ヨセフの破滅に心を痛める[アモス6章]

アモス書
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自分の国が破滅に向かっていることに無関心ではいられません。
確実に、裁きの時はやってきます。その前に、御国をこの地にもたらしましょう。

ヨセフの破滅に心を痛める[アモス6章]


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【ノート】
1-7節は災いが臨む前の人々の様子だ。迫りくる破滅に気づかずに安心仕切っている。これらの有様は、患難期の前の人々の状況と似ている。Ⅰテサロニケ5:3。
1節。誰について語っているか。まずシオンに安住する者だ。シオンはエルサレムのこと。アモスは主に北イスラエル王国に預言しているが、自分の出身の南ユダ王国の首都、エルサレムに対しても呼び掛けている。北イスラエル王国がアッシリアに捕囚として連れ去られるとき、南ユダ王国は守られ、無事だったが対岸の火事に過ぎないと思ってはならないのだ。シオンは安住して、「自分たちは関係ない」とすることは正しくない。私たちも、この北イスラエル王国のことや衰退に向かっている他の国について読むとき、他人事としてとらえるなら、学び、悟り、執り成しがない。もしアメリカや韓国で信仰が衰退したら、日本にも時間差で影響してくることになる。ある教会で不祥事が起きたらそれは神の国の損失である。隣人の惨状を見て学び、悟り、執り成さなければならない。エフェソ6:18。すべての聖なる者たちの中には、他の国々の聖徒たちも含まれる。選挙についても祈る。北イスラエル王国の破滅から学び、同じ轍を踏まないように、信仰を奮い立たせよう。今まさに起きていることなら、執り成すようにしよう。
次に、主はサマリアの山で安逸をむさぼる者らに語り掛ける。彼らは要害に守られ、自分たちだけは安全だと思い込んでいる。さらには、自分たちが諸国民の頭の国として君臨しているとおごりたかぶっている。ヤロブアムⅡ世のもとでの平和と繁栄が、人々に間違った安心感と自負心を抱かせてしまった。教会も、こういう状態に陥ることがありうる。黙示録の七つの教会のうち、イエス様から最も厳しく悔い改めを求められたのは、ラオディキア教会だが、まさにこの時のイスラエルのように高ぶっていた。黙示録3:17。主は高ぶる者の言うことを事実ではないという。高ぶる者は事実がわからずに、勘違いしている。安心感と自負心を持つことが常に間違いなのではない。事実に基づくものであれば高ぶりではない。私たちの安心感と自負心が真実か、高ぶりか、どうしたらわかるか。それは、その安心感と自負心が御言葉に基づくか、そうでないか、これに尽きる。私たちは自分がキリストに結ばれていること、神の子であることに安心感と自負心を持とう。しかし、もし、富や地位にその根拠を求めるならば、それは高ぶりである。

主はイスラエルの高ぶりを打ち砕く。2節。カルネは北アラムの首都であり、ハマト・ラバもアラム人の王国であり、ガトはペリシテ人の首都だ。主は、これらの王国と自分たちを冷静に比較してみることを勧める。「お前たちはこれらの王国にまさっているか。彼らの領土はお前たちの領土より大きいか。」これらの王国の方が優れており、領土が広かった。そう、冷静になって他と比較すると、勘違いに気づき、高ぶりを鎮めることができる。高ぶりを捨てるべく、フィリピ2:3-4を実践しよう。
イスラエルよりも大きな領土を持つ国々が3つ紹介された。これらの国々は全部アッシリアに征服されている。紀元前738年にカルネとハマトが征服され、712年にガトが征服された。これらの国々さえアッシリアに対抗できないのだから、北イスラエル王国は言うまでもなかった。北イスラエル王国は自分の国の要害や軍事力をたのみにすることは愚かなことだった。では、何をたのみにするべきだったのか?御国だ。「御国を来たらせたまえ」と祈り、国を主にささげれば、アッシリアの脅威からも守られることができる。ヒゼキヤ王はそのようにしてアッシリアの軍隊を退けた。患難期には、アッシリアよりももっと恐ろしい反キリストの勢力が世界を覆いつくす。反キリストが立つ時には、アメリカも日本を守ってくれない。すべての国が征服される。その前に、この国の人々が一人でも多く救われるように、今日本に御国が来るように祈り求めよう。
3節。「災いの日を遠ざけとして」と書いてある。災いの日は自分とは関係とか、まだまだ先だと勝手に思い込むのだ。それで「不法による支配を引き寄せている」。つまり、暴虐の限りを尽くすのだ。悔い改めないのだ。悔い改めるとすれば、災いの日の直前に、ぎりぎりで悔い改めればよいということだ。イエス様もそういう人のことを話題に挙げたことがある。マタイ24:48-51。悪い僕の特徴は、「主人は遅い」と勝手に思い込む。つまり、実際にこういうことを言う人だ。「イエス様が空中再臨して、クリスチャンが携挙され、患難期に突入するのはまだまだ先だ。世の中はこのまま永遠のように続いていく。」そして、悔い改めず、霊的に目覚めず、携挙に取り残されて、患難期でひどい目にある。災いの日を遠ざけるなら、かえってそれは近づいてしまう。私たちは、どういう態度をとったらよいのか?いつ主が来られても良いように目を覚ましていればよい。今、悔い改めればよい。今、御言葉に従えばよい。

