神殿の境内で説教していた使徒たちは逮捕され、投獄されましたが、主の天使によって牢から助け出されました。牢から出た彼らに命じられたことは、また神殿の境内に行って、民衆たちに命の言葉を残らず告げることでした。
命の言葉を残らず告げなさい[使徒5:12-26]
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【ノート】
12節。教会ではしるしや不思議が続けて行われていた。誰によって行われたか?使徒たちだ。使徒たちがいるとしるしや不思議が起こる。後で使徒たちから手を置いて建てられたステファノやフィリポもしるしや不思議に用いられたが、それは使徒たちからのインパーテーションによるものだ。使徒言行録も、使徒たちがいなかったら書かれなかったはずだ。使徒たちは教会には不可欠だ。それは今も同じだ。今も、使徒たちは教会に必要不可欠だ。
一同は心を一つにして、ソロモンの回廊に集まっていた。つまり、神殿の一角を集会場にしていた。これがどれだけ大胆なことかわかるだろうか。4章でサンヘドリンから脅迫されたばかりだった。神殿はサンヘドリンの議長である大祭司や議員のサドカイ派の人々の管轄だった。使徒たちも教会全体も、少しもサンヘドリンの脅迫に屈していなかった。
どうして使徒たちはリスクがあるとわかっていながら、神殿での集まりを続けていたのか。使徒たちのこのやり方は、イエス様から踏襲されたことだ。イエス様は宗教指導者たちから指名手配されていることを知っていながら、エルサレムで活動するときには、いつも堂々と神殿で教えられた。神殿は、父なる神様の家であり、つまり自分の家でもあるのだから、神の独り子であるイエス様が家で活動するのは当たり前のことだった。そして、イエス様を信じて神の子になった人たちにとっても、神殿は父なる神様の家であり、自分の家でもあるので、自分の家で活動するのはごく自然なことだったのだ。実は神殿に対して大した権威もないのに私物化してしまっていたのは、大祭司やサドカイ派の人々の方だったのだ。私たちは、神から自分たちに権威が与えられ、領分とするところについて、誰に何と言われようともひるんではならない。イエス・キリストへの信仰は、神から与えられたもの。教会も神から与えられたもの。賜物も神から与えられたもの。人からなんだかんだ言われたからといって、私たちは「これは神から与えられたものであり、神以外だれも私からこれを奪う権利はない」として保持し続けよう。
13-14節。多くの人々が教会にあこがれを抱き、称賛をした。しかし、仲間に加わろうとはしなかった。これは使徒2:47とは違った。反応だ。使徒2:47の時には、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあり、仲間に加わろうとしなかったというのは書いてない。なぜ、人々は仲間に加わることを躊躇したのか?明らかに大祭司たちににらまれることを恐れてのことだ。信じたいけど、迫害を恐れて信じられなかった。彼らはイエス・キリストを信じることによる利益と不利益をはかりにかけた結果、不利益の方がまさり、一歩踏み出すことができなかったのだ。でも、どうだろう。もし私たちが御言葉によって真理を知った上で、イエス・キリストを信じることによる利益と不利益を天秤にかけたらどうなるか?誰がやったとしても、毎回利益の方が圧倒的に重くなり、不利益と言えるほどのものはほとんど何も存在しないに等しいという結果になる。なるほど、不利益は迫害か。迫害についてキリストは何といわれたか。マタイ5:11-12。では、迫害の上、死んでしまったら?フィリピ1:21。私たちの利益とは何か。ヨハネ5:24。私たちはイエス・キリストを信じることによって永遠の命を得ている。御父と御子との永遠の交わりであり、天国だ。これに匹敵しうる不利益は何もない。だから、イエス様を信じることによる利益と不利益をはかりにかけて、不利益の方がまさることがあれば、それは間違った認識を持っているからであり、真理を知らないからだ。キリストとキリストの御言葉は信じて従った方が良いに決まっている。アーメン。
