礼拝がすべての問題の根源です。自己中心的な礼拝には価値がありません。
神様は様々な方法で御自分の民を立ち帰らせるためにアプローチをしてくださいます。
自分の神と出会う備えをせよ[アモス4章]
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【ノート】
1-3節。サマリアの婦人たちのことを「バシャンの雌牛」と言っている。バシャンとは、ヨルダン川の東でモーセが倒したオグの王国の領土だ。そこは肥沃な土地であり、家畜を飼うのに適していた。「バションの雌牛」といえば、ものすごく肥え太った雌牛だ。それは、婦人たちの豊かな経済力を表している。お金持ちなのが悪いのか。そうではない。肥え太っているということが問題なのではない。問題は肥え太った雌牛が存在というよりは、肥え太った雌牛がやせ細った牛たちを踏みにじっていたことだ。婦人たちは、弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げた。律法には貧しい者たちを守る規定がある。そういう規定を実際に行使したのは女性たちだったが、その女性たちが律法の精神から逸脱し、欲に溺れて弱者を踏みにじっていたのだ。
お金は私欲を満たすために与えられているのではない。財産とは、神様から預かっているものだ。私たちは、お金を持っていればいるだけ、分け与える責任がある。弱い者、貧しい者をそのお金によって助けるのだ。
さらには、この婦人たちは「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」などと横柄に夫に向かって言っている。夫婦の間では、夫が指導者であり、妻は助ける者だ。しかし、この婦人たちは助ける者としての役割を捨てて、夫を巻き込んで享楽にふけり、足をひっぱる者になってしまっている。アハブを惑わしたイゼベルのような女性だ。このように女性が堕落すると、家庭が崩壊し、国が傾くことになる。家庭の中での婦人の在り方について、Ⅰペトロ3:1-6を見てみよう。婦人たちは、柔和でしとやかな気立てを持ち、夫に従う者になろう。
バシャンの雌牛に対して、主は「厳かに誓われる」。人間のうわいた不明瞭な態度と対照的だ。享楽にふける者たちは、いつまでもこのような日々が続くと夢想する。しかし、主は「お前たちにこのような日が来る」として、もう裁きの日を定めておられるのだ。
どのような裁きか。肉鉤で引き上げられる裁きだ。ここには苦痛と共に、主の憐れみも同時に見出すことができる。肉鉤でひっかけられたら痛い。皮膚がずたずたになる。しかし、主が肉鉤で引き上げるということは、婦人たちは、痛みの中でも、主の方向に引き寄せられるということだ。痛みの中であっても、半ば強制的なものであっても、主に近寄り、主に立ち帰るのであれば、それは幸いだ。主の十字架はそういうものである。自分の罪を認めて御前にへりくだることはプライドをズタズタと引き裂かれるが、十字架の贖いの恵みを知って、罪から解放される。すべての重荷を降ろすことができる。
城壁の破れと書いてある。婦人たちは一見、財産が城壁のように自分を守ってくれているように見えた。それをあてにしていた。今でも自己防衛のためには財産が必要だと叫ばれる。しかし、罪が城壁の破れとなる。不正の富を築いても、破れだらけの城壁のようなものだ。そこかしこにある破れから、主によって引き出される。どこに連れていかれるのか?「ヘルモンの方に投げ出される」とある。新共同訳ではヘルモンと書いてあるが、原語ではハルモンとなっている。どこぞと知れない謎の場所に放り出されることになるということだ。よくわからない場所というのは、それまで築いた富や知識、人間関係では通用しない。そこがどこであれ、そのとき主に頼るかが重要だ。肉鉤で引き上げられる途中に悔い改めて主を信じるか。主が共におられなければ絶望的だが、主が共におられるなら荒れ野でも常にオアシスにいるような安全が保たれる。
4-5節。礼拝の問題に再び焦点があてられる。すべての問題の根源は礼拝にあり、すべての解決も礼拝にある。私たちの人生が祝福されるか、そうでないか、満たされるか、そうでないかは礼拝にある。間違った礼拝、罪の根源となる礼拝がどういうものかについて、見ていこう。
4節では、「ベテル」と「ギルガル」が罪の温床として書いてある。「行け」という命令の後に「罪を犯せ」と命じられているのは強烈な皮肉だ。そこにイスラエルがあえて自分の居住地からそこに行くことは、罪と密接に結びついていたのだ。ベテルといえば、聖所があり、偶像崇拝の中心地だった。それと並行してギルガルが書いてあるということは、ギルガルも偶像崇拝が盛んだったということだろう。かつて、ヨシュア率いるイスラエルがカナンの地に侵入したとき、最初に拠点としたのがギルガルだった。最初の王となったサウルがそこで王権を授与された。しかし、サウルがサムエルにことわることなく、勝手に生け贄をささげるという重大な罪を犯して王位から退けられたのもギルガルだった。ペリシテ人との戦いを前にして、サムエルがなかなか現れず、まだ生け贄をささげていなかったので、本来王としては生け贄をささげる権限なんてないが、ささげてしまった。礼拝というものは、とりあえずささげれば何でも良いというものではない。主が許可していないのであれば、ささげない方がよい。ギルガルといえば自分勝手な礼拝をささげる場所の象徴だと言える。
