アモスは職業預言者ではなく、牧者であり、南ユダに住んでいましたが、アウェーである北イスラエルに行って預言するように召されます。そればかりか、諸国民に対する審判の預言をします。
主はシオンからほえたける[アモス1章]
【ノート】
1節。アモスのプロフィールだ。アモスとは、ヘブライ語の動詞、アーマスに由来する名前で、重荷を負う者という意味だ。アモスが負っていた重荷は何か。重荷とは、もし罪を指すのでなければ、主から与えられる召命であり、果たすべきことを行うにあたって強い衝動をもたらすものだ。アモスの重荷は預言をすることだった。それはアモスの心に特別な重荷がなければ実行されないはずのことだった。
まず、アモスは職業預言者ではない。神殿や王宮に所属して、給料をもらって働く預言者ではない。アモスは牧者であり、いちじく桑を栽培する者だった。牧者、言い換えれば羊飼いというのは、最下層に位置する人々だ。アモスの職業からは、アモスが預言をする必然性は全くない。アモスはお金をもらって預言をしたのではない。アモスはただ主が語られるので、預言せずにはいられなくなったのだ。あなたは牧師や伝道者ではないかもしれない。それどころか神学生でもないかもしれない。会社勤めをしているかもしれないし、専業主婦かもしれないし、学生かもしれない。それらのバックグラウンドからは、あなたが御言葉を語ることを示唆するものは何もない。しかし、あなたがイエス・キリストを信じているなら、あなたの内には、預言の霊である聖霊様がおられる。ヨハネ16:13。聖霊様があなたの内で語れる。そのとき、あなたは自分がどういう職業、どういう立場の者であれば、アモスのように御言葉を語らずにはいられなくなる。
次に、アモスはアウェーに行かなければならなかった。アモスの出身地はテコアだ。テコアは南ユダ王国に属する村であり、エルサレムを南に17kmいったところにある高地の寒村だ。対してアモスが主に活動した場所は、「イスラエルについて示されたものである」と書いてあるとおり、北イスラエル王国だ。北イスラエルは南ユダと元々一つの国だったが、今や政権が分かれて久しく、南ユダの人が行っても歓迎されない状況だった。それでも、アモスは主が彼らに語られるので、預言せずにはいられなくなったのだ。あなたは教会にいれば、いつもの信仰の仲間に囲まれて心地よいかもしれない。しかし、いつまでも内輪の集まりだけで信仰を保つことは御心ではない。あなたは出ていって、未信者に囲まれたアウェーの場所で福音を語らなければならない。使徒1:8。最初はエルサ
レムにいても良いが、最終的には地の果てを目指して出ていくのだ。マタイ28:18-20。行って、すべての民を弟子にするのだ。心地よい場所から出て、アウェーで主の御言葉を語る者になろう。
では、なぜアモスが預言の働きに用いられたのだろうか?「牧者の一人」と書いてある通り、牧者ならアモスだけでない。その理由をテコアという地名とアモス書の内容から推測することができる。テコアは知恵で知られる場所だ。サムエル下14:2。どうしてヨアブは使いをテコアに送ったのか?テコアに行けば、知恵深い女性を見つけることができると知っていたからだ。テコアにはそれだけ知恵のある人物がいることが知られていた。アモスはその知恵で知られるテコアの出身だった。また、アモスは、国際情勢をよく理解していなければ書けない内容を書いている。また、知恵文学の影響を受けたと思われる預言を語っている部分もある。アモスは牧者でありながら、テコアで聖書やその他の文物を通して知恵と知識を身につけていたのだ。その人の背景にかかわらず、知恵と知識を身に付けた人が主の貴い働きに用いられる。どうすれば知恵と知識を身につけられるか。コロサイ2:2-3。すべて、キリストの内に隠れている。隠れているなら、探して、見つけることが必要だ。聖書を研究して、キリストの福音を悟ろう。キリストがどういう方で、何を教え、何を成し遂げられたかを悟ろう。そうすれば、あなたはアモスのように御言葉を語る上で用いられるようになる。
アモスはいつごろ活動したのか?「ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前」と書いてある。この地震は考古学者者による紀元前760年頃に起きたとされている。そのころにアモスは活動した。そのころの北イスラエル王国はどんな状況だったのか?ヨアシュの子ヤロブアムはイエフ王朝の4代目の王だ。北イスラエル王国の建国者と同じ名前だが別人のヤロブアムⅡ世だ。列王記は善い王のモデルをダビデとし、悪い王のモデルをヤロブアムとした。聖書的な観点から見れば、悪名高い名前だ。しかし、ヤロブアムⅠ世は建国者なので、世俗的には有能な人物として尊敬される存在でもあった。ヤロブアムⅡ世はその名と性質を継いで、有能な人物だった。彼の時代に北イスラエル王国は栄えた。ヤロブアムⅡ世が敵国のアラムに勝利して領土を奪回したのは、預言者ヨナの預言の通りだった。国は領土拡大政策によって発展し、建設事業がどんどん進められていった。しかし、一部の富裕層が利益を追求して不正を行い、贅沢な生活をしたが、貧困層はその恩恵を受けることなく苦しみあえいだ。それは主の御目に悪とみられた。主の計らいによって勝利を得て豊かになったのに、北イスラエルは高ぶってしまったのだ。ああ、私たちが成功し、出世して豊かになったら、決して高ぶってはならない。勝利を与えてくださった主に感謝と賛美をささげて、与えられた豊かさを主が喜ばれる方法で用いなければならない。