でも、14節を見ると、それでも、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とある。あれ、仲間に加わろうとしなかったのではないのか。そのはずだけれども数が増えている。いったいこの人たちはどこからきたのか?人々は仲間に加わろうとしなくても、自分の意思では逆らうことができないような圧倒的な恵みに屈服したのだ。ヨハネ6:44。人がイエス様を信じるときには、父なる神様による引き寄せが必ずあるとわかる。そうでなければ信じることができない。逆に、父なる神様が人々を引き寄せようと力強く引っ張るのに、人間がそれに抵抗して「信じるものか」と歯を食いしばって耐えることができるだろうか?絶対にできない。そのようにして教会の人数はますます増えていった。そのために用いられているのが、しるしと不思議だった。そのように、私たちも主が圧倒的な恵みによって人々を引き寄せてくださる教会だ。
15-16節では、この時に初代教会で起こっていたしるしの一例が取り上げられている。これこそ、初代教会のしるしのハイライトであり、最も目覚ましい例だといえよう。15-16節。まず、しるしの規模を見てみると、エルサレム中とその周辺の町からも病人や悪霊にとりつかれた人々が連れられてきた。その人たちが大通りに運ばれて担架や床に寝かせて並べられた。数え切れないほどの人数が癒しを求めて集まってきていたのだ。それは、使徒たちがイエス様の御名で癒しや悪霊の追い出しをしていたという噂が広まっていたからだろう。
そして、しるしに用いられたのはペトロの影だ。その結果、一人残らず癒された。そこには末期ガンの人もいただろうし、コロナの人もいただろうし、手足が不自由な人もいただろうし、何千匹もの悪霊に取りつかれている人もいただろうが、全員が例外なく癒された。神様の御心は、このように、どのような病でも関係なく、全員が例外なく癒されることだ。あなたはどんな症状でも関係なく、必ず癒される。
影に触れるだけでも人々は癒された。これは全く新しいことだ。似たしるしとしては、イエス様の衣の裾に触れた人々が皆癒されることがあった。この後の出来事としては、パウロがテント造りのために使っていたてぬぐいや前掛けに触れた人が皆癒されることになる。聖霊のバプテスマによるものだ。でも、影が用いられるというのはここだけだ。なぜ影なのだろうか?別に影に特別な力があるわけではない。癒しには何等かの形で信仰が働く必要がある。ここでは、影に触れるということが、信仰が働く上で用いられているのだ。影とは実体を指し示すものだ。コロサイ2:16-17。律法は影に過ぎず、実体はキリストにある。でも、影は実体であるキリストを指し示す存在ではある。もし、実体としてキリストを認識しながら律法に触れるなら、旧約聖書の律法を通してもキリストの恵みが流れる。ペトロの影は、ペトロの実体を指し示すものであり、ペトロの内におられるキリストや、ペトロに与えられている神の権威を意識して影に触れるなら、その影からも恵みを受け、癒しを受け取ることができるのだ。
神様が一気に人々を癒す方法として影という画期的な方法をとってくださった。もし、そこにいた一人一人のために手を置いて祈ろうとしたら、どうだろうか?時間がいくらあっても足りない。でも、影に触れるだけで癒されるなら、ペトロが通るところに人を並べておけばみんな癒されるので、時間と労力を大幅に短縮できる。
17-18節。宗教指導者たちは、今度は使徒たち全員を逮捕して投獄してしまう。その動機は、ねたみに燃えたことだ。正義感に燃えたからではなく、あくまでも自己中心的な動機だった。前回ペトロとヨハネを尋問したときは、生まれつき足の不自由な人がイエス様の御名で癒された事実を前にひと言も言い返せなかった。
今度はエルサレム中や近隣の町の癒された人々が、イエス様の御名で癒されたことを証言できる状態になっている。ますますひと言も正しいことは言い返せない。しかし、ねたみに燃えたので、とにかく力にものを言わせて使徒たちを逮捕投獄したのだ。イエス様は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた。力で人を強制的に屈服させようとする人たちは、やがてより大きな力の前に屈服せざるを得なくなる。それでやがてローマの軍隊によってこの人たちの権力基盤は根こそぎにされ、サドカイ派は完全に滅び去ることになる。もし、彼らがイエス様を、あるいは使徒たちを受け入れていたらそうはならなかっただろう。
