激しい迫害に遭ったらどのような祈りをささげるべきでしょうか?
彼らは「迫害をやめさせてください」とは祈りませんでした。
むしろ、「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈りました。その祈りは主に喜ばれ、主はその場所を揺れ動かして応答されました。
地が揺れ動く祈り[使徒4:23-37]
【ノート】
23節。ペトロとヨハネは、釈放された。サンヘドリンは彼らを逮捕したものの、彼らに対して何もすることができなかった。私たちの敵は、私たちに対して何もすることができない。悪魔は私たちに対して無力だ。ルカ10:19。無敵の権威が与えられていることを感謝しよう。
ペトロとヨハネは、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。最高権力者たちの脅しについて、言葉をにごすことも減らすこともなく、事実をありのまま報告した。それは、落胆させ、聞く人の心を折るようなことかもしれないが、ペトロとヨハネは隠し立てをしなかった。それは、二人が仲間の信徒たちのことを信頼していたからだろう。信仰が薄い人は、悪い知らせを聞くとたちまち動揺し、平静を失ってしまう。信仰の強い人は、悪い知らせを聞くと祈りの燃料にする。熱く祈るべき理由をそこに見出すのである。パウロはだれかがつまずくときにどうしたか?Ⅱコリント11:29。心を燃やした。ただ心を燃やして終わりではなく、祈っただろう。その祈りが、人々の問題解決につながった。私たちはいつもそうのようでありたい。それがどんなことであれ、私たちを祈りに導くのならそれは良いこととなりうる。祈りに導かれるものはすべてよい。ローマ8:28。この「万事が益となるように共に働く」ということは、一見悪いこと、大変なことがあっても、それを祈りの燃料にするということを通して起こるのだ。悪い知らせを聞いたら、祈りの燃料として活用する者となろう。アーメン。
24節。どういうふうに祈るかを学ばされる内容。この祈りの結果31節でその場所が揺れ動いた。大地を揺り動かすほどの力ある祈りの秘訣を学べる。まず、心を一つにして複数人で祈っている。これについては明確な約束がある。マタイ18:19。心を一つにして、同じことのために祈る者になろう。
次に、神に向かって声を上げている。声を張り上げていると訳すこともできる。小声で静かに祈ったのではなく、大声で祈ったのだ。初代教会の祈り会の特徴は、大声で激しく祈ることだ。使徒2:42で彼らが「祈ることに熱心だった」と書いてあるが、その熱量は声量にも表れている。時に、神様の御前に静まること、静かに祈ることも有益だ。しかし、切実な祈り課題があるときには、声を出すことだ。声の大きさに、私たちの真剣さ、求める心の大きさが少なからず現れる。自分を捨てて、心の底からあふれる祈りを声に出してささげよう。お隣の韓国は福音が入ってくるのが日本よりも遅かったが、クリスチャン人口は日本よりもずっと多い。韓国教会の成長の秘訣は、まさに祈ることに熱心だったことだ。早朝や深夜に集まって、熱く、大声をあげて祈る祈りが、神様に喜ばれ、答えられたのだ。声を張り上げて祈る者になろう。
最後に、どのような方に対して祈っているのかを明確にしている。私たちは、誰に祈っているか無感覚であってはならない。祈りをささげる対象である神様がどのようなお方であるかわかっているとき、私たちの信仰は引き上げられ、力強い祈りになる。祈りの大部分は祈る人自身の信仰を引き上げるために必要な内容だ。「主よ、あなたは天と地と海と、そしてそこにあるすべてのものを造られた方です」と祈っている。祈りの対象である神様についての真理を口にしている。主なる神様はあらゆるものを創造され、あらゆるものを支配しておられる。主の主権の及ばないものは何一つない。人間的には強大な権力を持つように見えるサンヘドリンも、それどころかローマ帝国さえも、主はいかようにもすることのできるお方だ。そう、主は全能であり、私たちの祈りに簡単に答えることのおできになる方だ。
主が「それは難しい」とか「それは私の管轄外だから他の人に頼んでほしい」と言われることはない。私たちが何を祈ったとしても、主を悩ませたり、困らせたり、てこずらせたりすることはありえない。祈りは答えられる。アーメン。
25-28節。信徒たちはここでいったい何を祈っているのだろうか?前例についてとりあげている。主がすでにイエス様にあって成し遂げられた御業に思いを寄せている。これも、祈る人々自身の信仰を引き上げるための内容だ。主が過去に何らかの御業を成し遂げられたということは、主は今日も同じような事柄について同じように御業を成し遂げてくださるということだ。なぜならヘブライ13:8。