地震のころにアモスは活動した。アモスの預言のいくらかも、その地震を通して実現したに違いない。イケイケで進められていた建設事業計画が破綻したに違いない。地震が起こると、すべてのものが揺り動かされてしまう。道路は寸断される。ライフラインは止まる。上下水道は機能しなくなり、電気もガスも来なくなる。学校は休みになり、ビジネスは中断される。家屋は倒れる。偶像も倒れる。ずっと続いていくはずだった日常が一変し、非常事態が日常のようになっていく。そういうときにでも、私たちが希望を置くことができるものは何か?そうやってすべてが揺り動かされ、頼りにしていたものが根こそぎにされるときこそ、決して揺り動かされることのない御国を受け継ぐことの必要性が認識される。ヘブライ12:28。揺り動かされない御国の希望を保つ者となろう。
2節。主はほえたける。ライオンがほえるように御言葉を語られる。ライオンがほえるのを聞いたことがあるか?普通、動物園でもなかなか聞けるものではない。ライオンは寝ていることが多い。しかし、私は幸いなことに、挑発したわけでもないのに、雄のライオンが私の方を正面に見て、吠えたけるのを聞いたことがある。吠えたける声は大きて遠くまで聞こえるし、物凄い迫力であり、空気はビリビリと振動する。もし、ライオンの自分たちを隔てるものがなければ、生きた心地がしないほど、恐れてしまったことだろう。ライオンがほえるとは本来そのようなものだ。主はそのように御言葉を語られる。主が私たちに語られるのに、平気でいられるわけがない。馬鹿にしたり、無視したりすることは絶対にできない。そこには半端ない威力がある。羊飼いは羊の群れのために最高の牧草地を見つけるが、その牧草地が枯れはてて羊はすべて命を失ってしまう。地中海にのぞむイスラエルの中でも最も美しいカルメルの山の頂でさえ枯れてしまう。それは、イエス様がいちじくの木を呪うと枯れてしまったのに似ている。御言葉には威力がある。生かすことも滅ぼすこともできる。御言葉を、ほえたけるものとして聞く者となろう。そうすれば、私たちは飛び上がって聞き従わざるをえなくなる。
では、主はどこからほえたけるのか?シオンとは、エルサレムのある丘のことだ。ということは、シオンもエルサレムも同じ場所のことを指している。なぜエルサレムなのか?そこに主の神殿があるからだ。神殿にこそ、主は最も力強く臨在される。
主は諸国民や北イスラエルに対して語られるときすら、エルサレムの神殿から語られた。今でも、主はどこの誰に向けて語られるときにも、神殿に臨在して語られる。今、エルサレムには神殿がない。では、今主がほえたけるように御言葉を語られる神殿はどこなのか?クリスチャンだ。今やクリスチャンこそが神殿であり、主はクリスチャンに内住して語られる。Ⅰコリント3:16。私の内から主がほえたける。まず私たちは聖霊様に満たされて主が語られるのを自分で聞く。それを聞くと、人々に語らざるをえなくなる。特に、まだ主を知らない人々に語らざるをえなくなる。先ほど、御言葉には滅ぼす威力があると言ったが、クリスチャンはすべての罪が赦されているので、滅びの対象ではない。私たちは枯れはててしまうことがない。滅びの対象は、キリストの十字架の贖いを受けていない人たちだ。その人たちが滅びてしまうことがないように、主の裁きが迫っていること、悔い改めてイエス・キリストを信じるように福音を宣べ伝える者となろう。キリストが私を愛して、私の罪のために十字架で死なれ、三日目に復活されたことを信じ、その方を自分の主として受け入れるなら、誰でも、すべての罪が赦されて、永遠の命を得ることができる。主は私たちを通して、そのことをほえたけるように語られる。
3-15節。諸国民に対する審判がなされている。そして、審判は規則的に宣言されている。神は無秩序の神ではなく、秩序正しく、ご計画を遂行なさるお方だ。三つの罪、四つの罪とは、その回数だけしか罪を犯していないということではなく、度重なる罪という意味。主は、それらの罪ゆえに「決して赦さない」と決意されている。この箇所から大きく4つのポイントを取り上げる。
