命を落とす事例があれば、そこからよく学び、二の舞にならないようにしなければなりません。二人のごまかしがどれほど悪いことだったのでしょうか。
アナニアとサフィラの死[使徒5:1-11]
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【ノート】
1-11節。アナニアとサフィラは土地を売って代金をごまかし、使徒たちの足元に置いた。つまり、献金をした。その結果、二人は神に打たれて命を落としてしまった。つまり、致命的な罪を犯したということだ。もし、命を落としかねないことがあれば私たちは入念にそこから学ぶ必要がある。たとえば、車の運転は命がかかっているので免許をとるために勉強や実習が必要で、免許をとってからも違反をした人には違反者講習がある。同じように、私たちは簡単に命を落とすことのないように、この箇所が教えることを徹底的に悟らなければならない。
まず、こういうことは現代の教会でもありうるのか?まず聖書をみよう。ヘブライ13:8。黙示録11:3-6。これは患難期に関する記述だ。患難期に至るまで、神様によるしるしと不思議によって人が命を落とすことがあるとわかる。それであれば、同じキリスト教会であれば、現代でも起こりうる。また、教会史でもある。私が数件だけ知っている例の一つとしては、チャールズ・フィニー先生という聖霊充満の伝道者についての話だ。フィニー先生が集会をしていると、一人の未信者の男性が集会をののしっていたが、反対している最中に卒中で倒れて、そのまま死んでしまった。
しかし、どの教会でもこれと同じことが起きているわけではない。どういう教会で起きるのか?それは初代教会のように聖霊様の働きが活発になされている教会、特にペトロのように使徒としての権威を持つ指導者が存在する教会では起こりやすい。池袋マナ教会ではしるしや不思議が起こることがあり、使徒や預言者を信じており、預言者とのつながりを持つ教会でもある。こういうことは十分起こると言える。これも聖書なので、癒しだけ受け取って恐ろしいものは受け取らないというわけにはいかない。信仰生活は、実は命がけのことなのだ。だからといって、神様を避けたら安全になるわけではない。神様が堕落したこの世界における唯一の逃れ場であり、神の教会はオアシスのような場所だ。そもそも神様は全世界に満ちておられる方でありこの方を避けることはありえない。神様を避けたらますます私たちは危険になり、神様の御前に立つときの責任が重くなる。11節。私たちも、アナニアとサフィラの例を見て、神への恐れを持つようにしよう。この内容から命を落とさないようにするために必要なことを学ぼう。
アナニアとサフィラはなぜ土地を売ったのか。バルナバの模範を見てのこと。バルナバが畑を売って代金を献金して、使徒たちからも教会全体からも喜ばれた。それを見て、自分たちも同じことをして褒められたいと思った。そこで、土地を売って代金の一部を使徒たちに献金した。誰かの模範に倣うことは良いことだ。献金をすることも良いことだ。問題は、そこにごまかしがあったことだ。代金の一部だけをささげたのに、全部ささげたとごまかしたのだ。このごまかしの特徴と学ぶべき点を4つお伝えする。
第一に、サタンに心を奪われていた。3節でアナニアに対する第一声がそれだった。「なぜサタンに心を奪われたのか?」奪われるにあたる言葉は満たされると訳すこともできる。エフェソ5:18の「聖霊に満たされなさい」の満たされと同じ言葉が使われている。つまり、アナニアの心はサタンに満たされていたのだ。サタン充満。サタンが与える思考に完全に占領されていたのだ。これは、健全な信仰生活を送っていたら絶対に起こらない。クリスチャンは祈るときに、神様への感謝をささげ、罪を告白し、聖霊様の満たしを求める。このことをしていたら、サタンに心を完全に占領されるということはありえない。また、ディボーションや聖書通読をして御言葉を心に入れる。神の真理が心に入ると、悪魔の嘘は出ていかざるを得なくなる。
普通にクリスチャンとして生きていたら、私たちは大丈夫だ。クリスチャンとしての基本さえ押さえていれば大丈夫だ。サタン充満になりうるアナニアとサフィラのような信仰生活とはどんな生活なのか?それは信仰が皆無の宗教人としての生活だ。人前では立派なクリスチャンのように見せかけていただろう。しかし、おそらく、個人の密室での祈りを全くしない。神様との交わりは全く持たない。他の人が見ている場でしか絶対に祈らない。また、日曜日以外聖書を絶対に開かない。開いたとしても、自分のこととして受け取らない。そして、御言葉を単なる知識として蓄えてどんどん高慢になる。聖書研究よりもディボーションをすることが先決なのはそのためだ。基本をおさえないで上級者レベルに無理矢理行こうとしてはならない。私はYouTubeをいっぱい観て、聖書の知識は蓄えているけれども、その知識で人を攻撃することに熱心になっている人と何人も会ったことがある。攻撃のために使う知識なら、学ばない方が良い。ディボーションをして、信仰によって自分自身に適用し、教会の交わりの中で実践するということが必要だ。毎日密室での祈りとディボーションを欠かさずしよう。基本をおさえよう。そうすれば、サタン充満になることはない。
第二に、虚栄心があった。虚栄心というのは、自分を実際よりも良く見せようとする欲求のことだ。アナニアとサフィラはサタン充満になるくらいだから、実際には、信仰がほとんどなかったが、ひとかどの信仰者だと思われたいという欲求が強かったので、代金をごまかしてしまった。現代は虚栄を競う時代かもしれない。SNSでばえることを競う。実際よりも良い姿で映ること、楽しい生活をしているように見えることに熱心になる。そうやってマウントをとろうとするのだ。愚かなことだと思うだろうか?アナニアとサフィラの件は教会でもそういう人がありうると教えている。月曜日から土曜日までは未信者と同じような生き方をしているのに、日曜日だけは最も善良で模範的なクリスチャンであるかのように見せかける。
