主は、実質を伴わない形式的な宗教的儀式を決して受け入れません。
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流し続けましょう。
わたしを求めよ、そして生きよ[アモス5章]
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【ノート】
1-3節。悲しみの歌。歌には、教育的な効果がある。歌は音楽に載せて広い範囲で、世代を超えて大勢が歌い、大勢の耳に入る。歌をつくれば特定の事柄を記憶させ、宣言させ、思い巡らさせることができる。そういう意味で、賛美の歌は一種の預言だ。悲しみの歌は何か?悲劇を覚えさせ、二度と同じ轍を踏まないようにさせる警告だ。悲しみの歌の悲しみは、主の悲しみでもある。主は滅びる者を嘆き悲しむ。マタイ23:37-39。
悲しみの歌の内容は、まず2節ではイスラエルが倒れて再起できなくなってしまうことと見捨てられることだ。倒れるというのは、回復不能なくらい破滅してしまうことを指す。ローマ11:11。つまずくだけなら、回復できる。倒れたら回復できない。イスラエルはより霊的に深刻な状態に陥ったのだ。私たちは倒れて立ち上がることができない状態にならないためにはどうすればよいか?箴言24:16。ここでいう神に従う者とは、義人のことを指している。義人は信仰によって生きる。悔い改めてイエス・キリストを信じ、信仰によって生きる者は決して倒れたままになることはない。何度でも再起することができる。信仰によって生きる者は決して見捨てられることがない。ヘブライ13:5。
3節によると、戦争に出た者のうち、十分の一しか生き残らない。ほとんどの人が死んでしまう。無謀な戦いだ。信仰によらず、肉の力で生きるなら、私たちはほぼ負けてばかりの戦いになる。罪に戦いを挑んでは敗れ、悪霊に戦いを挑んでは敗れ、世に戦いを挑んでは敗れる。勝ち得てあまりあることの逆バージョンだ。信仰によって生きるならばローマ8:37。
4-5節。「わたしを求めよ、そして生きよ」と書いてある。主の御心は悪人が滅びることではない。悪人が悔い改めて生きることだ。悔い改めとは、ヘブライ語ではシューブーで方向転換を意味する。それまで、お金や快楽を求めていたところ、主なる神様を求めるようになるのが方向転換だ。あなたは主なる神様を常に第一としているか?何よりも主を愛しているか?その主との信仰によるつながりが永遠の命だ。ただ、間違っても、ベテル、ギルガル、ベエル・シェバに行ってはいけない。ベテルとギルガルは偶像崇拝や自分勝手な礼拝の象徴。ベエル・シェバはアブラハム、イサク、ヤコブにとってのゆかりの地であり、巡礼地などがあっただろうか。ギルガルは必ず捕えられ移されと書いてある通り、アッシリアによる捕囚が予告されている。目に見える像や物理的な場所に救いを求めても救いは得られない。そういうものは無に帰する。神様が求めているのは、霊と真理による礼拝だ。奥まった部屋でひざまずいて祈ろう。イエス様の御言葉にとどまり、真理を悟ろう。神様が喜ばれる霊的な礼拝をささげよう。
6-9節。「主を求めよ、そして生きよ」と繰り返されている。7節にある通り、イスラエルが裁きと正しいことを曲げているからだ。裁きは、社会の秩序が法によって守られていることを指す。正しいことというのは、この秩序を保つための行動のこと。正しい者を弁護し、不正を罰する。イスラエルではこういう当たり前のことが行われていなかった。これらを変えてしまい、投げ捨てられてしまった。ニガヨモギは強烈な苦みと強い芳香のあるもの。耐えられないほどの苦みがある。主は神の民のそのような状態を放置なさらない。主はすばるとオリオンを造る。つまり、夜空を美しい星座で装う。主の支配には美しさがある。続いて、闇を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の表に注ぐ。これは昼と夜の移り変わりと水の循環についてだが、いずれも世になくてはならない秩序だ。主の支配には美しさと秩序がある。では、神の民の中に秩序がなく、正義が捨てられ、不法がまかり通っている場合主はどうなさるか。
主御自身が正義を執行し、その社会に破滅をもたらす。私たちの中では秩序が保たれ、正義がなされなければならない。Ⅰコリント14:33。ルールに従う。権威を持って立てられている人に従う。親、牧師、先生、上司などに従う。