「三日目には十分の一税を納めるがよい」とあるが、厳密には「三日ごとに十分の一をささげよ」だ。毎朝、さらには三日ごとの礼拝、非常に忙しくて熱心なものだ。しかし、それは主のための主に対する主が喜ばれる礼拝ではない。原語を見ると「あなたがたのいけにえ、あなたがたの十分の一のささげもの」となっている。自分中心の自己満足の礼拝だ。献げ物それ自体も自分のためだ。そして、いけにえの肉を食べるのは、ささげた者たちだ。礼拝よりも飲み食いすることに関心があった。酵母を入れたパンはレビ記に出てくる和解の献げ物と共にささげる和形のパン、あるいは七週祭の時に食べるパンと同じだ。礼拝者はそれを食べることができた。随意の献げ物については「大声で触れ回れ」と書いてある。礼拝者の名声のためだ。礼拝のすべては自分たちのためであり、主はどこにもおられない。それで、「それがお前たちの好んでいることだ」と主は言われる。自己中心の礼拝には何の価値もない。それでいて、当の礼拝者は「私は宗教的な義務を果たしているから、どんな生き方をしても祝福されるだろう」などと思い込んで悪事を重ねるのだ。礼拝にこそ問題の根源がある。自己中心的な礼拝をやめて、神様が喜ばれる礼拝をささげなければならない。
イスラエルを主に立ち帰らせなければならない。そのために主がとられた手段が6-11節。主はイスラエルを災いによって打った。打つのは、主に立ち帰ることを期待してのことだ。打つこと自体が目的ではなく、打って立ち帰らせ、生かすことが目的だ。そして、主が災いを下す手段として様々なものが用いられている。飢饉、天候、疫病、虫害、戦争、火災などだ。これらほとんどは特別な現象とは言えない。ある意味でいつでもどこでも起こりうるごくごくありふれた災いだと言える。しかし、主はそういうことを用いて、選ばれた者たちが立ち帰るために災いを下すことがあるのだ。何事も主の許しなしに起きることはない。だから、何か悪いことが起きたら、「偶然だ」「たまたまだ」と思ってはならない。もし、偶然だと判断したら、罪を告白することができない。悔い改めることができない。イスラエルも「単なる偶然だ」と侮って、主に立ち帰らなかったかもしれない。その結果、最初の災いで気づいて立ち帰っていたらそれだけで済んだのに、5連続の災いすべてを通ることになってしまったのだ。しかも、災いはどんどんエスカレートする。これは仕方のないことだ。目覚ましだって、だんだん音が大きくなるものがある。耳をふさごうとする人にはより大きな音量を聞かせなければならない。小さな災いを侮り、立ち帰ろうとしない人には、壊滅的な打撃を与えてでも立ち帰らせなければならない。最初はパンの欠乏で歯を清く保たせる災い。歯が汚いことにも私たちは感謝が必要だ。でも、欠乏ということだから、完全にないということではなく、命に別条はないものだったのだろう。二番目は旱魃だ。畑が枯れ、飲み水にも事欠いた。しかし、ここにも主の憐れみがあり、別の町に行けば水は手に入らないわけではなかった。三番目は作物の病気と虫害であり、パンと水の欠乏に追い打ちをかける。四番目は疫病と剣だ。ここに来て命が直接脅かされるものとなっている。五番目はソドムとゴモラを襲ったような災いだ。おそらくこれだけは明らかに神様による超自然的な災いとわかる災いだったのだろう。炎の中から取り出された燃えさしとは、ズタボロになりながら、かろうじて命脈を保つといったところだ。こんな目にあってすら「お前たちは私に帰らなかった」というのは人間の底知れぬ頑なさを見て取れる。
何か悪いことが起こったら、主が私たちを立ち帰らせるためになさったことかもしれない。だから、その度に、へりくだって、自分をよく吟味する機会にしよう。もし、何か思い当たることがあれば、主の御前に告白しよう。そして、ひどい目にあったとぶつぶつ不平を言い続けるのはやめて、主に対して感謝と賛美をささげよう。すばらしいことがあったとき、感謝をするのは容易だ。あまり信仰がいらない。しかし、ひどい目にあったときにも感謝をするには信仰を発揮する必要がある。そして、そのような信仰を発揮する者は主に喜ばれて祝福を受け取りやすくなる。サタンは災いにすら感謝する姿を見たら、悔しがり、それ以上何もできなくなる。
