このことは起こらない[アモス7章]

アモス書
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悪い夢、悪い予感、敵からの言葉、そういうものを耳にしたときは、実現しないようにすかさず祈りましょう。そうすれば、キャンセルすることができます。良いことが示された時にも、すかさず祈ることです。その通りになるかどうかは、私たちに応答にかかっています。

このことは起こらない[アモス7章]


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【ノート】
第一の幻(1-3節)
アモスに見せた幻だ。まだ実際には起きていないことだが、アモス3:7で名言された通り、主はその定められたところを僕なる預言者に示さずには何事もなされない。それで、起きる前に幻で示しているのだ。預言者に幻で示すのは、預言されるためだ。しかし、それだけではないことをこの章から学ぶことができる。イスラエルには秋と春の二度の雨季がある。二番草とは、春の雨の後、夏の長い乾季の前に生じる草を指す。「いなごを造られた」とは、これから起ころうとするいなごによる災いは偶然の産物ではなく、主が準備されていることだということ。乾季の前の二番草をいなごに荒らされると、人も家畜も食糧が手に入らなくなり、餓えてしまう。
そこで、アモスはすかさず執り成しの祈りをささげている。アモスは裁きを預言したが、それは彼自身が望んだことではなかったのだ。そして、実は主も、預言者が執り成しの祈りをささげることを期待している。執り成しは御心に適うのだ。主はそのことを見越して預言者に御自分がなさることを告げるのだ。アモスはいなごが青草を食べつくそうとしたらすかさず執り成しの祈りをささげた。預言が示されたらすぐ祈るのだ。その結果、主が「このことは起こらない」とおっしゃっている。いなごによる裁きの予定はキャンセルされた。預言というものは、それが起きることが確定していないことも多い。つまり、預言は私たちに対する招待であって、それを受け取ったものの祈り次第で、実現させることもできればさせないこともできるのだ。裁きの預言を受け取ったときはキャンセルしよう。手をこまねいていてはならない。悪いことについて、必ず起きるのだとあきらめてはならない。たとえば、ディボーションで警告を受けとったとか、悪いことが起きる予感がするとか、悪い夢を見たときには、すぐに祈ろう。そして、「イエス様の御名によってこのことは起こらない」と宣言しよう。そうすれば、実現を阻止することができる。また、すばらしいことが起きる預言を受け取った場合は、あぐらをかいていてはならない。それが実現することを祈り、繰り返し宣言しよう。「イエス様の御名によってこのことが実現することを宣言する」と祈ろう。
アモスの執り成しの内容に注目しよう。まず、赦しを求めている。裁きは罪ゆえにくだるから赦しが必要だ。次に、「ヤコブはどうして立つことができるでしょう」と、裁きが過酷であることを訴えている。最後に、「彼は小さいものです」という。主は小さいものの味方をすることは、聖書全体を通して言える。主は小さい者を憐れむし、小さい者を通して御自身を表す。北イスラエル王国の指導者たちは、実際には尊大にふるまい、自分たちが大きいものだと自負していたが、アモスが「小さいものです」と執り成したことで、災いを免れることができた。ヤコブ4:6。へりくだって恵みを受けられる者になろう。

第二の幻(4-6節)
また幻が示された。いなごはキャンセルされたが別の災いの幻だ。どうして裁きを下さなければならないようだ。ここでは審判の火が神によって召喚されている。この災いも偶然の産物ではなく、主が引き起こそうとしておられる。対象は畑だ。先ほどの青草と似て、人間が直接の対象ではなく、食糧が対象となっている。クリスチャンが食事の祈りをするのは、単なる決まり事とか、宗教的なことではない。主は「日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈るように言われた。食糧は、神様から与えられる。自分の稼ぐ力で食べるのでも、お金の力でも食べるのでもなく、神様から与えられる。食べるものがあることに感謝しよう。そして、主は与え、主は奪う。主の一存次第で食糧はなくなる。
ここでも、アモスは火が畑を焼き尽くす前にすかさず執り成して祈った。災いの幻が連続してもめげずに祈った。幻が全部進んでしまうと間に合わない。良いことであれ悪いことであれ、主から何か示されたらその時にすかさず祈るのだ。良いことが実現するか、悪いことの実現が回避できたことがわかるまで祈る。すると、祈りを喜ばれる神はあえて御自分の計画を変更して、「このことも起こらない」とおっしゃってくださる。聖書は運命論を教えていない。祈りは未来を変える。

