使徒たちは聖霊様に満たされ、イエス様の権威によって、ユダヤ人の最高権力者たちの前で大胆にふるまいました。
救われるべき名はほかに与えられていない[使徒4:1-22]
【ノート】
1-4節。ペトロとヨハネは、生まれつき足の不自由な人を癒し、立ち上がらせ、福音を宣べ伝え、男だけで5千人もの人々が信じて救われた。すばらしいことが起こった。神様の御業が起こった。これは誰もが飛び跳ねて喜び、歓迎し、賛美すべきことだ。また、これらのことに用いられたペトロとヨハネのことを喜び、称賛するのが普通だ。しかし、ペトロとヨハネはあろうことか牢に入れられてしまった。私たちはこういうことを覚悟しなければならない。神の御業が起きると、対抗して悪魔の妨害も激しくなる。それで、リバイバルが起きるとき、反対も起こる。
どういう人々が悪魔の側に立って用いられるのか?1節によると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々と書いてある。祭司も、神殿守衛長も皆、サドカイ派に属している。サドカイ派は、宗教指導者でありながら、復活、霊、天使を信じておらず、お金持ちで世俗的な人々だ。つまり、形ばかりで中身も力もない、死んだような宗教を信じている人々だ。彼らはローマに擦り寄り、そのときの体制で甘い汁を吸っていた。彼らの願いは、その体制が続くことだった。彼らは二つの点でペトロとヨハネに怒りを燃やした。まず、彼らがイエス様の復活を宣べ伝えたことだ。自分たちが信じていない復活が事実起こったとするのは都合が悪いので、彼らを黙らせたかった。次に、ペトロとヨハネは多くの人々に影響を与える新しい運動を繰り広げていた。サドカイ派としては、現体制がいつまでも続くことを願うので、ローマを刺激しそうな新しい運動が盛り上がるのは、何としても阻止したかった。それで、サドカイ派の人々はペトロとヨハネに反対したのだ。彼らは自分の利益を守るために真理に聞き従おうとせず、他の人々が真理を聞く機会をも奪おうとしたのだ。悪魔の側に立ってリバイバルを阻止しようとする人々の特徴がよくわかる。自分の立場、自分の利益、自分の神学、自分の伝統に固執して、変化を拒む。現状維持を望む。新しい教えや新しい運動を一切受け入れようとしない。そうではなく、私たちは、聖書が何と言っているか、神様は何と語っておられるかに焦点をあてよう。神様は新しいことをなさるお方だ。神様が新しいことをなさるときには、反対して邪魔するのではなく、賛成する側になろう。むしろ真っ先に神様がなさることに用いられる者になろう。
5-7節。ペトロとヨハネはサンヘドリンというユダヤ人の最高裁判所で尋問されている。新共同訳聖書では最高法院と訳されている。まさにこのサンヘドリンがイエス様を死に定めた。議会は71人で構成されていて、大祭司が議長。サドカイ派やファリサイ派の人々が議員としている。長老と書いてあるのは、世間で尊敬されていた人で、律法学者はファリサイ派の人々の中で特に律法に精通していた人だ。全員がユダヤ人の中で最高の権威を持つ人々だ。その人たちが、権威と人数によって使徒たちを威圧している。そして、彼らは7節で、使徒たちを「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。つまり、「我々にまさる権威などあるはずもないのに、我々に許可を得ることもなく神殿で活動するとはどういうことか」ということだ。敵の特徴は、このように、権威と人数を利用して脅して、恐れさせ、委縮させ、黙らせようとすることだ。未信者の方が、たいてい人数が多い。中には誰もが認める立派な肩書を持って人々もいる。サタンがそういう人々を動員して脅しをかけてきたら、どうすればよいのか。
8-13節。議員たちはペトロたちの大胆な態度に驚いた。敵が脅しをかけても、大胆な態度を取ることだ。そして、このように大胆な態度は決して無謀なことではない。私たちが大胆な態度を取るのはある意味当然のことだ。私たちが大胆な態度をとる理由は何か。まず、大胆な態度をとるのは、私たちが最高の教育を受けて、最高の能力を持っているからではない。13節で、議員たちはペトロとヨハネのことを無学な普通の人と見ている。使徒たちは、偏差値の高い大学を出たり、弁論術を身につけていたりしたわけではなかった。そういうことで対抗しようとしたら、サンヘドリンの議員たちには絶対に勝てなかっただろう。まさに彼らは学歴や能力という点で優れていたのでその座を占めることができていたのだ。私たちは敵に対抗する上で、学歴や能力を用いなくてよい。
では、何によって大胆な態度をとることができるのか?それは権威だ。聖霊様とイエス様によって裏付けされた権威だ。8節では「ペトロは聖霊に満たされて言った」と書いてある。聖霊様は私たちを神の子とする霊だ。13節では「イエスと一緒にいた者であることも分かった」と書いてある。イエス様という絶大な権威の後ろ盾があった。サンヘドリンは何の権威によってしたのかを聞いてきた。自分たちの持っている権威に自信があったからだ。サンヘドリンの人々は確かにそれなりの権威を持っていた。しかし、使徒たちがそのとき行使していた権威は、神の子としての権威、イエス様の権威であって、この権威は世のどんな権威にもまさるものだ。このとき、使徒たちはサンヘドリンよりも上の立場にいた。神から権威を与えられて立つとき、それよりも劣る権威によって妨害されたとしても、一切ひるむことなく、大胆にふるまう者となろう。
ペトロは聖霊様に満たされることによって、権威を持って語ることができた。しかし、聖霊様に満たされるために、この時に特別に祈ったということは書いていない。その場で祈っても良いと思う。ペトロの場合は、イエス様がそうだったように、祈りは朝、夜、人が見ていない時にすでにしていただろう。後は聖霊様の導きに従うことによって聖霊様に満たされて歩むことができる。ペトロはまず癒しについて従い、続けてこの場で証しをするということについて従った。聖霊様が何かを示される時には、喜んで従順しよう。従順する者を聖霊様はますます満たし、貴く用いてくださる。