どこまでも頑なな者に対して、神様はどうなさるのか。12-13節。「このようにする」「このことを行う」とある。何のことだろうか。何であれ、それゆえに、「お前は自分の神と出会う備えをせよ」とある。あなたは自分の神に出会う備えができているか?その方の御前に立って自分のことを申し述べる準備はできているか?そういう準備ができるのは、毎日その方と交わりを持ち、その方を深く知っている人だけだ。神様は災いによって立ち帰らないイスラエルに対して、より積極的なアプローチをなさるようだ。13節には、「風を創造し、その計画を人に告げ」とある。風は原語ではルーアッハであり、霊という意味がある。神に立ち帰るためには、神の霊の働きが不可欠だ。エフェソ1:17-19。知恵と啓示の御霊を受ければ、私たちは神を知り、神と交わりを持ち、神と顔と顔とを合わせて出会う備えが万端になる。
この章では、サマリアの強欲な婦人たち、偶像礼拝をして道に迷ったイスラエル、5連続の災い、最終手段として聖霊様を与えようとする主についてだった。でも、聖霊様を与えるのはイエス様ではないか。アモスから約800年後、あるサマリアの女がこの恵みにあずかった。ヨハネ4:13-14。ここでいう水とは、聖霊様のことだ。礼拝にこそ問題があるということは、イエス様から伝道されたサマリアの女も、直感的にそれに気づいた。それで、イエス様が預言者だと悟った後に何と質問したか?ヨハネ4:19-20。この直前にしていた話は、サマリアの女が結婚と離婚を5回も繰り返し、今は別の男性と同棲しているということだった。つまり、サマリアの女が抱えている最大の問題についてだった。これはイスラエルが5つの災いによって打たれたことと似ている。イエス様がそれを言い当てた後、サマリアの女はこの質問をしている。つまり、人生の問題の解決は礼拝をどのようにささげるかにあるということだ。
アモスの預言によってサマリアの女たちはその享楽と残忍さを裁かれたが、約800年の時を経てイエス様が伝道したこのサマリアの女は享楽から解放されて本当に充実した人生を送るには、礼拝を正さなければならないと気づいたのだ。サマリアの女は何度も結婚の期待を裏切られ、恥にまみれた末、心を貧しくされ、自分の神と出会う備えができていた。
サマリアの女がこの山として指したのは、ゲリジム山だ。ゲリジム山はサマリア地方にある。モーセは申命記で、祝福するためにゲリジム山に、呪うためにエバル山に登るように命じた。ゲリジム山は祝福の山として、サマリア人の聖地となり、礼拝が行われ続けたのだった。サマリアの女は、イエス様が本物の預言者なら、エルサレムの神殿礼拝にもっと正統性があるのかもしれないと思って聞いた。確かに律法に照らせば、エルサレムにもっと正統性がありそうだ。しかし、イエス様の答えはどちらでもなかった。そして、イエス様の答えこそが、アモスが語った間違った礼拝に代わる、主が喜ばれる礼拝だった。ヨハネ4:21-24。
霊と真理によって礼拝する者を父なる神様が求めておられる。真の礼拝者を求めておられる。父なる神様から求められるということは何と光栄なことだろう。すべてをお持ちのはずの神様があえて「私にはあなたのことが必要だ」と言われるのだ。霊と真理によってとはどういうことか?
霊と真理による礼拝は、空間と時間を超越した礼拝だ。サマリアの女はゲリジム山かエルサレムかと考えたが、霊と真理による礼拝は、いつでもどこでも可能であり、それと同時に、人生全体を通して常にささげるものだ。今や私たち自体が聖霊様を宿す神殿であり、この人生を通して絶えず礼拝がささげられ続ける。真理の御霊が霊と真理による空間と時間を超越した礼拝を可能にする。
霊と真理による礼拝は、私たちの存在の中心である霊による礼拝だ。人間は霊、魂、肉体によって構成されるが、霊が私たちの本体だ。霊である私たちは魂を持っていて、肉体を着ている。その存在の中心から来る真剣な礼拝が霊による礼拝だ。霊による礼拝は情熱的だ。霊が魂と肉体をも動かし、存在のすべてを持って礼拝する。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、つまり全力でささげるものだ。
霊と真理の礼拝は、正しい情報に基づく礼拝だ。神様に対する御言葉による知識に基づくのだ。神様がどのようなお方であり、どのようにその方に近づけばよいのか、その方は何を喜ばれるのか、御言葉を通して知っていくのだ。そのために、礼拝では聖書のメッセージが語られる。
真理のない霊は、軽薄で感情的な体験になり、麻薬や魔術やオカルトのように単なる恍惚状態を求めるものになってしまう恐れがある。また、霊のない真理は退屈であり、律法主義的になる。どちらもあわさって父なる神様が求めておられる礼拝となる。イエス様を信じてそのような礼拝者として生きるとき、私たちは本当に満たされる。幸せになる。世の虚しいものから解放されて自由になる。人目を気にすることなく、神様から愛され、受け入れられている者として堂々と生きることができるようになる。しかも、その状態は、24時間365日、どこにいても、聖霊様が共におられるので、続いていく。
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