永遠の命は、私たちに神のように生きる力を与えます。
永遠の命の力
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【ノート】
■永遠の命の探求
永遠の命は、人類が長らく探し求めていたものだった。人間は最初、それに手が届くところにいた。エデンの園の中央には、命の木が生えていた。それを食べて永遠に生きるものとなることができるはずだった。しかし、人間は食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木から食べて罪を犯して、園から追放され、すんでのところで永遠の命を得る機会を逃してしまったのだ。なんともったいないことをしたことか。命か、死かという選択で、人間は愚かにも神に背いて自ら死を選ぶという選択をしてしまった。
それからというもの、異邦人もイスラエルも、共に永遠の命を求めるようになった。コヘレト3:11。異邦人も含めてすべての人の心には永遠を求める思いがある。異邦人はこれを神と関わりのない方法で求めようとした。秦の始皇帝は永遠の命を求めた。「これぞ永遠の命をもたらす霊薬です」として献上されたものを飲んだが、それは水銀であって、かえって死ぬのを速めてしまった。イエス様は「たとえ、全世界を手に入れたとしても、自分の命を失ったら何の得があろうか」と言われた。秦の始皇帝は、中国を征服しても本当に求めていた永遠の命を得ることができなかった。今や科学の力で永遠の命を求める風潮がある。遺体を冷凍保存して、将来、科学の力で復活しようという試みだ。別に新しい発想ではない。エジプトのミイラだって、同じような発想で、保存されていたのだ。
それでは、イスラエルはどうやって永遠の命を得ようとしていたのか。イスラエルはそのヒントが聖書にあると考えた。それは正しい。聖書にこそ答えがある。しかし、イスラエルは聖書に書いてある掟をすべて文字通りに守れば永遠の命が得られると考えた。このような考えを律法主義という。これは間違っていた。罪人が正しい人として生きることはできない。ローマ3:20。それでは、聖書は永遠の命を得る方法を何だと指示しているだろうか?ヨハネ5:39-40。永遠の命を得る方法はイエス・キリストにある。イエス・キリストを信じる者は皆、永遠の命を得ることができる。
つまり、今でも私たちの人生には、エデンの園と同じように、命と死の二つの選択肢が置かれているのだ。ローマ6:23。さあ、私たちはどちらを選ぶか、命と死のどちらを選ぶか。当然命を選ぶことだろう。しかし、サタンはあれこれと言って、死を選んだ方が良いかのように私たちを欺こうとする。私たちはその手に乗ってはならない。断固たる決意を持ってイエス様を信じて命を得る者になろう。
■永遠の命を持っているか?
それでは、私たちはすでに永遠の命を持っているのか?それともまだ持っていないのか?将来与えられるものなのか?この点について、確認しておかなければならない。もし私たちが何か貴重なものを持っていたらそれがちゃんとあるか確認しなければならない。ふところに大金を入れて持ち歩いていたら、何度もちゃんとあるか確認するだろう。ましてや、永遠の命を持っているかどうかはちゃんと確認しなければならない。でも、どうやって確認するのか?私たちの感覚や気分か?それは上下動して曖昧なものだ。聖書だ。永遠の命を得る方法は聖書に書いてあると先ほどもお伝えした。ヨハネ3:16。独り子とはイエス・キリストのことだ。イエス・キリストを信じる者はどうだと書いてあるか?「一人も滅びないで永遠の命を得る」と書いてある。つまり、イエス・キリストをちゃんと信じてさえいれば、例外なく永遠の命が得られるということだ。では、いつ得られるのか?Ⅰヨハネ5:13。「得ている」と書いてある。もう持っているのだ。
■永遠の命の力
では、永遠の命を得ていると何がすばらしいのか?