では、神が特に嘆いておられるイスラエルの無秩序さはどういうところに見出せるか。10-12節。10節でいう公平に扱う者は裁判を司る長老、真実を語る者は証人の一人だ。真理を語る者を憎んではならない。真理を語る者を憎む者はイエス様を憎む者だ。ヨハネ8:40,44-45。聖書でいう正義とは、私たちが自分なりにふりかざす義ではなく、主なる神様の御言葉で示されて神の義だ。御言葉からかけ離れた変な正義、自分なりの正義を振り回す人々がいる。そして、御言葉から正義を語る人がいても退けてしまう。それではいけない。真理を語る人を愛そう。信仰者として、神の義を義として抱く者になろう。「義人は信仰によって生きる」にはそれも含まれる。
不義を行う者の特徴は、弱い者、貧しい者、正しい者に敵対し、賄賂によって裁きを曲げる。すべては自分が贅沢三昧に過ごすためだ。切り石の家というのは神殿や王宮と同じ建て方だ。当時焼いた土の家が一般的で、格別の贅沢だった。一方は不正により贅沢をし、もう一方は正しいのに普通の生活すらできない。私たちは、弱い者、貧しい者、正しい者によりそうようにしよう。そういう人々の側にいつも立つ者となろう。イエス様はそういう者を通して御自身を表す。マタイ25:35-40。小さい者によりそうことで、イエス様に奉仕をする者になろう。
13-15節。知恵ある者たちは神の裁きが近いことを悟って沈黙してしまう。しかし、預言者は沈黙しない。預言者は声をあげる。預言は、運命論ではない。預言を聞いた人々がどう応答するかによって、未来は変わるものだ。アッシリアによる捕囚は確定事項ではなかった。イスラエルには善を求め、悪を求めないことで、生きること、主が共におられるようになること、主の憐れみにあずかることが可能だった。その余地が十分あった。私たちが御言葉にどう応答するかによって、私たちがどうなるかは変わる。祝福されるか、されないか、実を結ぶか結ばないか、決まる。応答して、御言葉の約束が実現するように祈り、宣言していく者になろう。
では、預言に応答しなかったらどうなるのか?裁きの内容が16-17節。国中であまりにも多くの人が死に、葬式が間に合わない。普通、葬式には、専門の泣き女が呼ばれて、泣き悲しむ。しかし、あまりにも葬式が多いので、泣き女を用意できずに、農夫が呼ばれる。ここでいう農夫とは小作人のことだ。イスラエルの金持ちたちは、自分の葬式で、自分たちが搾取してきた小作人の農夫を泣き女の代わりに用いられることになる。
18-20節。主の日の裁きは絶対に逃れられない。主の日は、私たちにとって、患難期を指す。患難期に突入してしまったら、どうあがいても逃げることはできない。その前に、未信者は悔い改めてイエス・キリストを信じる。信じている者は、霊的目を覚まして主が来られる日に備える。そうすれば、携挙されて神の怒りの時から救われることができる。
21-27節。主は単なる宗教的な儀式を一切喜ばない。全く喜ばない。それを遠ざけよと言われる。祭りを憎み、退ける。献げ物の香りも喜ばない。焼き尽くす献げ物は、献身を意味して動物を完全に焼き尽くして献げるもの。穀物の献げ物は感謝を表す。
それも一切受け入れず、顧みない。歌と竪琴の音は、礼拝における賛美の音楽だ。それも主は聞かない。遠ざけよと言われる。単なる宗教的な儀式として、その意味を踏まえずに形式的にささげるならば、主はそのすべてを受け入れない。神様の御心をわきまえない宗教を主は絶対に受け入れない。正義を行わなければならない。しかも気まぐれな正義ではなく、年中流れ続ける大河のように、行い続けなければならない。荒れ野の40年、動物の生け贄は献げられた。しかし、悔い改めや従順を伴わない形ばかりのいけにえは何の意味もないということを言おうとしている。26節ではヘブライ語を見るとケワンだけでなくサクテという偶像が登場する。これらはいずれもメソポタミアの偶像神の名前だ。イスラエルがこれらを仰いだので、やがてダマスコのかなたの地、つまり、アッシリアに捕囚として連れていかれることになる。偶像を仰ぐなら、その偶像の背後に働く悪霊に支配され、奴隷となるのだ。
兄弟姉妹に対してわだかまりがあるのに、聖餐をささげても主はその者を受け入れない。退ける。Ⅰコリント11:27-30。こう書いてあるのに、無分別に聖餐にあずかる者は神の裁きを飲み食いしていると心得なければならない。悔い改めなさい。水のバプテスマを受けるのは、悔い改めてイエス・キリストを主として一生涯をその方にささげるためではないか。悔い改めず、自己中心に生きようとしてながら受ける水のバプテスマに何の価値もない。それはただの水浴びに過ぎない。悔い改めなさい。本気でイエス様を信じなさい。自分なりの義を振り回すのをやめて、神の義に服従し、正義をなす者となりなさい。
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