ペトロがここで語った内容を確認しよう。8節では、「民の議員、長老の方々」と呼び掛けている。ペトロはサンヘドリンの権威を決して軽んじてはいないことがわかる。権威が与えられるのは、権威に従う者である。権威は従順する者に与えられる。サンヘドリンは神の子ほどの権威を持っていなかったとはいえ、ユダヤ人の間ではそれなりの権威が神様から与えられていた。だから、その権威を尊重し、敬意を払っている。神が立てたすべての権威を尊重する者となろう。アーメン。
9-12節で、ペトロは生まれつき足の不自由な人が癒されたのは、イエス様の十字架の死と復活によるものとして、旧約聖書の御言葉を引用しつつ、福音を証ししている。つまり、神殿で民衆向けに説教した内容と同じことを指導者たちに対しても語っている。3:17で、ペトロは「あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであった」と語った。今、その無知な指導者たちが目の前にいる。世の教育を受けて世の知識で武装していても無知な指導者たちだ。だから、ペトロは指導者たちにも語るのだ。福音はすべての人に救いをもたらす神の力だ。何人であろうと、教養があろうとなかろうと、お金持ちであろうとなかろうと、私たちに対して好意的であろうとなかろうと、すべての人は罪からの救い主、イエス・キリストを必要としている。ほかの誰によっても救いは得られない。仏教や神道やイスラエル教を信じても救いはない。ただ私たちの罪のために十字架にかけられたイエス・キリストを信じることによってのみ救いは得られる。誰に対しても、イエス・キリストの福音を伝える私たちになろう。
14-18節。議員たちは、使徒たちを簡単にひれ伏させることができると思っていた。しかし、明らかに何者でもないはずの使徒たちが大胆にふるまったのにそれで驚き、どう対処してよいかわからなくなった。また、目の前に足をいやしていただいた人が立っているのを見てはひと言も言い返せなかった。その癒しの御業によって、使徒たちの権威と使徒たちの語ったことが真実だと証明されていた。私たちは、自分が神の子であることについて御言葉以外の証明を必要としない。私たちは、神様が私たちのことを神の子だと言ってくださっているので、神の子だと悟る。それで十分であり、何の証明もいらない。ただし、神の子としての権威には、必然的に証明がついてくる。イエス様は御自分が罪を赦す権威を持っていることを示すために、中風の人を癒された。権威は御業によって証明されることになる。その権威を見るや、反対者はもはや何も言えなくなる。サタンは黙りこくり、迫害者も論破することをあきらめる。神の子としての権威を御業によって証明する者になろう。アーメン。
権威が証明されているので、言い返せないし、否定できないなら、それは真理だ。サンヘドリンは悔い改めて、使徒たちの語ることに信じて従うべきだった。しかし、彼らは変わろうとしなかった。あくまでも自分たちの立場や利益を守るために、使徒たちを脅すことにした。もうこれ以上伝道してはならないと。そこにはもはや権威も正義もない。
ともあれ、権力者たちに囲まれて、使徒たちは伝道しないように脅された。これに対する返答が19-20節。使徒たちは、「私たちはあなたがたに従わず、神に従います」として、人間の最高権力者たちの要求を真っ向から突っぱねている。クリスチャンは、政治家が造った法律に基本的に従う。公権力が言うことには基本的に従う。親や先生や上司の言うことには基本的に従う。人間の権威者の言うことには耳を傾ける。そこにも、神の権威を見出すからだ。しかし、権威者が命じることと神が命じることが対立する場合はどうか?そういう場合、私たちは神に従うために権威者が命じることを拒まなければならない。使徒たちは「神の前に正しいかどうか、考えてください」と言っている。人間の権威者を拒んで、神に従うことが神の前に正しいことだ。特に、「伝道してはならない」ということは、神の前に常に間違っていることであり、従ってはならないことだ。イエス様は宣べ伝えるように命じておられる。すべての造られた者に福音を伝えなさい。すべての民をわたしの弟子にしなさいと命じられている。折が良くても悪くても励みなさいと命じられている。だから、どんなに脅されても、神様へ絶対従順を貫き、人間の権威者の命令を拒む者になろう。神のみを恐れ、人を恐れない者になろう。
使徒たちがどうしても伝道をやめようとしなかった要因の一つは「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」というものだ。使徒たちはイエス・キリストの福音の恵みを体験していた。私たちが語る福音は、仮説ではないし、意見ではないし、おとぎ話でもない。私たちが語るのは、私たちが知り、体験したイエス・キリストの福音だ。これによって私は罪から解放され、自由になった。人生の目的が与えられ、生きる力が与えられた。神の愛を聖霊様によって注がれるようになった。毎日、神様と交わりを持つようになった。私たちは知っているものを語る。福音が事実であり、救いをもたらすことを知っている。自分で体験して知っているので、語らずにはいられない。福音の力を体験し、力強く証しする者になろう。
神への絶対服従を貫くと敵はどうなるか。21節。敵は何もできない。むしろ、恐れて、どうすればよいかわからなくなる。混乱する。神に服従し、サタンをおどおどさせよう。
22節。40歳を過ぎてから、この人は人生の再スタートを切った。それは遅すぎることではなかった。人生はキリストにあっていつでも再スタートを切れる。
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