あなたは、神様が見せようとしておられる幻や計画を見ていますか?
神の子は、正確に見ることができます。
一籠の夏の果物[アモス8章]
【ノート】
第四の幻(1-3節)
主なる神は一籠の夏の果物をアモスに示した。熟したイチジクがかごに盛られていたのだろう。それはありふれた光景で、いなごや審判の火と比べれば直接的に脅威に思えるものでもないが、下げ振りと同じようにそこには象徴的な意味がある。主は御自分でアモスに示したのに、「アモスよ、何が見えるか」と聞いている。主がお示しになりたい幻、計画をその通りに見ているか確認している。神はあらゆる人に御声を語られる。ある時には御言葉で、またある時には幻、思い、夢で語られる。しかし、人は往々にして、それを聞き逃してしまう。ヨブ33:14-16。神が沈黙なさるということはない。神は多くの方法で語ってくださっているが、人が霊的に鈍感でなかなか気づかないのだ。それは、人がふだん肉の感覚に依存しすぎているからだ。そこで、神は最終手段として夢で語られる。肉が眠る時、人は霊的な感覚が開かれて、神からのものを受け取りやすくなるからだ。アモスは御声をよく聞けた。アモスは霊的な目が開かれていて、幻の内容を正しく、「一籠の夏の果物です」と答えることができた。主はこれを喜ばれただろう。私たちはどうすればアモスのように霊的な目や耳をいつも開いて、神様の御声を聞くことができるだろうか?御言葉を悟ることだ。アモスよりももっと神様からのものを正確に見えていたのは、イエス様だった。イエス様はなぜ見えていたのか?ヨハネ5:19-20。イエス様が父なる神様のなさることを見ることができたのは、神の子だからだ。神の子は父なる神様のなさることをすべて見せていただけるものだ。神の子であることを悟ろう。神の子なので、御声は聞けるものだということを悟ろう。そうすれば、霊的な目と耳が開かれて見聞きできるようになる。
ここでは、夏の果物=カイツと終わりのケーツをかけている。言葉遊びだ。いわば駄洒落だが、内容は非常にシリアス。こういう幻と掛け言葉を使うことによって、神はその語ろうとするメッセージについて最大限強い印象を私たちに与えようとしておられる。カイツには、目を覚ますという意味もある。カイツの幻は終わりの時に備えて目を覚まさなければならないという神様のアラームだ。
その時には「宮殿の歌い女が泣きわめく」とある。歌い女とは、宮廷所属の歌手たちだ。ふだんは娯楽を提供する存在であって、泣くことはない。ところが、最も豊かな人々が住む宮殿すら、葬式のラッシュが起きて泣き女が足りないので、歌い女が泣き女として動員されるということだ。死は宮殿のみならず至るところに臨み、葬式もされないまま遺体が投げ捨てられた状態とある。「声を出すな」というのは、至るところで死が人々を襲っているので、死の使いに見つからないように声をひそめなさいという異常な状況だ。これは、患難期の型だと言える。どうやってこんな状況から逃れることができるか。小羊の血潮以外にない。十の災いの最後、初子の災いでエジプト中に死があふれたとき、小羊の血潮を家の入口の鴨居に塗っていた人々だけは、死の使いが過ぎ越して、災いを免れることができた。イエス様を信じてその血潮にあずかる者は、死があふれる患難期を過ぎ越すことができる。
不正によって利益を得ようとする人々(4-8節)
4-6節。イスラエルの社会的な不正が指摘されている。彼らがどんな心で、そして、どんな手口で人々を苦しめていたのかが明らかになる。
第一に、不正を行う者たちは、新月祭と安息日が終わるのを待ち遠しく思う。それらの日にはお金を稼ぐことができないからだ。新月は新しい始まりだ。新月はキリストの十字架の死と復活を象徴する。私たち一人一人がその方にあって新しい命を生きるようになる。安息日はキリストによる永遠の安息を象徴する。すべての活動を停止して、ただひたすら神に御前に安らぐ。不正を行う者たちは、いわば新しい命に生きないし、神の御前に安らがず、不正の利益を求めることだけがすべてだ。それでも新月祭と安息日に一応は商売をしないのは、単に宗教的な義務を果たさないと生きていけない社会だからというだけだ。つまり、ただ人から言われて、人の目を気にして守っているに過ぎない。神によってのみ人間は本質的に変わることができる。その神と向き合うことのできる時間を無駄だと思い、「早く終わらないかな」と思っているので、この人たちはいつまでたっても変わらず、不正を求めることをやめないのだ。私たちが、主が復活された日曜日を主の日として集会を守るのは、なぜなのだろうか?もし、単にそれが宗教的な義務に過ぎず、いつも「早く礼拝が終わらないかな。早く帰りたいな」と思っているなら、残念なことだ。集会を喜び、御言葉を聞いて悟り、交わりによって励まされるなら、月曜日から土曜日までも豊かになるのに、もったいない。まさに目の前に真珠や宝石のような宝があるのに、時計とにらめっこしているのはもったいない。その時間こそ、私たちの人生が変えられる時間だ。私は日曜日が好きだ。集会が好きで、兄弟姉妹が好きで、日曜日の時間を楽しみにし、喜んでいて、プレッシャーもない。