第一に、善悪は普遍的なものだ。この箇所では、国々が犯した罪が裁かれている。これらの国々は、主なる神様を神とせず、十戒をはじめとするモーセの律法を待たない国々だ。にもかかわらず、主なる神様によって、罪が裁かれている。主なる神様はただイスラエルの神だけでなく、天地万物をお造りになった創造主なる神様であり、万物の支配者だからだ。ノアの時代の洪水の後、神様は道徳的な掟を全人類に与えた。創世記9:5-6。これはイスラエルが存在する前のことだ。神は特定の民族だけに掟を与えるのではなく、全人類に対して掟を与えるお方だ。確かに、国によって法律は違う。文化は違う。価値観は違う。しかし、どの国のどの人も、本当は、神がお定めになっている善と悪の基準が存在するという直感的に知っている。その良心に、不完全ながらもモーセの律法と似た道徳的な感覚が与えられているのだ。ローマ2:14-16。善悪は普遍的なものであり、罪はどの国のどの人が犯しても罪、善はどの国のどの人がしても善だ。私たちに与えられている聖書の掟は、一部の人たちだけにしか通用しないものではない。ある人達にとっては罪だが、ある人達にとっては罪にあたらないような相対的なものではない。聖書の掟は全人類に適用される絶対的なものだ。アーメン。
第二に、神の民を攻撃する罪について問われている。1章で裁かれている罪をよく見ると、全部イスラエルを攻撃した罪が問われているとわかる。3節では、アラムの首都のダマスコは「ギレアドを踏みにじった」罪に問われている。ギレアドはイスラエルの領土だ。6節では、ペリシテ人の首都のガザが「とりこにした者をすべてエドムに引き渡した」とある。これは、国境沿いのユダヤ人の村々の住民をとらえて、奴隷としてエドムに売った罪に問われている。9節では、ティルスもガザと同様の罪にとわれている。11節では、エドムが兄弟であるイスラエル人に対して怒りを燃やし続けて剣で追いかけた罪に問われている。13節では、アンモンがギレアドの妊婦を引き裂いた罪に問われている。
神は、全世界の神だが、特に御自分の民に注目しておられる。御自分の民を攻撃する者があれば、その罪を問い質される。サウロがクリスチャンを迫害しようとダマスコに行ったとき、光の中で御声を聞いた。その時に主はどんなことを言われたか。使徒9:4-5。イエス様はクリスチャンを迫害することを、御自分を迫害することだと言っておられる。クリスチャンに対してすることは、キリストにすることに等しいのだ。主が私たちのことを覚え、御自分のことと見なしてくださっている。不義がそのままにされず、すべては主の正義の審判を受けることになる。私たちはこのことについて安心し、信頼してゆだねよう。
第三に、全世界が裁きに服している。2章の始めにはモアブが出てくるが、モアブも入れれば、イスラエルの周辺のすべての国が裁きの対象になっていることがわかる。「この国には罪がない」という国が一つもないのだ。例外なき裁き、全世界的裁きだ。そのことは新約聖書にも書いてある。ローマ3:19-20。全世界に有罪宣告がなされている。このことによって、何が明らかになるか?キリストによる救いの必要性が明らかになる。信仰による義の必要性が明らかになる。ガラテヤ3:22。私たちは皆、キリストなしには何の希望もない。人類は皆、罪の支配下に閉じ込められて裁きを待っている罪人の群れに過ぎない。どの国のどの人もキリストが必要だ。まじめで勤勉だと言われている日本人にもキリストが必要だ。日本人の国民性は一見親切だが、冷たい無関心がある。自分だけよければそれでよいという風潮がある。嘘やごまかしがまかり通っているところがある。高慢で世的で閉鎖的で陰湿なところがある。日本人も皆例外なく有罪である。キリストによって罪から救いが必要だ。このことを信じ、宣べ伝えよう。
第四に、すべての裁きの預言が成就している。ダマスコは預言の約30年後にアッシリア帝国の捕囚となり、ガザもアッシリアによって滅ぼされた。エドムは南ユダの王アマツヤからの攻撃によって大打撃を受けた。ティルスはアレクサンドロス大王の東方遠征で完全に滅亡した。アンモンはアッシリアのセンナケリブに敗北し、バビロンのネブカドネツァル王にも敗北した。全部が成就した。主の裁きは、ただのこけ脅しではないのだ。主が御言葉を持って警告することは、実現する恐れがあるから警告するのだと心得なければならない。ハデスは毎日大勢の人を飲み込んでいる。永遠の火の地獄による刑罰も必ず実現する。クリスチャンも、御言葉を侮って聞き従わないならば、祝福されなくなることがある。携挙の時に取り残されて患難期を迎えなければならない人もいる。すべては主が語られた通りに実現する。だから、御言葉による警告を心に留めて、私たちは目覚めていよう。福音の真理に堅く立ち、敬虔に生きる者となろう。
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