預言者に示さずには何事もなされない[アモス3:1-8]

アモス書
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神様が御業をなさる上では、一定の行動原理があります。それは、ご計画を実現する前に、必ず誰かに御言葉を語るということです。

預言者に示さずには何事もなされない[アモス3:1-8]


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【ノート】
主はシオンからほえたけり、諸国民に審判を宣言した。審判の火はイスラエルを取り巻くように燃え上がった。最後にはイスラエル自身にも審判が宣告された。その審判は諸国に対するよりも厳しかった。疑問が聞こえてくる。「どうして主は御自分の民を過酷に裁かれるのだろうか?」その理由が告げられる。

1-2節。イスラエルは、特別に選ばれた民だった。主御自身がイスラエルをエジプトの地から導き上った。出エジプトはイスラエルだけが経験した出来事だった。主がお選びになったのはただイスラエルだけだった。
新渡戸稲造の「武士道」は、武士道精神のことをいわば神が日本人に与えた旧約とみなした。マホメットは、神がそれぞれの民族に預言者を遣わしていると説いた。確かに、イスラエル以外の国々の人々も、旧約に似た性質の何かを持っていることがある。しかし、「選び」という点では、選ばれた民族はただイスラエルだけだ。イスラエルは特選の民なのだ。まさにその選びこそが、イスラエルが罰せられた理由だ。「それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する。」特別に選んだから特別に罰する。特別な恩恵には特別な責任が伴う。ルカ12:48。イスラエルは、選びの恵みにこたえる責任があった。もちろん、罰を与えるというのは、主なる神様の本意ではない。何も罰するために選んだというのではない。アブラハムの召命に示されているように、イスラエルは祝福の源として、全世界を祝福するために選ばれた。神に支配された者という意味の名前であるイスラエルということからして、神の支配された国がいかに優れているかを周辺諸国に示して、神の栄光を現すために選ばれた。それが目的だ。ダビデやソロモンの時代にはそれが実現できていただろう。イスラエルは、選ばれた者にふさわしく、罪を避けて主に従順して、祝福を体験すればよかったのだ。そうしないどころか、完全に主を捨てて異邦人のように歩んだので、罰を受けなければならなくなった。これが旧約の選びの民だ。
では、クリスチャンはどうか?クリスチャンもまた、特別に選ばれている。クリスチャンは新約の選びの民だ。エフェソ1:4-6。4節では、「キリストにおいてお選びになりました」と書いてある。キリストは唯一の罪からの救い主だ。使徒4:12。このキリストを信じるクリスチャン以外に選ばれた人々はいない。ただクリスチャンだけがキリストによる罪からの救いにあずかった。だから、クリスチャンは新約の特選の民だ。クリスチャンが選ばれたのは、4節では聖なる者、汚れのない者とされるため、5節では神の子とされるためだ。これらすべては恵みによってなされるので、私たちは主をたたえる。私たちはこの恵みにとどまろう。選びの恵みにこたえて、神の子にふさわしい歩みをしよう。信仰を捨てて、未信者と同じ生き方をしてはならない。

「それでは、どうしてアモスがそのことを語るのか?」3-8節でその理由が説明される。ここで主なる神様の驚くべき行動原理が示される。すべてのことはひとりでに起きることはない。何事にも原因がある。3節。誰か二人の人が一緒に出かけるとしたら、どこで何時に待ち合わせして、どこに向かうのかと事前に相談して決める。だから、誰であれ、二人の人が一緒に歩いているのを見たら、特別な説明を受けなかったとしても、「どこかに行くということを打ち合わせしたのだな」とわかる。打ち合わせなしで共に行くことはありえない。預言者アモスが主の御言葉を語るのは、あらかじめ主との打ち合わせがあったからだ。アモスは主の会議に参加して、主のご計画を聞いた。それで、わざわざイスラエルに行って預言を始めたのだった。
主の会議に参加しない者たちについて主は何と言われるか。エレミヤ23:18-22。主の会議に参加しない預言者は役に立たない。主は彼らと共におられない。クリスチャンは主と共に歩む。これは3節のとおり、二人の者、主とクリスチャンが共に行くということだ。どうしてそれが可能なのか?主と打ち合わせをしているからだ。毎朝祈りとディボーションをして主の御声を聞いている。いつも歩みを照らす灯である主の御言葉を蓄えている。聖霊様の導きに従っている。主と共に歩むということの背後には必ずそういう背景がある。