永遠の命を得ているということは、絶対に地獄で滅びず、天国に行けるということだ。ヨハネ5:24。ここでは信仰によって生じる、現在得ているもの、未来における約束、所属の変化が書いてある。私たちは、現在、永遠の命を得ている。すでに得ている。そして、未来においては裁かれることがない。これは、地獄行きの審判が下ることが決してないということだ。そして、所属の変化は死から命へと移っているということ。第二の死とも言われる地獄とは何の関わりもなく、天国に行けるということだ。私たちは、キリストを信じる前には死んだら地獄で永遠の刑罰を受けなければならないものだった。終わらない苦しみが待っているはずだった。しかし、今や死んだら天国が待っている。なぜ天国に行けるのか?良い行いをしたからではない。もし、自分の正しい行いに頼るなら、キリスト以外誰も天国に行ける資格はない。キリストが私の罪のために十字架で死んでくださったので、私は天国に行けるのだ。でも、サタンが来て永遠の命を奪われてしまい、天国に行けなくなることもあるのではないか?それはない。ヨハネ10:28。もし奪われてしまうなら、永遠の命ではない。永遠の命は、永遠だ。
永遠の命を得ているということは、魂の渇きが満たされるということだ。ヨハネ4:14。この水とは聖霊様のこと。聖霊様が内におられると、私たちの魂の渇きを完全に満たすことができる。サマリアの女は異性との関係でそれが満たせると思っていた。しかし、ある男性と結婚しても満たされなかった。そこで結婚と離婚を繰り返したが、何度やってみても、満たされなかった。世のどんなものでも魂の渇きは満たせない。ただ、聖霊様によってもたらされる永遠の命だけが完全に満たす。
永遠の命を得ているということは、父なる神様と主イエス・キリストとの永遠の交わりにあるということだ。ヨハネ17:3。知るというのは、知識的に知るということではなく、体験的に知るということ意味する。有名人のことはテレビやインターネットや人からの話で知識的に知ることはあっても、個人的に関わらなければ、体験的に知るということはない。永遠の命を得る前までは、神様を知識的にしか知らず、体験的に知ることができていなかった。知識的に知るということだけだと誤解をしてしまうことが往々にしてある。個人的に関わったら、公の場では最高の人だと見えていたのに、実は性格がものすごく悪い人だったという事例もあれば、怖い人だと思っていたのに、実は優しい愛のあふれる人だったということもある。知識的に知るというのは全くあてにならない。神様とは、交わりを持たなければどういう方かわからない。永遠の命とは、御父と御子との永遠の交わりだ。私たちはいつでも祈ることで、神様と親密な交わりを持ち、神様をよく知ることができるようになる。そうすれば、サタンが植え付けた悪い神観はすべてぬぐいさる。神様のことをどれだけ誤解していたか、想像していたよりもずっとすばらしい方だったかということに気づくようになる。
そして、神様との交わりこそが私たちを最も生き生きさせるものだ。人はなぜSNSをするのか。人とのつながりが持ちたいからだ。なぜ学校に行くのか。勉強をするだけなら家でもできるではないか。人とのつながりが必要だからだ。なぜ教会に行くのか。信じるだけなら家でもできるではないか。愛の交わりに価値があるからだ。交わりは人生のすべてであり、私たちは生きていけない。そして、神様はその交わりを永遠に完全な形で与えてくださるのだ。神様は切っても切れない交わりを与えてくださる。ヘブライ13:5。神様は永遠の愛で私たちを愛してくださる。ヨハネ3:16。これは永遠に変わらない愛で愛してくださるということだ。
永遠の命を得ているということは、神のように生きる力が与えられているということだ。永遠の命とは、神の命のことだ。生き物は、どのような命が与えられているかによって生き方が決まる。鳥は鳥の命を持っているので、空を飛ぶ。羊は羊の命を持っているので、羊飼いに従う。神の命が与えられているということは、神のように生きることができるということだ。Ⅰヨハネ3:9。罪を犯さない。その性質に反することはできない。
イエス様のように罪人を愛する者となる。イエス様のように赦す者となる。イエス様のようにへりくだって、父なる神様に仕える者となる。イエス様のように病人を癒し、死者を生き返らせ、悪霊を追い出すことようになる。神の命が与えられているので、自然にそのように生きることができるのだ。
永遠の命を得ているということは、増えることができるということだ。単細胞生物から人間のような複雑な生物に至るまで、命を持つ存在に共通して備えられている能力は、増えるということだ。しかも、別の存在を生み出すのではなく、自分のコピーのような存在、自分とよく似た存在を生み出すことができる。永遠の命を持つ者は、永遠の命を持つ者を増やすことができる。どうやって?御言葉を語ることによってだ。ヨハネ6:63。御言葉は命をもたらす。パウロは御言葉を語り続けることによって多くの命を生み出してきた。ガラテヤ4:19。永遠の命を持つことが増えることは御心に適う。主は私たちに「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われた。命の御言葉を語り、命を持つ者たちを増やしていこう。
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