ダビデが書いた詩編2編を引用している。主とメシアに逆らう者たちとして、異邦人、諸国の民、地上の王たち、指導者たちが書かれている。これの成就として、ヘロデ、ポンティオ・ピラト、異邦人、イスラエルの民がイエス・キリストに逆らった。逆らう者たちは人間的に見れば、数が多く、知恵も権力もある者たちだ。反逆者たちは誰に対しても意のままにできる力を持っているはずだった。しかし、25節に「むなしいことを企てる」と書いてある。絶対にうまくいかないことを企てるのだ。反逆はどうなったのか?反逆者たちはイエス様を十字架にかけて殺害し、自分たちの目論見通りになったと思ったが、実はそれらはすべて「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたこと」だった。反逆のつもりでしたのに、御心を行ったのだ。イエス様による救いの御業が成し遂げられ、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に言い表して父なる神様をたたえるおぜん立てをした。逆らう相手が悪かった。イエス様に対する反逆は絶対に成功しない。そして、主はどんな反逆があろうと、必ず御心を成し遂げることがおできになる。アーメン。
イエス様がたどられた道は、そのまま教会が置かれた状況に適用できる。ペトロとヨハネは祭司長たちや長老たちから脅されたが、それはイエス様に対するむなしい反逆であり、どんな反逆があろうとも主の御心は成就するのだ。イエス様ゆえに、敵からの脅しにあっているだろうか?ひるんではならない。イエス様に対する反逆はむなしい。成功しない。イエス様は必ず御心を成し遂げられる。
29-31節。ここで信徒たちは、「彼らの脅しに目を留め、これ以上の迫害をやめさせてください」とは祈っていない。そういう祈りは全然聖書に出てこない。迫害は必ずしも悪いものではない。私たちが迫害を御言葉通りにとらえるなら、喜び踊るのが正解だ。マタイ5:11-12。すべては私たちの信仰次第なのだ。それでは、迫害が激しいときにはどんな祈りをささげればよいのか?まず、「今こそ彼らの脅しに目を留め」とある。敵の攻撃が激しいので、その分何とかしてほしいということだ。実は敵の攻撃が激しいことは、私たちがその分強められるチャンスになる。ここでは二つの点で強められるように祈っている。
第一に、大胆に御言葉を語れるように祈っている。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈る。激しい迫害があるときはますます大胆に御言葉を語ればよい。それは、自分たちの意思の強さでできることではないので、そうできるように、主に祈るのだ。その祈りは答えられる。31節の最後に、「聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と書いてある。これは大胆に伝道したということだ。迫害が激しいときは、その分ますます大胆に御言葉を語れるように祈ろう。そうすれば、聖霊様に満たされて、聖霊様が大胆に御言葉を語れるようにしてくださる。
第二に、イエス様の御名による奇跡が起こるように祈っている。30節ではイエス様の御名によって、癒し、しるし、不思議な業が行われるように祈っている。つまり、奇跡を求めている。そして、奇跡は「大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」というリクエストの次に求められているので、御言葉の権威に伴うしるしとして求めていることがわかる。31節で「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて」と書いてあるので、この祈りは神様に喜ばれ、聞き入れられたことがわかる。御言葉に伴うしるしとして奇跡を求めることは神様に喜ばれ、聞き入れられるのだ。