ここから取り上げられているのは、すべてなにものかが滅びることだ。4節。ライオンが森の中でほえるとき、それはまさに獲物を捕らえているということだ。若獅子が洞穴でうなるのは、獲物を親が持ってきたということだ。いずれにせよ、何かが餌食になったということだ。それ以外のことがありえるか?ありえない。主がシオンからほえたける。それは、何かがまもなく餌食になり、命を失うということだ。警告だ。
5節。鳥が地の鳥網にかかるのはなぜか、罠が仕掛けられているからだ。動物をとらえるための罠が地面から跳ね上がるのはなぜか、獲物がかかるからだ。それ以外のことがありえるか?ありえない。そして、人間が仕掛けた罠に、獲物がかかる。かかった動物はまもなく命をとられることになる。警告だ。
6節。角笛を吹いたら人々はおののく。なぜか?角笛はどういう時に吹くのか?非常事態だ。ネヘミヤ4:12-14。ネヘミヤは敵襲に備えて、角笛を持つ者たちを配置した。敵襲を大勢の人に一気に知らせる合図として角笛が用いられた。町で角笛が吹き鳴らされるということは、まもなく、大変なことが起こるから備えなさいということだ。アモスの預言はその角笛のような警告の響きを持った。それは、町にまもなく訪れる主からの災いを警告するものだ。

3-6節までの内容を総括すると、三段階が踏まれていることがわかる。第一段階として主と預言者の打ち合わせがあり、第二段階として預言者が主の御言葉による警告の声を響かせ、第三段階として預言通りに主によって実際の災いが降るということだ。そして、こうであればこういう原因がないはずがあろうか。こうなったらこうならないはずがあろうか。とある通りに、そうならないことはありえない。すべてに必然性があり、例外はありえない。
7-8節はこのことを確認している。ここから主と主の預言者について、原因と結果を三段階に渡って踏んでいることを見ることができる。そして、これには例外がほとんどない。7-8節。第一段階、主なる神様はその定められたことを預言者に示す。定められたこととは、新改訳では「計画」というふうに訳されている。原語を見ると「秘密」「サークル」「議会」という意味がそこにある。つまり、主なる神様はまず秘密を共有するサークルの会議に預言者を呼び、そこで必ず実行する予定の秘密の計画を示す。そして、主なる神様がそうしないうちには、何事もなされない。何事もと書いてある。この第一段階の預言者との秘密の共有なしに、主が積極的に何かをなさることはないのだ。唯一の例外は天地創造だろう。でも、人間が創造された以後は、主は予告なしに何かをなさることはなく、必ず預言者に告げる。主は洪水で世界を滅ぼす前に、ノアにそのことを伝えた。その定められたことを僕なる預言者に告げずには何事もなされないからだ。主はソドムとゴモラを滅ぼす前に、アブラハムにそのことを相談した。預言者に告げずには何事もなされないからだ。主はイエス・キリストを遣わす前に、大勢の預言者にそのことを啓示した。預言者に告げずには何事もなされないからだ。ハレルヤ。
ということは、主のご計画がこの地になるためには、まず誰かが主からそれを聞かなければならないということではないか。そういうことだ。主の御言葉を聞く人がいなければ、主は何もなさらない。主の御言葉を聞く人がいなければ、主のご計画は成就しない。御心は地にならない。救いは起こらない。奇跡は起こらない。リバイバルは起こらない。主の御言葉を聞こう。それは、とりあえず肉の耳で聞いていれば自動的に聞けるというものではない。信仰をもって、礼拝のメッセージを聞く。何となく聞くのではなく、「これは自分に起こる」とキャッチする。信仰をもって、毎朝ディボーションをする。その日その時に必要なことを必ず主が示してくださると信じて聖書を開き、主の御言葉をキャッチする。常に重要な特定の約束の御言葉を暗唱し、口ずさみ、思い巡らし、宣言する。そうやって主の御言葉を自分に結び付けるのだ。そうすれば、主から聞いた主の御計画があなたの人生の上に、あなたが祈っている対象の上に実現していくようになる。
さらには、アモスがそうだったように、主のサークルの会議に出席して、とっておきの秘密の計画を主から聞こうではないか。そうするためには、主が重要な内緒話を打ち明けてくださるようになるほどの信頼関係が必要だ。主に対する誠実さやすでに語られている御言葉に対する従順が必要だ。ノアやアブラハムやモーセはそれがあったから示していただくことができた。イエス様御自身、誰にでも秘密を打ち明ける方ではなかった。イエス様が何でも話せる相手はどんな人か?ヨハネ15:14-15。イエス様が命じることを行う人のことをイエス様は友と呼ばれる。そして、イエス様は友に対して気を許して父なる神様から聞いたことを何でも語ってくださる。秘密の計画を打ち明けてくださるということだ。「この人なら、私が語る御言葉を無碍にはしない。大切に用いてくれる。」そういう主からの信頼を勝ち取る者になろう。

