彼らを滅ぼすことはできない[使徒5:27-42]

使徒言行録
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使徒たちは尋問中にも福音を伝えました。
サンヘドリンは殺気立ちましたが、ガマリエルという尊敬されている教師が発言すると、流れが変わりました。彼の発言にはクリスチャンが倣うべき原則を見出すことができます。

彼らを滅ぼすことはできない[使徒5:27-42]


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【ノート】
27-28節。大祭司の尋問だ。大祭司が語っていることを見てみよう。
まず、大祭司はイエス様の御名を呼ぶことができない。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」。敵はイエス様の御名を恐れている。ところで、「あの名」と呼んでいる。どうして「イエスの名」と呼ばないのだろうか?名は存在や本質や人格を表す意味がある。大祭司はイエス様を信じておらず、イエス様を軽蔑していたので、イエス様の御名を口に出そうとしなかったのだ。救われていない人はイエス様の御名を呼ぼうとしない。これはもったいないことだ。もし、未信者が御名を呼んだらどうなるか?救われる。ローマ10:13。御名には救いをもたらす力がある。御名を呼ぶとき、イエス様御自身の臨在をもたらす。マタイ18:20。イエス様は私たちが御名を呼ぶ声に応答してくださるのだ。使徒たちは、教えるときにも、何となく教えるのではなく、イエス様の御名によって教えていた。イエス様の御名によって教えるとき、イエス様御自身が語るように権威をもって語ることができる。イエス様御自身がその教えの中に臨在して働かれるようになる。語る言葉は命の言葉となる。そして、私たちは、教えるとか、悪霊を追い出すということだけでなく、すべての言動をイエス様の御名によって行うように勧められている。コロサイ3:17。どんな言葉を主イエス様の御名で語る。どんな行動も主イエス様の御名でする。そうすればどうなるのか?私たちの言動のすべてがイエス様のようになる。そして、すべてのことに感謝をするのだ。
次に大祭司は、「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と言った。いや、大祭司は実際にイエス様の血を流した最大の責任者ではないか。ピラトが釈放しようとしたのに、群衆を扇動して十字架につけようと仕向けたのは彼らではないか。ピラトが水で手を洗い「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言ったことにも同意したのではないか。事実、大祭司にはイエス様の血を流した罪の責任があった。しかし、大祭司はそれを認めようとせず、使徒たちの口をふさぐことで責任を逃れようとした。罪の責任を負わないためには、罪の責任を問う預言者の口をふさいでしまえばよいということは昔からなされてきた。それは悔い改めを拒否することだ。神の御声に耳をふさぐことだ。メッセンジャーに「罪や地獄について語るな。もっと耳ざわりの良いことだけ語れ」と要求してはならない。そうではなく、聞く耳を持って御言葉を聞いて、罪を認めて、血潮による赦しと清めをいただく者になろう。

29-32節。使徒たちはまず、はっきりとサンヘドリンの命令を拒否することを宣言している。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」これは、最高権力者であり、宗教指導者でもある人々に対して、「あなたがたの命令は御心に適わないので従いません。」と言っているのだ。「はい」なのか、「いいえ」なのか、何事もはっきりすることは大事だ。主に対しても、敵に対しても、よくわからない返事をしてはならない。よくわからない返事は全部悪いものから出る、悪魔から出ると言われた。迫害者に対しては、断固とした姿勢を取る。どんな脅迫をされても、どんなに偉い人達の命令であったとしても、それが伝道を禁止することであれば、御言葉を宣べ伝えることをやめろということであれば、私たちは「ノーノーノーノー」とはっきり言う者になろう。アーメン。使徒たちは簡単な返事だけしても、おかしくはなかった。しかし、使徒たちはサンヘドリンによる尋問を、彼らに福音を伝えるチャンスとした。イエス様があらかじめそう命じておられた。ルカ21:12-15。裁判で裁かれているときほど福音を宣べ伝える上で悪いタイミングがあるだろうか。ない。これはあらゆる機会をとらえて福音を宣べ伝えなさいということだ。
30節で「木につけて殺した」と書いてある。この木はもちろん十字架のことだが、何で木と表現するのだろうか?これは「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」という申命記の御言葉を意識してのことだ。イエス・キリストの十字架は、私たちが受けなければならなかったすべての呪いを一身に受けるものだった。ガラテヤ3:13。すべての呪いは、キリストが受けてくださった。あなたが受ける呪いはもうない。あなたはもう病気や死の呪い、貧困の呪い、不運の呪い、精神的束縛の呪いに煩わされる必要はない。あなたの呪いはすべてキリストが引き受け、キリストの祝福があなたのものになっている。あなたは祝福されている。そのことを信じるとき、呪いが祝福に変わる。
さらに「イエスを復活させられました。」福音はイエス様の十字架の死と復活に関するものだ。イエス様の復活は罪と死に対する勝利の証明である。イエス様の復活は永遠の命の力の証明である。イエス様の復活は力ある神の子の証明である。石をパンに変えることではなく、復活によってイエス様はそのことを証明してくださった。私たちもイエス様を信じるとき、この復活の姿にあやかる。私たちも、永遠の命をいただいた神の子として罪と死に勝利することができる。
31節。「導き手」というのは、「王子」あるいは「指導者」と訳すことができる。「救い主」は「解放者」と訳すこともできる。イエス様はそういう方として、全能の父なる神様の右の座に座っている。サンヘドリンは自分たちが上に立っているつもりだったが、イエス様の方がはるかに上におられた。イエス様はいつもどんな存在よりも上だ。「悔い改めさせ、その罪を赦すため」と書いてある。福音は罪の責任を負わせるものではない。悔い改めさせ、その罪を赦すためだ。神様の御心は裁くことではなく、赦すことにある。
32節。私たちは自分自身の経験と聖霊様によって福音を証しする。