でも、実際よりも良く見せた自分が認められたとして、本当に満足か?それは自分ではなく、架空の自分、偽者の自分ではないか?自分ではそれを知っているし、神様もサタンも知っている。むなしいことだ。それなのにどうして人は虚栄心を持つのだろうか?自分が何者かわかっていないからだ。本物の栄光を持っている人は、虚栄にすがる必要はあるか?ない。虚栄にすがるクリスチャンがいるとすれば、その人は自分が何者で何が与えられているかわかっていないのだ。ローマ3:23-24。虚栄を求めるのは、罪によって神の栄光を受けられなくなっているからだ。ということは、罪が贖われた神の子は、神の栄光を受けられるか?もちろん受けられる。受けられるどころではない。Ⅱコリント3:18。私たちは神の栄光を受けている。神が愛してやまない神の子だ。神の子ということは最高のロイヤルファミリーの一員であり、御国において神に等しい地位を持つ者にされているということだ。御父が髪の毛一本残らず数えるほど注目しておられる。それは十万に注目されているよりも、百万人のファンや支持者を持つよりも持ってすばらしいことだ。本物の栄光を持っている。本物の栄光の偉大さを悟る者になろう。虚栄心を捨てて、キリストのようにへりくだる者になろう。フィリピ2:3-5。クリスチャンはこれが可能だ。キリストによってすべての罪を赦されていて、本物の栄光にあずかっている人は、もはや自分をごまかさなくてよい。
第三に、神に対する恐れがなかった。アナニアとサフィラが代金をごまかしたのは、使徒たちにばれることがないと思ったからだ。彼らは使徒たちにさえばれなければ良いと判断した。
神様はすべてをご存知ではないのか?もちろんご存知だ。アナニアとサフィラは神様が全知全能の方だと知らなかったのか?知っていたはずだ。それでは、神様が嘘を罪とみなし、憎まれると知らなかったのか?知っていたはずだ。それでは、それでもごまかしたのはなぜなのか?それらの真理を知ってはいても、ほとんど信じていないようなものだったのだ。知ってはいても、大したことはないとみなした。自分たちのごまかしにはあてはまらないものと勝手にみなした。神への恐れがなく、神を侮っている。
3-4節。ペトロは、使徒にばれなければ良いとしてやったことを、人を欺くことではなく、聖霊様を欺き、神様を欺くことだと言った。人にばれなければ良いとしてすることは、神に対してすることと見なされるのだ。牧師にばれなければ良いのか?あるいは誰かそれを知ったら戒めるだろうクリスチャンにばれなければ良いのか?そういう発想を持って何らかのよからぬ言動をとるとすれば、それはまさに神に対してすることになる。誰かがいるから言葉を慎むというのはおかしい。私たちはいつもどんなときも、神様の御前にいる。詩編16:8。このように、私たちはいつも神のことを意識しよう。マタイ10:28。このように、神を何よりも恐れる。ローマ12:2。このように、神の御心を考える。そうすれば、ごまかしということはありえない。
第四に、不信仰に基づく所有欲があった。そもそも、どうしてアナニアとサフィラはバルナバと違って、代金のすべてをささげず、一部しかささげなかったのか?バルナバに倣うなら、全部ささげるべきだった。それは、所有欲を捨てきれなかったからだ。なぜ所有欲を捨てきれなかったのか?神に対する不信仰ゆえだ。誰が自分の命を保障してくれるのか、という点について、神様に完全に信頼しきれなかった。お金に頼った。
神様は命を保障してくださる方だ。何よりもまず神の国と神の義を求める者には、必要を満たしてあまりあるものが与えられる。毎日御言葉を与えて霊的に養ってくださる。毎日マナを降らせて肉体的に養ってくださる。イエス・キリストへの信仰によって永遠の命を保障してくださっている。そのことは私たちの内におられる聖霊様によって確認することができる。命を保障してくださる方として、神様に完全に信頼を置く者となろう。
ごまかしの内容についてずっと見てきたが、この内容から励ましを受ける部分もある。初代教会の中ですら、ごまかしが発生した。すばらしい牧師が牧会していたら、その教会は右肩上がりに成長し、何の問題も発生しないのか?それは嘘だ。ペンテコステを経験し、十二使徒によって牧会されていた初代教会すら罪を犯す人がいて、問題が発生した。さらにいえば、パウロの牧会したコリント教会は問題だらけだったし、ガラテヤ教会は背教しそうになったし、テサロニケ教会には再臨に熱狂してニートになる人々がいたし、パウロを支え続けたフィリピ教会にすら奉仕者同士の確執があった。では、大牧者であるイエス様が牧会すれば、右肩上がりに行くか?ヨハネ6章を読むと、イエス様の弟子たちは十二弟子を除いて全員イエス様から離れ去ったことがあった。今で言えば5千人のメガチャーチ教会から十二人に減ってしまったということ。さらには、その十二人の一人は裏切り者で、残りの十一人も十字架を前にしてイエス様を見捨てて逃げてしまった。罪のない神の独り子が牧会してもそうなるのだ。だから、私たちの教会で問題が起きたとしても落胆失望してはならない。それは初代教会も通ったことなのだ。それでも私たちは、決して屈しない。成長することをあきらめない。御言葉の恵みによって、やがてしみやしわやその類のものが何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会に必ずなることができる。そのことを信じて励んでいこう。
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