第三の幻(7-9節)
幻は続く。神様の御心は一度で全部わかるというものではない。求めて、部分的に受け取ってということを繰り返していく中で全貌が明らかになる。下げ振りとは何か?下げ振りは城壁がまっすぐになっているか調べる器具だ。一見すると、他の幻よりも安全そうに見えるが、むしろもっと厳しいものだ。夢や幻で示されるものには、象徴的な意味がある。下げ振りはイスラエルの罪深さを調べるものだ。その結果、「もはや、見過ごしにすることはできない」と主は断言する。つまり、もう執り成しの祈りは通用せず、裁きは先延ばしにできないということ。それで、アモスも今回は執り成しの祈りをしない。北イスラエル王国の罪を裁くということは、神様の決定事項だったので、執り成しの祈りによって回避できなかったのだ。残念ながら、執り成しの祈りによってはどうしようもないことはある。私たちは地獄や患難期がなくなるように祈っても聞かれない。それらは必要であり、決定事項なので、神の義に反してなくしてしまうことはできない。しかし、今や、アモスように執り成しの祈りがむなしくなることは非常に少ない。アモスは北イスラエル王国のために罪の赦しを願った。でも、罪というのは、本来、勝手になかったことにすることはできない。罪は死の刑罰が執行されてはじめて解消される。アモスは罪の赦しの手段も根拠も持っていなかった。しかし、今や、私たちにはイエス・キリストがおられる。この方がすべての罪のために死んでくださった。ローマ8:34。イエス様の執り成しがあるので、私たちの執り成しの祈りはむなしくならない。人々がイエス様ゆえに赦されるように、執り成して祈っていこう。
9節をみると、裁きは特に、北イスラエル王国の堕落の責任を負うべき人々に臨む。偶像崇拝によって堕落した聖なる高台という宗教施設と指導者であるヤロブアム王家だ。祭司と王に責任がある。クリスチャンは王の系統を引く祭司ではないか。国がどうなるかは、特にクリスチャンに負うところが大きいのだ。この国が救われ、弟子となるように祈ろう。

祭司アマツヤとの対決(10-17節)
10-11節。アマツヤは祭司なので、立場上まさにイスラエルの宗教的堕落に責任がある人物だ。ヤロブアムⅡ世にアモスのことを報告している。「この国は彼のすべての言葉に耐えられません」という。アモスの預言に北イスラエル王国の人々がいらだっていたのだ。その返事が来たということは書いていない。つまり、返事が来る前にアマツヤは独断でアモスに対応したということ。それだけにアマツヤの責任は大きい。
12-13節。アマツヤの語る内容は実力行使でアモスを排除するのではなく、一見親切に説得しようとしている。サタンもこのようなやり口で神に仕える人を骨抜きにしようとするので気を付けなければならない。アマツヤは13節で「先見者よ」と呼び掛けている。アモスのことを、霊的賜物を持った人物だと認めている。その上で、「ユダの地へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで」という。ユダの地でなら、何を語っても罰せられることはない。安全だということ。そして、「ベテルでは二度と預言するな」と警告している。
つまり、アマツヤはアモスの預言が耐えがたいので、アモスに自分の聞こえる範囲で預言することをやめさせようとしたのだ。預言者に預言をするなというのは最悪の対応だ。イエス様は御言葉について「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。預言者に預言するなというのは、「私は聞く耳がない」と告白するようなものだ。悔い改めること、実を結ぶことを不可能にする。牧師や他のクリスチャンから戒められたら、耳をふさいではならない。その人をだまらせようとしたり、逃げようとしたりしてはならない。神の子は戒めの言葉にいらだつ必要はない。神の子は罪に定められることはない。罪責感に押しつぶされる心配がない。だから、罪に向き合うことができる。厳しい御言葉も、私たちが悪から守られるため、成長するために語られているのだから、それをキャッチすることができる。キリストに結ばれている者として、御言葉を真正面から受け止める者となろう。アーメン。
14-17節。アモスは職業預言者ではなく、家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者として生計を立てている。「ユダの地で糧を得よ」というのは間違いであると指摘している。アモスはお金のためにベテルで預言していたのではない。実際、北イスラエル王国の人々はアモスの預言を全然聞こうとしなかったかもしれないし、誰も支援しようとしなかったかもしれない。アマツヤの言う通り、迫害の危険もあった。しかし、ただ主が「行って、預言せよ」と言われるので従っているのだ。だから、アモスに預言するなと言うのは、主の御言葉を逆らうことだった。それゆえ、アマツヤ個人に裁きが降る。妻は遊女になる。裕福で贅沢三昧アマツヤの家だが、困窮のあまり妻が遊女に身を落とすということ。子供たちはみんな死んでしまい、嗣業の土地を失う。汚れた土地とは、イスラエル以外の異邦人の地だ。神様の恩恵から遠く離れた地で死ぬことになる。そして、北イスラエル王国全体も、捕囚となることは決定事項だった。御言葉を聞いて悟らない者は、祝福を失う。御言葉に耳を傾ける者になろう。耳が痛くなる御言葉であっても信仰による義を持って、その益となるものを受け取り、悔い改めて実を結ぶ者になろう。

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