルの回復だ。ダビデの幕屋のリバイバルは、異邦人の完成を経てイスラエルの救いにつながる。再び彼らが引き抜かれることは決してないというふうに、キリストによるイスラエルの統治は永遠に続き、その繁栄は永遠に保証される。千年王国と新天新地での永遠の定住と繁栄だ。この預言の成就を宣言しよう。つまり、ダビデの幕屋のリバイバルの実現を宣言しよう。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝し、主の臨在を運んで生きる者となろう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました