麦束を満載した車がわだちで地を裂く[アモス2章]

アモス書
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審判はとうとうイスラエルにまで到達します。そして、イスラエルは特別な恩恵を受けているだけに、他の国々よりも厳しく裁かれるのでした。

麦束を満載した車がわだちで地を裂く[アモス2章]


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【ノート】
主がシオンからほえたけった。それを聞いたテコアの牧者アモスが、主の御言葉を代弁し、諸国民に審判の預言をした。1章では、ダマスコ、ペリシテ人の都市、ティルス、エドム、アンモンが断罪された。審判は続く。

1-3節。モアブの罪は、エドムの王の骨を焼き、灰にしたことだ。これは火葬が一般的な日本人にとっては何が問題なのか理解しがたいかもしれない。イスラエルと周辺諸国は土葬が一般的だった。火葬するのは犯罪者の死体だけだった。それでも、骨は拾って埋葬したようだ。それなのに、外国の王とはいえ、敬意を払って丁重に葬るべきエドムの王の骨を、火葬どころか、完全に灰になるほど焼いてしまうというのは、冒涜だった。王位と死体に対する二重の冒涜だ。礼節を欠く、無慈悲な行為であり、国際法違反であって、日本の法律に照らすなら、死体損壊罪にあたる。
2節で「わたしはモアブに火を放つ」と書いてある。神様は裁きに火を用いられる。火はどのようなセキュリティーも防御も突破して燃え広がり、広範囲を破壊しつくすことができる。神様の裁きを逃れる術はない。裁きの火は、ハデスとゲヘナでも用いられる。ハデスとゲヘナの住民がその火を防ぐ方法は存在しない。絶対にその住民にならないようにしなければならない。
裁きの対象は、場所としてはモアブの首都のケリヨトであり、人としては治める者と高官たちだ。神様は中心となる者を裁きの対象とする。もしあなたが中心地にいる中心人物なら、主の御前での責任が重くなる。責任を逃れるにはどうすればよいか?中心をイエス・キリストに譲る以外にない。イエス様が人生の真ん中におられるなら、あなたはあらゆる裁きを免れることができる。

4-5節。北イスラエルと最も近しい南ユダの罪が裁かれている。彼らの罪は、主の教えを守らなかった罪だ。他の国々については、道徳に反する罪が裁かれた。捕虜を奴隷として売ったり、ある町を過酷に踏みにじったり、死体を損壊したりする罪に問われた。神が定めた善悪というものは、普遍的に存在し、それに基づいて神様は裁かれるのだ。しかし、主なる神様を信じる者は、単なる道徳ではなく、主なる神様の契約に基づいて裁かれる。旧約の場合、主の民には主の教えを守る義務がある。どんな教えか?十戒だ。最初の二つは、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」と「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらにひれふしたり、それらに仕えたりしてはならない」だ。主を信じる者は、主を裏切ってはならないのだ。このような教えは異邦人にはない発想だが、主を信じる者にはあてはまる。主を信じるとは、ただ主だけを信じるということを指す。主は唯一の神であって、ほかに神はない・ほかにライバルはいない。主は私たちのすべてをささげるに値するお方であり、ふさわしいお方だ。主をそういう方として信じたはずなのに、他の神をも信じたり拝んだりするというのは、主を冒涜することにほかならない。そして、主は私たちと特別な関係に入ることを求めておられる。主は霊的な純潔を私たちに要求しておられる。ただ御自分だけを信じ、愛することを求めておられる。これは新しい契約を信じるクリスチャンにもあてはまることだ。主イエス・キリストを信じる者はただイエス・キリストだけを信じ、愛し、仕えることが要求されている。ルカ14:25-27。私たちはこれを何か重苦しいものとしてとらえるべきではない。イエス様は御自分のことをほかの神、ほかの主人、ほかに愛を注ぐ対象とは違った特別な存在となることを求めておられる。それは、主御自身も、私たちのことを御自分を信じない者たちと違った特別愛し、祝福する存在として見たいがためだ。
しかし、ユダは主を裏切った。「先祖も後を追った偽りの神に惑わされた」と書いてあるとおり、主を捨ててほかの神を信じ、偶像を拝む罪を犯した。しかも、それは彼らの世代に始まったことではなく、先祖が犯した罪の再来だという。どうやって先祖の罪を子孫がもう一度繰り返すことができたのだろうか?偶像や異教の教えが残っていたのだろう。先祖からのものだからといって捨てるに忍びなかったのだ。偶像や異教の痕跡を残していてはならない。思い切って全部捨てよう。それらが残っていると、まず、私たちが祝福されない。そればかりでなく、私たちの後の世代がそれによって汚されてしまうことになる。つまり、世代を超えて多くの人々にとっての罠となってしまう。それと同時に、主がどれだけ良いお方、すばらしいお方なのか、御言葉を通して知ろう。神はその独り子をお与えになったほどにあなたを愛しておられる。そのことを悟るとき、偶像やほかの神々になびくことはありえなくなる。
ユダに対する裁きとして、「火はエルサレムの城郭をなめ尽くす」と書いてある。エルサレムといえば、神殿があり、主がほえたけて御言葉を語られる場所だ。そのエルサレムも例外なく裁かれる。神様は公平に全世界を裁かれる方だ。患難期にはまさに全世界的な裁きが降る。逃れる場所はただキリストの御もとだけだ。キリストの血潮によって罪に定められない者とされることだ。そうすれば、携挙されてキリストのもとに挙げられることによって裁きを免れることができる。

6-8節。諸国民に対する審判の宣告は、異邦人の国々から始まった。その預言を聞いていた北イスラエルの人々は拍手喝采しただろう。「主が我らのために復讐してくださった。」ところが、異邦人の国々を網羅しても、審判は終わらない。とうとうお隣の同じの主を信じる南ユダ王国についてまで審判の対象とされた。南ユダが裁かれるなら、我々は大丈夫なのか?不安がよぎり、ついには北イスラエルに対する審判の預言が宣告される。しかも、北イスラエルに対する罪の指摘は、最も苛烈だった。神は、異邦人に対してよりも、御自分の民に対して、厳格な基準を持たれる。
他の人が裁かれることを喜んではならない。自分の嫌いな人の罪、咎、過ちについて、週刊誌のようにこれ見よがしに叩いてはならない。誰かが罪を犯して、祝福を受けられないからといって嘲ってはならない。指導者の言動を裁いて、自分が上に立ったかのように悦に浸ってはならない。どうしてか?もし、あの人の罪が裁かれるなら、私の罪も裁かれるからだ。私も同じことをしているからだ。ローマ2:1。マタイ7:1。誰かが罪の報いを被ることがあれば、それは警告の預言と受け止めよう。やがて、自分に回ってくる可能性があると認識して、気を引き締めよう。その人については憐れみの心を持ち、執り成すようにしよう。

この箇所では、イスラエルの罪が数えられ、具体的に示されている。主は罪を数え、具体的に示されるお方だ。ただ漠然と「罪」とひとくくりするのではなく、一つ一つを私たちの前に示されるのだ。それは良いことだ。それは私たちが一つ一つの罪に真摯に向き合い、御前に告白して、イエス様の血潮による赦しと清めにあずかり、心を新たにして、その罪から解放される機会となる。

ここでは四種類の罪が数えられている。第一に、負債を返済できない者を奴隷として売る罪だ。犠牲になったのは、正しい者と貧しい者だ。正しい者は主の掟に対して妥協のない者であり、主が特に喜ばれる人々だ。貧しい者もやはり主が特別に御目をとめておられる人々だ。イエス様は「貧しい者は福音を告げ知らされている」と言われた。
貧しい者は福音を真っ先に伝える対象とされている。使徒たちの関心事は、貧しい人々に施すことだった。それが、主の御心だったからだ。律法でも貧しい者の救済について特別な掟が設けられている。彼らがお金で、しかも靴一足程度のはした金で簡単に奴隷として売られてしまっていた。これは、キリストを銀貨30枚で売ったのと似ている。神様は、貴い者たちがとんでもない安値で取引されてしまっていることを嘆いておられる。神様の御目に一人一人が貴い。
ビジネスの現場では、人を単なる労働力として見る風潮がある。人間の価値をお金に換算するような感じだ。私たちは一人一人の人間の絶大な価値を理解しよう。一人の人の価値をお金や物に変換することはできないことを理解しよう。イエス様は「たとえ全世界を手に入れたとしても、自分の命を失ったら何と得があろうか」と言われた。全世界よりも、一人の人間の命の方が、価値がある。また、イエス様は一人一人のために十字架にかかって死んでくださった。ということは、一人の人間の命は、神様の御目に神の子の命を犠牲するほどの価値があるのだ。イザヤ43:4。

第二に、弱者を抑圧する罪だ。「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ」とは、ひどい弱い者いじめをすることだ。「道を曲げる」とは賄賂によって裁判を曲げることだ。腕力、あるいは経済力にものを言わせて、不当に弱い者たちを圧迫するのだ。弱者を虐げるものは、後で神様を敵に回すことになると恐れなければならない。力は、何のためにあるのか、キリストを見るとわかる。キリストは世界を思うままにする御力をお持ちだったが、それを自分のために使ったり、人をいじめたりはしなかった。むしろ、御力によって弱い者たちを癒し、解放し、教え、力づけ、満たした。私たちはキリストに倣って持っている力を用いる者になろう。アーメン。

第三に、若い娘に対する性的な罪だ。「父も子も同じ女のものに通い」と書いてある。女と書かれているのは、若い娘のことだ。まだ分別がないことをいいことに性的に搾取するということだ。現代でも、大人の紳士たちによる援助交際とか、パパ活とかいわれるものが行われているのがそれに近い。しかも、父と子が共有するというとんでもないみだらな罪が行われていた。これは律法ではっきり禁じられていることでもある。レビ18:15。さすがにこんなことは神の教会では行われないだろう、と思うだろうか。残念ながら、神の教会でも前例がある。しかも、新約聖書が書かれた時代からある。Ⅰコリント5:1-2。このような罪は教会から除名されるか、何らかの懲罰を受けるに値する罪だ。性的な罪を遠ざけよう。祈りと御言葉によってこれと戦い、勝利しよう。

第四に、神を恐れずに搾取する罪だ。「質にとった衣を広げ」と書いてある。これも律法で禁じられていた。出エジプト22:25-26。上着は布団の代わりのようなものだった。寒い夜に布団がなかったらこごえてしまう。これは相手の命を奪いかねない行為なのでやってはならなかった。それなのに、彼らは大っぴらに祭壇のあるところでそれをした。神の掟を神にささげる祭壇の前で破っていた。神を恐れる思いが全くない。神殿でぶどう酒を飲むというところからもそれがわかる。もしあなたが、あなたをどうすることもできる絶対的な支配者の前に出るとしたら、お酒を飲みながら、ということはありえるだろうか?ありえない。それではどんな間違いを犯すかわからないからだ。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とあるように、理性を持って御前に出なければならない。
イスラエルの罪は、信仰の後退が後退し、神を恐れなくなることによって起きた。私たちは、神への恐れを持とう。そうするために、神がいつも私と共におられるということを絶えず意識することが大事だ。

他の国々に対するよりも、イスラエルの罪の方がもっと厳しく問い質されている。それはなぜか?イスラエルは諸国民とは違い、特別な恩恵を神様から受けてきたからだ。特別な恩恵には特別な責任が伴う。9-12節は主からの恩恵の内容だ。いかに神様がイスラエルを愛しておられるのかが示されている。
第一に、主はアモリ人を滅ぼした。9節。カナンの地の七つの部族の総称としてアモリ人という言葉が使われている。敵はイスラエルよりもずっと強かったが、神様がアモリイスラエルを助けてアモリ人を滅ぼしてくださった。アモリ人を高い木にたとえ、「上は梢の実から、下はその根に至るまで滅ぼした」というのは、絶滅を意味する。主は私たちの敵を絶滅し、平和を与えてくださる。敵であるサタンがいかに強くても、主はやがてサタンの軍勢を滅ぼし尽くしてくださる。そのことを感謝しよう。

第二に、出エジプトから約束の地の獲得に至るまで導いてくださった。10節。これは、旧約で、神様の救いについて語られるときに必ずといってよいほど触れられるものだ。私たちにとっては、イエス・キリストの十字架で流された血潮により、罪の贖いを受け、罪の奴隷から解放され、水と聖霊のバプテスマを受け、訓練され、神様の約束をことごとく体験させてくださることを意味する。救いの恵みに感謝しよう。

第三に、預言者とナジル人を続けて起こしてくださった。11節。預言者は、モーセに始まり、エリヤとエリシャを経て、アモスに至るまで、立てられ続けた。預言者の職務は、神の御旨を示すことだ。神の御旨は世代ごとに示され続けた。ナジル人については有名な人物はサムソンくらいだが、主は「若者の中からナジル人を起こした」ところから、次世代の中から、常に青春の日々を神様にささげる献身者が起こされ続けたのだ。ナジル人は清い生活を自ら実践する人々だ。ナジル人を見ると、自分が世に染まっていることを恥じて、敬虔に生きることを学ばされる。清い生活の実践の模範となる人物も立てられ続けた。ところがイスラエルは彼らに対してどんな態度をとったか?12節。イスラエルの人々は主御自身が立てたこれらの人々を重んじず、聞き従おうとしなかった。主御自身が立てた人を無視するということは、主御自身を無視することに等しい。主が立てた人たちを退けること、このことが特別な恩恵に背くことの始まりであり、あらゆる罪の入口となった。教会に立てられている牧師先生や指導者たちは、主御自身が立てておられるということを悟らなければならない。そのことを特別な恩恵として感謝しよう。目に見える兄弟を愛さずして目に見えない神を愛しているということはできないとヨハネの手紙に書いてある。同じように目に見える牧師に従わずして、目に見えないキリストに従うことはありえない。神が教会に立てた人々を重んじて従う者になろう。

13-16節は裁きの宣告だ。裁きの内容は、諸国民とは違う。13節に麦束を満載した車と書いてある。つまり、収穫の時だ。裁きは収穫の時のように、罪が芽生え、成長し、最後に刈り取ることにあたるということ。神様がすぐに裁きを下さないからといって侮ってはならない。裁きは最後の収穫の時に降るのだ。ここで「わだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く」と書いてある。地震による裁きを予告している。これがアモスの預言の二年後の地震をさすことは言うまでもない。裁きは実現したのだ。
諸国民の裁きの場合は、すべて火で主要都市が焼かれて、指導者たちが断たれることばかりだった。裁きに遭うのはほんの一部だった。しかし、14-16節をみるとイスラエルについては全面的な裁きだとわかる。素早い者、強い者、勇者、弓を引く者、足の速い者、馬に乗る者といった普通の脅威に対してであれば対抗できそうな人々が列挙されている。そういう人々も例外なく神の裁きが降ることになる。16節。裸で逃げると書いてある。私たちは皆、神の御前で裸だ。ヘブライ4:12-13。与えられている恩恵に感謝して、恩恵にふさわしい歩みをしよう。

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