4-6節はイスラエルがどれだけ安逸をむさぼっていたか。好き勝手に過ごしてきたか。まず、「象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり」とある。象牙の寝台も長いすも贅沢なものであり、横たわり、寝そべりは怠惰な生活を表している。一生懸命働いて良いものを得るのではなく基本的にいつも休んでいて働かない。自分は働かずに奴隷や弱い者から搾取して贅沢をしている。「羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き」毎日豪華なごちそうで贅沢三昧のパーティーを開いて遊ぶことに夢中だということ。「竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考えだす」ディスコに行き、ライブに行き、あるいはヘッドホンで耳をふさいで世の中の音楽に興じる。ぶどう酒を大杯でがぶ飲みして酔っ払う。最高の香油を身に注ぐ。エステサロンで体を整える。何が悪いのか?パーティーが悪いことではないし、遊ぶことや喜ぶことが悪いことではない。神の国は宴会だ。喜ぶことはよいことだ。お酒はほどほどにした方が良いが、結局のところ何が問題なのか?肉のことに夢中になるばかりに、自分の国が滅亡しかかっていることに無頓着な状態だったのが問題なのだ。私たちはキリストに結ばれた者として自分の国の状態を憂う心を持っているだろうか。ほとんどの人々が滅びに向かっている。事態は緊迫している。そして、私たちは彼らを救うのための福音を持っている。福音を宣べ伝えるための力として聖霊様もいただいている。すべての民を私の弟子としてしなさいという大宣教命令は与えられている。あとは、私たちが肉のことをやめて神の国の召命にこたえて立ち上がるだけだ。今こそ立ち上がろう。今こそ福音を宣べ伝え始めよう。あなたが伝えなければ、あなたの家族や友人に誰が福音を伝えるのか。その人たちが滅びてしまっても構わないのか?今こそ決断し、立ち上がろう。

7節。主が贅沢三昧のパーティーを終わらせる。捕囚の列の先頭とある。安逸をむさぼっていた人々が真っ先に捕囚にあう。

8-14節は災いが臨んだ後の人々の様子だ。患難期に似ている。もし、私たちが立ち上がらなかったら、この日本もこういうことになる。
8節。「主なる神は御自分を指して誓われる」とある。誓いは自分よりも偉大な存在に対して誓うことで誓ったことの確かさを保証するものだ。神は御自分よりも偉大な存在がいないので、御自分を指して誓う。神が語られることは皆確かなことだが、その神が誓うのなら、私たちが疑いをはさむ余地がない。確実に破滅が起こる。実際にアッシリアを通して起きた。同じように確実に患難期は来る。そのときは教会がもうないので、すべてのものが敵の手に渡されることになる。
9-10節。5:3では、十分の一しか生き残らないということだったが、ここでは、家に10人いても全員死んでしまうという。主の日の裁きの時には、死者が続出する。ほぼ全滅してしまう。また、かろうじて一人が家に生き残っていても、もう一緒にいる人は誰もいない。そして、主の名を唱えることを恐れる。どうしてか?主の御名を口にすると、主はその言葉を聞いて、臨在なさる。主の臨在は、裁きを受ける人々にとって恐ろしかったのだ。神を恐れずに、おごりたかぶっていたサマリアの人々も、その時にはおそれののくということだ。主の御名を呼ぶことを恐れるというのは、神の怒りのもとにある罪人の典型的な反応だ。しかし、主が「私を求めよ、そして生きよ」と言われたように、本当は、主が来られて裁きを始める前に、主の御名を本気で呼び求めなければならなかった。今やイエス・キリストによって罪は取り除かれているので、私たちはイエス様ゆえに主の御名を恐れずに呼ぶことができる。主の御名を呼ぶ者は誰でも救われる。

11節。神は公平なお方だ。区別をしない。大きな家も小さな家も同じように滅ぼされる。救いについても、神は公平なお方だ。ローマ1:16。裁きが始まる前に福音を宣べ伝えよう。

12節。不可能なことが二つたとえられている。馬が岩の上を駆けることができないだろうか?当時は馬というものは戦車を引いて平地を走るばかりで、岩の上は走れないものと考えられていた。しかし、言ってみれば、イスラエルの支配者階級の人々はそんな不可能と思われるような不条理な悪事をやってみせた。裁きを毒草に、恵みの業をニガヨモギに変えてみせた。人は自分の力だけで、悪について、不可能を可能にする力を持つという。それであれば、私たちは全能の神が善について、不可能を可能にすることを信じようではないか。Ⅱコリント5:17。神にはこれができる。私たちがキリストにあって、古い罪人の自分が死んで、過ぎ去って行方不明になり、キリストのように生きる新しく創造された者にされていることを信じよう。たとえ、今までは自己中心であっても、かたくなであっても、意地悪であっても、怒りっぽくても、貪欲であっても、ねたみ深くても、古いものは過ぎ去り、今や全く違う神の子に変えられている。

13-14節。ロ・ダバルはロ・デバルという町の名前をもじったものだろう。これはヨルダン川の東マハナイムに近い町だ。カルナイ無もヨルダンの東だ。どちらもヤロブアムⅡ世がアラムから取り戻した領土で、この戦勝に北イスラエル王国は酔っていた。しかし、預言者アモスから言わせればそれは空虚、存在しないも同然、何の意味もないことだった。やがてヨルダン川東のギレアド地方は全部アッシリアに征服されてしまう。勝利はほんの一時的なことに過ぎなかった。主を畏れることがなくても、この世で、金持ちになる人はいる。有名になる人はいる。成功者と言われる人はいる。それはほんの一時の勝利に過ぎない。少なくとも、患難期、千年王国、新天新地では、何の意味もない。イエス・キリストが与えてくださる勝利は空虚ではない本物の勝利である。死に打ち勝つ勝利、来るべき世界に通用する勝利である。イエス様にあって勝利し、豊かになろう。

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