教会で、ますますイエス様の御名で奇跡が起こるように祈ろう。ステージ4の末期がんで余命いくばくもない人が癒される。生まれつきの目の見えない人が見えるようになり、生まれつき耳の聞こえない人が聞こえるようになり、足の不自由な人が立ち上がり、車椅子や杖を放棄するようになる。死人すらも生き返る。悪霊は全部出ていく。上級の悪魔にとりつかれた人も、サタンその人にとりつかれた人すらも解放される。台風はそれていくし、津波は避けていくし、地震すらも教会に害を与えない。経済的な必要のある人は超自然的に満たされていく。知らない口座からの振り込みがあり、知らない人から突然食糧やお金を渡される。崩壊寸前の家庭は愛に満ちた天国のような家庭に変えられる。最も世的で頑なで高慢で「この人は誰も変えることができない」と思われた人が涙を流して悔い改めて180度変えられた人生を送るようになる。教会が門を開く前から、長蛇の列を作るようになる。パチンコ店の開店よりも長蛇の列、ディズニーリゾートの人気アトラクションよりも長蛇の列。集会場は神様の臨在と変えられた人生で満たされるようになる。奇跡を信じよう。奇跡を祈り求めよう。神様はすべてをおできになる。
これまで、敵の脅しに対して、崇高な祈りがささげられ、主がその祈りにこたえてくださり、大胆に神の言葉を語りだした。ここで突然、教会の交わりに焦点があてられる。神の言葉はどのような教会の交わりの実を結ぶのかがここで語られている。32-37節。これは、心も思いも一つにし、イエス様が愛したように互いに愛し合うことによって自然に生まれる交わりだ。「今日から教会では財産を共有性にしよう」という提案や合意がなされたのではないし、「これを教会のルールとして入会時に掲げるものにしよう」ということにしたわけでもない。共産主義社会を実施するためにがちがちにシステムをかためたのではない。みんなが喜んでそうした。教会でみんなが心も思いも一つになっているとき、あまりにも一つなので、隣人を自分のように愛しているので、自分のためにすることと兄弟姉妹のためにすることに差がなくなる。自分のために財産を使うことと兄弟姉妹のために財産を使うことに何の差もなくなる。自分がありあまるほど財産があるのに、誰かがひもじい思いをしているということはあってはならないことだったのだ。完全な愛の行き着く先にこのような交わりが自然に実現する。このような愛の実践ができるほど互いに愛し合い、一つになろう。
このことは使徒2章にもある程度書かれているが、ここでは新しい情報が出てくる。34-35節には、なんと土地や家を持っている人が皆、それを売ったと書いてある。律法書を読むなら、先祖代々受け継ぐ土地は、主なる神様から賜った嗣業の土地だと書いてある。嗣業の土地は、簡単に売ったり手放したりしてはならないものだった。仮に貧しくて売ったとしても、買い戻す権利やヨベルの年での返還などの救済措置がある。土地はそのように特別大事にしなければならないものと考えられていた。実際、ナボトという人はアハブ王に頼まれても、嗣業の土地を売らなかった。ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。
ところが、信徒たちはみんなに分配するために手放した。なぜこんなことをしたのだろうか?ヘブライ11:13-16。彼らは天の故郷を知ったので、地上の土地を手放すことに躊躇しなかったのだ。
でも、土地や家を売ってしまうなんて、あまりにも向こう見ずで、無計画だと思われる人もいるかもしれない。売ってしまうよりも「持っていた方がもっと有効利用できたのではないか」と。「せっかくの不動産がもったいない」人間的に考えるとそう考える。彼らは間違いなくただの向こう見ずでそうしたのではなく、主から示された知恵によってそうしたと信じる。なぜなら、紀元70年のエルサレム陥落によって、土地どころではなくなったからだ。そのことはイエス様から予告されていた。その御言葉を信じて、土地を換金できたのだから、彼らの選択は賢かったと言える。御言葉を信じる者が、最も得をすることができる。
最後に36-37節でバルナバのことが紹介されている。バルナバは、慰めの子とか、励ましの子という意味の言葉で、使徒たちから命名された名前だ。使徒たち自身が、バルナバから慰めと励ましを得ていたからだろう。バルナバが唯一の事例として出されているのは、まっさきに進んで畑を売るという模範を示したからだろう。このバルナバは、教会の指導者の一人になっていく。バルナバはあらゆる人を包み込む包容力を持った人物で、使徒パウロを登用したのもマルコを福音書著者として用いられるように育てたのもバルナバだった。そのバルナバについて、最初に知られていることが畑を売って代金をささげたということだ。バルナバの最初の一歩は、金銭欲に対する勝利して、教会に対する愛を表したものだった。バルナバのように信仰の模範を示して、人々に慰めと励ましを与える者となろう。
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