第二に、不正を行う者たちは、計量をごまかした。エファ升、分銅、天秤は、量や重さを計る上で基準として使用する器具だ。それを偽って取引するということは、詐欺同然だ。これは律法で明確に禁じられていた。申命記25:13-16。私たちは基準を自分の都合で勝手に変えてはならない。変わることのない御言葉を基準として、偽りのない歩みをしよう。
第三に、不正を行う者たちは、人身売買を平気で行う。お金で人を取引するということは、いつも人間の価値を下げることになる。人を単なる労働力とか生産力とか消耗品のようにとらえてはならない。人間にはもっと価値がある。人は神に似せて造られた最高傑作品だ。お金で買えるようなものではない。イエス様は代価を払って私たちを買い取ってくださったが、それは私たちの価値を高めることになった。なぜなら、イエス様はお金ではなく、御自分の命を代価として買い取ってくださったからだ。私には、神の独り子が御自分の命を代価として払って買い取るほどの価値がある。
第四に、不正を行う者たちは、くず麦を売った。麦のカスを高級品であるかのように装って売ったのだ。父なる神は良いお方であり、神が私たちにくださるものは、いつも良いものだ。私たちは神の子らしく、良い物を提供するものになろう。
7節。このような不正が見過ごされることはないことを主はヤコブの誇りにかけて誓われる。ヤコブの誇りとは何か?主御自身のことだ。「私は、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」罪には時効がないということだ。日本の法律では、犯罪によっては時効によって罰せられなくなることもある。神に対して犯す罪にはそういうものが存在しない。罪は必ず罰せられる。ただ、キリストの贖いによってのみ、神は私たちの罪を完全に忘れてくださる。
8節。イスラエルの不正は、この世の秩序がひっくり返るようなものだった。それゆえ大地が揺れ動く。地震の預言だ。アモス1:1の通り、この預言は成就する。霊的に堕落し、義が無視され、不正がはびこる社会状況は、大地が驚いてしまうようなことなのだ。この国もそうなっていないだろうか?私たちが地の塩、世の光となってこの国に主にある秩序をもたらし、大地を落ち着かせよう。
主の日の裁き(9-14節)
9-10節。主の日の裁きの内容の予告だ。主はその日に真昼に太陽を沈ませ、大地を闇とする。闇は出エジプトの十の災いでも用いられたが、神の裁きの一つだ。闇の中に数日間とどまると、人は錯乱状態に陥ってしまう。地獄のことをイエス様は外の暗闇と表現されたのは単なる比喩ではない。光がないということは、光の源なる神がおられず、神からの良い物が全く届かないということをも意味する。祭りの喜びは葬式の悲しみに変えられ、賛美の歌は哀歌に変わり、きらびやかな祭儀の服装は粗布になり、神の栄光を現す頭髪は刈られて丸坊主になってしまう。誰が死んでも悲しいがその日は、独り子を亡くしたような悲しみにとらえられる。独り子を亡くしたら、跡取りがいないので、嗣業を子孫に伝えることができない。自分がこの世を去っても子孫の繁栄が望めるなら安らかだが、家が潰れて自分の後に何も残らず、絶望的な死を迎えるのだ。
これが主の日の裁きとして罪人が経験しなければならないことだ。しかし、すばらしいことに、私たちがこのような破滅を味わわなくてもよいようにするために、神様が代わりにこれらのことを全部引き受けてくださった。私たちの罪の身代わりに、神の独り子が十字架につけられた。そのとき、白昼に大地が闇となった。過越祭の喜びは悲しみに変えられた。神様が私たちの破滅を引き受けてくださったことを感謝しよう。
11-14節。主の御言葉を聞くことのできない飢えと渇きが裁きとして与えられる。祭司アマツヤは預言者アモスに対して「預言するな」といった。それが主の御言葉に対するイスラエルの態度を表していた。主の御言葉に対して聞く耳を持たなかった。そこで、主の御言葉はイスラエルから奪われ、もはや聞くことができなくなり、イスラエルは激しい飢え渇きで苦しむことになる。これはイエス様が語られたこととも一致する。御言葉に対して聞く耳を持たない者はどうなるか?マタイ13:10-15。18-19。聞く耳のない者は、せっかく御言葉を聞いても、全部悪魔に奪われてしまう。失ってしまう。そして、理解せず、悔い改めず、癒されない。つまり、今でも、主の御言葉を聞いて悟るということに関心を持たないばかりに、御言葉の飢饉に陥るということがあるのだ。私たちは御言葉に対して聞く耳を持とう。イスラエルは裁きとして、御言葉によって飢え渇きが満たされないことがどれだけ苦しいものであるかということを味わった。本来、人はそういうものなのだ。マタイ4:4。神の子は主の御言葉なしには生きていくことができない。御言葉なしには霊的に枯渇してしまう。そのことを悟っていれば、食事と同じように御言葉を食べることを大事にする。
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