第二段階、預言者が主から聞いたことを語る。Ⅱコリント4:13。主が語ってくださる計画の中には、時が来るまで公にしてはならないものもある。そういうものについては口外しないものだ。主からすばらしいことを聞いたのに、いつまでも秘密にしておくというのはなかなか大変なことだ。イエス様から癒された後、「このことは誰にも話してはならない」と言われた人たちのほとんどが従順することができなかった。しかし、すばらしいことに、たいていの場合、主は私たちに語られることを、私たちの口から他の人々にも語ることを望んでおられる。つまり、主は私たちが預言をすることを望んでおられる。主なる神様から預言すべきことを聞いた人は、主から聞いたことを自分の内にとどめておくことは絶対にできない。ほとんど抵抗できない。「獅子がほえる。誰が恐れずにいられよう。」誰も恐れずにはいられない。「主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか。」誰も預言せずにはいられない。それは無理な相談だ。もし無理矢理預言しないように口を閉ざしたとしたら、頭がおかしくなってしまうだろう。ガラテヤの信徒への手紙をよると、使徒パウロは福音を啓示として受け取った。その時から、パウロは福音を語らずにはいられなくなった。世界宣教をしてまだ福音が届いていない地であればどこまでも行く覚悟だったし、牢獄に閉じ込めても、「神の言葉はつながれてはいない」と告白するほど、精力的に直接的にも書簡を通しても、福音を伝え続けた。どうしてパウロはそこまで熱心に取り組めたのだろうか?そうせずにはいられなかったからだ。Ⅰコリント9:16。福音が啓示されたことは、福音を語らなかったら不幸になってしまうほどパウロにとって強力な原動力となった。私たちは御言葉を聞いたら語らずにはいられない。誰にそうするように言われなかったとしても、聞いた御言葉が私たちを動かして口を開かせる。
そして語るとき、主が語るように語る。主が、獅子がほえるように語るのであれば、預言者もそうする。アモスはそのように語ったはずだ。代弁するように語る。主の口になるように語る。権威を持って語るのだ。

アモスは災いを預言しなければならなかった。報いの大きくない働きだ。私たちはキリストにあって福音を語ることができるようにされている。呪いは全部キリストが引き受けられたので、平和の計画を語るようにされている。聞く者たちを祝福することができる。そうであればなおさら喜んで、御言葉が私を突き動かすままに語る者となろう。

第三段階、預言者が語ったことは、主が計画されたことなので、必ずその通りに実現する。アモスが語った通りに地震が起こり、町に災いが降ったように、主は語られた通りのことをなさる。私たちが主から御言葉の約束を受け取り、それを語るなら、必ずその通りに実現していく。福音を語ったら人々が救われていく。主の約束を語ったら約束通りに祝福されていく。癒しを語ったら癒されていく。清めを語ったら清められていく。愛を語ったら愛の実に満ちるようになる。御力を語ったら御霊の賜物が豊かに与えられる。地震が二年後にあったように、語った直後に事が起きないこともある。でも、二年後なら遠い未来の話でもない。確実に主が語られたことは成就していく。

私たちが主の御計画を聞かなければ、何も始まらない。聞こう。霊的な耳を研ぎ覚ませ、主の御言葉をキャッチし、語っていこう。礼拝のメッセージに耳を傾けよう。毎朝ディボーションをしよう。まもなく地震のようなすさまじい変化が私たちの人生で起こるようになる。

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