二本の後足と片耳の救い[アモス3:9-15]

アモス書
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選ばれた者は、それにふさわしい歩みをすることが求められます。

二本の後足と片耳の救い[アモス3:9-15]


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【ノート】
イスラエルは神から選ばれたにもかかわらず、その選びにふさわしく歩まなかったため、預言者アモスを通して罰が与えられることを予告された。主はこのように、御自分の愛する子供を鍛錬のために鞭打つということがある。ヘブライ12:4-8。ここでいう鍛錬とは何のための鍛錬か?4節に書いてある通り、罪と戦って血を流すまで抵抗するための鍛錬。罪に打ち勝つための鍛錬だ。そこでは鞭が用いられる。血を流すとある通り、主に従えるようになるまで手痛い打撃を被ることはある。クリスチャンはすべての罪が赦されているが、罪を犯したら祝福されないということを学ばせるための教訓として、神様から手痛い打撃を被ることがある。それは、神様が私たちを愛していないからではない。それは神様が私たちを自分の子供として愛しているからこそすることだ。彼らの選ばれた者としてふさわしくない性質と、罰の内容を見てみよう。

9-11節。主は、アシュドドつまり、ペリシテ人とエジプト人の砦の兵士たちにサマリアのひどい状態を見に来るように呼びかけている。異邦人の目から見ても、サマリアでは狂乱と圧政が行われ、不法と暴力が積み重ねられているのだ。異邦人すらも、あまりの悪が行われていることを見て、正義感を持って罰を下さなければならないと思うほどの状態なのだ。「敵がこの地を囲み、お前の砦を倒し、城郭を略奪する」と書いてある。この罰は最終的にアッシリアを通して実現することになる。イスラエルは異邦人も嫌悪するほど悪に満ちてしまっていた。こんなことはあってはならないことだ。選ばれた者と異邦人の間では、悪い意味での違いではなく、良い意味での違いがなければならない。神様がその人と共におられることによる違いがなければならない。神様が共におられる人が、そうでない人と同じなわけがないのだ。
本来、神に選ばれた者は、特別な清さ、特別な正しさを備えていなければならない。イエス様はクリスチャンを地の塩、世の光と言われた。マタイ5:13-16。塩気や光は、イエス様への信仰によって与えられるクリスチャンとしての良い性質だ。塩には防腐作用がある。塩には味がある。クリスチャンがそこにいることで、本来は腐りきっているはずのこの地が、腐らずに済む。何の価値もない無味乾燥なはずの地が、味が出る。好ましいものになる。クリスチャンがそこにいることで、人々は希望の光を見て、神様をたたえずにはいられなくなる。クリスチャンは、このサタンが支配する堕落した世界が、それでも正常に保たれるためにはなくてはならない存在なのだ。あなたはこの地上になくてはならない存在だ。そのような者と御自分のことを認識して、あなたは生きているか?塩気や光を持っているか?持っている者になろう。持っている者になろう。

12節。「羊飼いが獅子の口から二本の後足か片耳を取り戻すようにイスラエルの人々も取り戻される」とはどういうことか。取り戻されるというのは救出されるという意味の言葉だが、家畜の足や耳だけを獅子の口から取り戻したとしたら、その家畜は無事だと言えるだろうか?決して無事ではない。体の端っこを除いて、ほとんどの部分は引き裂かれてしまっているということだ。これは、イスラエル全体のほんのわずかな人々、特に貧しい者や身分の卑しい者だけが救われ、残りの中流や上流階級の人々や指導者層にあたる人々は壊滅状態になるということを意味している。彼らの選ばれた者にふさわしくない問題として書いてあるのは、「豪奢な寝台やダマスコ風の長いすに身を横たえている」ことだ。これはどういうことか?選ばれた者は、傍観者ではない。人に仕えてもらう者ではない。怠惰な者ではない。むしろ、選ばれた者は、御言葉によって奮い立たされ、神様から与えられた使命のために全力で走り続ける者だ。フィリピ3:13-14。
イエス様は神の独り子だ。誰もがその方であれば仕えてもらう権利があると認める身分の方だ。しかし、この世におられたとき、豪奢な寝台とは無縁だった。「狐には穴があり、空に鳥には巣がある。しかし、人の子は枕するところもない」とイエス様は言われた。椅子に身を横たえることとも無縁だった。最後の晩餐の席、イエス様こそが主賓だったのに、真っ先に立ち上がって、弟子たちの足を洗ったのはそのイエス様だった。選ばれた者たちは使命を果たすのに忙しい。選ばれた者たちは走る、走る。もし、あなたが傍観者のような立場に自分の身を置いているなら、あなたは自分が何者として召されているのかわかっていない。あなたは、ポップコーンを食べながら映画を観るかのように、牧師が、他のクリスチャンが献身するのを鑑賞するためにこの世にいるのではない。あなたは他のクリスチャンの歩みについて採点する試験官ではないし、面接官でもない。今まで自分が築いた功績を眺めて自己満足にふけり、怠惰をむさぼるのもあなたがすることではない。椅子にゆったりと座っている場合ではない。私たちは、御言葉を聞いて席から飛び上がって、御言葉に後押しされて遣わされている場所で主の業を行うのだ。私たちは選ばれた者なのだから、私たちこそがある意味主役であり、主体性を持って生きるように定められているのだから、この世の最後の日まで走るのだ。もちろん、人生を楽しもう。喜びをもって励もう。感謝をささげよう。満足することを覚えよう。休むことも大切だ。でも、選ばれた者は、寝台や長いすの人生ではなく、走る人生だ。