使徒たちは主に従って働きをしていたので、使徒たちのことは全部主が責任を持ってくださる。19-21節。主の天使が夜中に来て牢から使徒たちを連れだした。牢から解放されて自由になった。命を救われた。でも、主の天使たちは意外なことを言う。主の天使たちは「逃げ出しなさい。ほとぼりがおさまるまで隠れていなさい」とは言わない。そうではなく、「行って神殿の境内に立って、命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言うのだ。そんなことをしたらまた逮捕投獄されてしまうだろう。しかし、主が言われることに対して、使徒たちはすぐさま従順して神殿の境内に行った。私たちがイエス様によって罪から解放され、救われて永遠の命が与えられたらどうすればよいか?命の言葉を残らず伝えればよい。そのためにこそ、自由が与えられているのだ。
命の言葉を残らず伝えるということは、緊急性がある。それは、永遠の破滅に向かっている人々に、永遠の命をもたらす言葉であり、他の方法では決して永遠の命が得られないので、緊急性がある。もし緊急性がなかったら、主の天使は牢から出てすぐにこんなことを命じなかっただろう。人の命はいつどうなってしまうかわからない。いつその人が神様の御前に立つことになるかわからない。私たちは、救われていない人には、一分一秒でも時間を無駄にすることなく、伝えなければならない。
また、命の言葉を残らず伝えるには、時間もそれなりにかかる。残らず語りなさい、と天使が言ったということは、神殿の境内にいる人たちの大多数は、命の言葉をすでにいくらか聞いていたのだ。ただ、残らず、十分に聞くということができていなかったのだとわかる。福音をAからZまでしっかりと説明しようとしたら、それなりに時間がかかる。人間の罪について、キリストの死について、復活について、信仰について、義とされることについて、教会について、祈りについて、聖書について、聖霊について、世の終わりについて、説明しようとしたら時間がかかる。時間がかかっても、面倒に思ってはならない。福音を要約すれば、ほんの5分で説明することもできるが、それで終わりにしてはならない。命の言葉を残らず告げることが御心だ。そうするためには、自分自身が残らず聞くことと、聞いたことを残らず語ることが必要だ。火曜日の弟子訓練の時間で様々なテーマで学んでいるのは何のためか。残らず聞き、残らず語る準備ができるようにするためだ。私たちは時間をかけて、私たちは残らず聞き、残らず告げる者になろう。
使徒たちは、夜中に主の天使から解放されたが、その足ですぐに神殿の境内に行って、夜明けから教え始めた。大変なことがあったのだから、一休みしてから活動を再開しようとは言わない。すぐに従順するのだ。主から何かを命じられたら、四の五の言わずすぐさま従順する者となろう。そして、境内に行って夜明けから教え始めたということは、夜明けから耳を傾ける人々がそこにいたということでもある。夜明けから主の御言葉に耳を傾ける飢え渇きを求めよう。ディボーションをし、主の御言葉を求めるのだ。
22-26節。さて、使徒たちの邪魔をする人たちは、とらえに行ってみたら牢に行っても使徒たちがいなかったということで思いまどった。そして、境内にいて民衆に教えていると聞いた。そこで、人を差し向けてもう一度逮捕した。結局使徒たちは逮捕されたのだ。神様はこのことから何を教えようとしておられるのか?神の言葉は鎖につないでおくことはできないということだ。このことはパウロも証言している。Ⅱテモテ2:9。神の言葉は人に解放を与え、救いを与えるもの。仮に、それを宣べ伝える人々を鎖につないだとしても、神の言葉を封じ込めることはできないのだ。神の言葉は、サタンがどれだけ抑えつけたとしても、必ずや日本全国に告げ知らせられることになる。このことを信じ、神の言葉を告げ知らせていこう。
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