33-39節。福音を聞いたサンヘドリンの反応を見てみよう。「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」と書いてある。使徒たちが福音を語ってもこういう反応だったこともある。私たちが福音を語って相手が反発したとして、がっかりしないようにしよう。福音には語ることが求められているのであり、それを受け入れるかどうかは相手次第だ。

ただ一人、ガマリエルという人だけは慎重だった。この人はファリサイ派の人だったが、ファリサイ派とサドカイ派の別なく、みんなから尊敬されている教師だった。ガマリエルは三つの点を挙げている。これらはクリスチャンも持っておきたい観点だ。

第一に、使徒たちの行動が神からのものか、人間からのものか、わからない。ガマリエルは、自分にはよくわからないと正直に認めている。使徒たちはすさまじいしるしや不思議な業を行っている。それは誰も否定できない。その一方で使徒たちの信仰はあまりにも自分には馴染みのないものであり、当惑させられる。それで、ガマリエルはどう評価してよいかわからなかった。教師の立場で、わからないと認めることは勇気のあること、謙遜のなせる業だ。本当はよくわからないのに、そう認めたくないがために性急に「わかる」と言い張る人々がいる。そして、自分には神学がある、知識がある、見分ける賜物があるからその判断は正しいに違いないとしてしまう。それは危険なことだ。イエス様に敵対したユダヤ人の中には、本当は霊的に盲目なのに、「見える」と言い張る人々がいた。イエス様はその人たちに何と言われたか。ヨハネ9:41。自分を欺いて性急に「わかる」ということは、罪に定められる危険性がある。無暗に批判して罪を犯してはならない。私たちは、わからないことに出会ったら、「わからない」と認めよう。

第二に、もし人間から出た行動なら自滅するから、放っておけばよい。その根拠として、二つの事例を挙げている。一つはテウダだ。イスラエルには、自称救世主が何人も現れた。テウダはその一人だった。数年前に、テウダという人物がヨルダン川の水を分けて渇いた土を渡るという約束を掲げたがすぐに鎮圧された。その人のことかもしれない。
ガリラヤのユダは熱心党という過激派の創始者となった人物だ。住民登録の目的は、徴税だ。ユダは、神がイスラエルの王だから、税金は神のみに払うものであり、その他の税金は邪悪であり冒涜だと考えた。それで、革命を起こそうとしたが、失敗した。
これらの例から、もし、使徒たちの行動が人間から出たものなら、神の摂理により同じように自滅するに違いないとした。この原理から、私たちは本物か偽者かよくわからない人々に対して、自ら対処する必要が全くないことがわかる。そんなことは時間とエネルギーの無駄だ。毒麦は世の終わりに抜かれるし、反キリストと偽預言者はキリストに滅ぼされる。

第三に、使徒たちの行動が神から出たものなら、彼らを滅ぼすことができないばかりか、神に逆らうことになってしまう。サンヘドリンは本当に教会を滅ぼすことができなかったのか?もし、やろうとしてもできなかったに違いない。使徒たちを全員処刑しようとしても、また天使を通して何度でも脱獄できただろう。仮に何人か投獄したり処刑したりすることができたとしても、別の人々が指導者として立ち上がっただろう。神の御心を行う人々は誰も滅ぼすことができない。ローマでクリスチャンを迫害する皇帝が何人も立ったが、神の教会を滅ぼすことができないばかりか、神の教会がローマ帝国を飲み込んだ。教会が神の御心を行っていたからだ。神の御心を行う人々は決して滅ぼすことができない。宗教改革者のマルティン・ルターも、ローマ・カトリックを相手に滅びなかった。神の御心を行っていたからだ。

40節。サンヘドリンはガマリエルの意見に従いつつも、使徒たちを鞭で打って脅すという余計なことをしている。ガマリエルは「ほうっておくがよい」と言ったのだから、そのまま釈放すればよいのに。ガマリエルが言った通りに、神に逆らう者となり、人間から出た行動をとって滅んでしまったのは、サンヘドリンの方だった。サンヘドリンはキリストを十字架にかけた罪を悔い改めなかったので、紀元70年のエルサレム陥落の時に滅亡することになる。サンヘドリンは使徒たちが語った福音とガマリエルの意見をもっと真剣に吟味して、悔い改めるべきだった。悔い改めない者は皆滅びる。神の御心を行う者は永遠に生きる。

41-42節。使徒たちはイエス様の御名のゆえに尋問され、鞭で打たれたことを喜んだ。それは、イエス様のゆえに迫害される値する者とみなされたという名誉あることだったからだ。イエス様にとって、十字架が最高の栄光だった。イエス様が十字架につけられたのは、それに値する方、つまり罪のない神の独り子だったからだ。神様から十字架に値すると認められたからイエス様は十字架にかけられた。同じように、クリスチャンがイエス様ゆえの苦しむことが許されるというのは、神様からキリストを表す者としてそれだけの苦しみを受けるに値すると認められているからこそ起こることだ。昔の預言者たちと同じ境地に至り、天には大きな報いが待っている。使徒たちは鞭打たれて、「イエスの名によって話してはならない」と脅迫されたけれども、それまで以上に熱心に伝道するようになった。毎日、神殿の境内や家々で教え、福音を宣べ伝えた。どんな迫害も死も、神の御心を行う人を止めることはできない。私たちを止めることはできない。

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