13-15節。ベテルとは何か。北イスラエル王国の初代王、ヤロブアムは南ユダ王国中心の神殿と祭司制度によって人々の心が南ユダの方に行ってしまわないために、自分で勝手に別の宗教のようなものを造ってしまった。その象徴として金の子牛を二体造り、一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。金の子牛は二体つくられたが、特にベテルの方がメインだったようで、ヤロブアムはベテルの祭壇で儀式を行った。金の子牛といえば、イスラエルが荒れ野で十戒を受け取ったばかりの時に、モーセがいないからといってアロンが勝手に造って拝んでしまったものだ。その偶像崇拝の罪をヤロブアムはまた繰り返したのだ。堕落した人間には、自分勝手に神を造ろうとする性質がある。自分の願望を何でも認めてくれる都合のよい神がほしいのだ。自分がコントロールし、意のままにする都合のよい神だ。もちろん、そんなものは神ではないのだが、そういうものを拝むことで自分を偽るのだ。偶像崇拝は、創造主なる神、正義の神、完全な神に対する反逆の意思をまざまざと示すものだ。ベテルの祭壇は、イスラエルの罪の根源だった。しかし、北イスラエル王国の歴代の王は誰一人この祭壇を取り除こうとはしなかった。そこで主が罰を下すのだ。祭壇の角とは、それをつかむ者の安全が保証されると信じられていた。それを折るとは、祭壇による救いの道を主が否定しておられるということだ。
主は、偽りの宗教による救いを否定しておられる。何を信じても救われるのではない。人間が造った宗教に救いはない。人造宗教は神への反逆である。神は唯一であり、救い主はただイエス・キリストだけだ。ヨハネ14:6。そして、イエス・キリストを信じる信仰についても、聖書の通りでなければならず、偽りがあってはならない。偽りの信仰に救いはない。聖書に登場する代表的な異端は律法主義と無律法主義だ。救われるためには、正しい行いや律法を守ることが必要だと考えてはならない。そうすることは、イエス・キリストの十字架の贖いの完全さを否定することだ。それと同時に、もう救われているのだから、どれだけ罪を犯しても問題ないと考えてはならない。「神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです」と書いてある。どちらも異端であって、偽りの信仰には救いがなく、罰がくだることになる。
ベテルが偶像の家ならば、冬の家、夏の家、象牙の家、大邸宅は罪人の家だ。それらの家は立派だが、立派ではない行い、不法によって築いた富によるものだ。それら打ち壊され、消え失せてしまう。どのような立派な家を建てても、打ち壊され、消え失せてしまうようでは空しいことだ。新約聖書を読むなら、私たちはこの地上に物理的な形で家を持たないということがわかる。「何を食べるか、何を飲もうか、何を着ようか思い煩うな」とイエス様は言われた。神が必要を満たしてくださるからだ。しかし、イエス様は「どこに住もうか思い煩うな」とは言われなかった。また、使徒パウロは「食べる物と着る物があれば満足すべきです」と書いているが、「住む家」には言及していない。なぜか、地上に私たちが恒久的に住む家などそもそもないからだ。不法によって立派な家を建てるということは、自分の人生がそもそも旅人であり、仮住まいの身だということが全然わかっていないのだ。私たちが住むべき家は天にある。そこにこそ、盤石な家を築くべきだ。でも、どうやって私たちは天に盤石な家を築けるのだろうか?私たちはこの地上の人生によって、天の家を建てるのだ。それはイエス様の御言葉を聞いて、行うことによって可能だ。イエス様は山上の説教の締めくくりでそのことを語られた。それまで語られた教えが何のためのものか、どういう違いをもたらすのかを最後に説いたのだ。マタイ7:24-27。地上にいつまでも住むべき家はないのだと心得よう。そして、この人生で御言葉を行っていくことによって、立派な家を天に建て上げていく者になろう。アーメン。

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