すべてに決着をつけるために、パウロは最後に警告を与え、主にあって大きな希望をかかげ、祝福をしました。
あなたがたが完全な者になることをも祈っています[Ⅱコリント13章]
【ノート】
1節。すべてのことは証人を立てて確定させる。パウロは、すべてのことについて完全決着をつけようとしている。すべてのことについて証人を立てれば、言った言わないの問題にはならない。誤解したり、後からひっくり返されてしまったり余地がなくすことができる。あなたは、自分や自分の隣人が抱えている深刻な問題について、長い間決着をつけていないことはないか。取り組んではみたけどすぐに解決しなかったので、いつまでもなあなあにしてしまっていることはないか。もしそういうことがあれば、パウロに倣って完全決着をつけるべく、周りの人の協力を仰いで、証人になってもらい、すべてを確定させよう。
それにしても、これは裁判のようではないか?その通りだ。コリントの信徒たちは第一の手紙で、教会内部の問題を解決する能力がなかったので、未信者の裁判官に裁判したことがあった。その点についてパウロはこう書いている。Ⅰコリント6:5。知恵ある者が一人もいなかったのかもしれない。そこで、パウロが仲裁する者として役をするしかない。私たちも、もし紛争解決のための仲裁者がほかにいない時は、自分がその役を買って出る者になろう。主がそのための知恵をあたえてくださる。
それでは、どこまでも神が立てた権威に逆らい続ける人々に対しては、どのような態度を取ればよいのだろうか。2-4節。まず、パウロは警告をした。警告はすでに前回の滞在中になされていて、この箇所で二度目だ。つまり、コリントの信徒には悔い改めの機会が二度も与えられたということ。何の事前の警告もなしにいきなり罰を与えるのは良くない。それは最終手段でなければならない。これは神様の方法と一致している。神様は何の警告もなしにいきなり罰を与えるのではなく、悔い改めの機会を与えてくださる方だ。
次に、キリストがパウロを通して語っておられる証拠の要求を悪とみなした。そして、追加の証拠は与えない。証拠はすでに、10章から12章に渡って与えられてきた。もう証拠は十分だ。パウロに証拠が求められているのではなく、コリントの信徒たちの方に従順が求められていた。再三にわたって証拠を求めるのは悪いことである。ファリサイ派の人々がイエス様を試して、天からのしるしを見せてほしいと願ったとき、イエス様は深く嘆かれた。そして、「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われた。イエス様はそのときすでにたくさんのしるしを行っておられたが、それでもファリサイ派の人々は不服とみなしてさらなる天からのしるし、誰の目にも明らかなしるしを見せるように要求した。もうしるしは与えられているのに、しるしを求めることは、イエス様を嘆かせる。その背後には根強い不信仰と不従順がある。私たちはすでに与えられているしるしで満足し、御言葉で信じる者になろう。
聖書には、神を試みてはならないと書いてある。イエス様は神なので、イエス様を試みることもやはり神を試みることだ。コリントの信徒たちはキリストがパウロを通して語っておられる証拠を求めた。これは結局のところ神であるキリストを試みる罪を犯しているということだ。すべての罪を赦してくださるキリストだからということで侮っているのかもしれない。キリストのイメージは弱さの象徴である十字架なので、キリストを侮っても大したことはないだろうと高をくくっているのかもしれない。それは危険なことだ。キリストは教会の中で強い。その力はキリストの僕を通して働く。ペトロの宣言によってアナニアとサッピラは即死した。キリストやキリストの僕を絶対に侮ってはならない。キリストは強い。キリストの僕も同じように強い。その権威には勝てない。キリストとキリストの僕を恐れて服従する者になろう。
5-6節。「自分を反省し、自分を吟味しなさい」と書いてある。コリントの信徒たちの一部はパウロ批判をやめなかった。批判が多いのはなぜだろうか?信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味していないからだ。もし、真剣に自分を反省し、自分を吟味するなら、自分に多くの罪、咎、過ちを見出すことができるだろう。他人のことを批判する資格はないということに気づく。他人批判を控えるようになる。
では、なぜそのように多くの罪、咎、過ちを犯しておきながら、気づかずに他人批判を繰り返すほど鈍くなってしまったのか。自分自身のことが分からないからだ。クリスチャンの反省と吟味は、自己嫌悪で終わることはない。確かに、へりくだらせられるが、私たちが御言葉に基づいて自分を吟味するならば、罪を見出すだけでなく、自分が何者であるかということに立ち帰ることにもなる。自分が神の子であり、イエス・キリスト御自身が内に住んでおられることを自覚する。クリスチャンであれば、誰でも、神の子であり、イエス・キリストが内に住んでおられる。一部のコリントの信徒たちのように、堕落していても、やはり神の子であり、イエス・キリストが内に住んでおられる。本人が自覚していようがいまいが、イエス・キリストは内におられる。しかし、自覚していないと、その通りに歩めない。自分が神の子であり、イエス・キリストが内におられると悟る人が、そういう者として歩めるようになる。他人批判が多い方はいるか?それであれば、信仰を持って生きているか自分を反省し、自分を吟味し、自分の内にイエス・キリストがおられることを悟ろう。そうすれば、他人批判をやめ、罪を避けて生きれるようになる。
ただし、「失格者」の場合はイエス・キリストが内におられないという。失格者とはどういう人のことか?これは拒絶される者、偽者、証明されていない者といった意味の言葉が使われている。本物のクリスチャンではない人のことだ。この人々は、天国に入ろうとしても、イエス様から「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ」と言われて拒絶されてしまう。なぜ拒絶されてしまうのか?信仰を持っていないからだ。5節では「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と言われている。信仰によって生きているかが問われている。その信仰がそもそもないのが失格者だ。失格者は、イエス様を自分の罪からの救い主として信じて受け入れていないか、信仰を完全に捨ててしまったか、さもなければ異端者だ。キリストの贖いや復活を否定したり、「罪はいくらでも犯してよい」と言った異端の教えを持っていたりする。
こういうことを聞くと、「自分は失格者なのではないか」と心配になる人がいるかもしれない。イエス様を信じていて、異端の教えを持っていなければあなたは失格者ではない。救いの確信がなければ、御言葉に何と書いてあるかに目をとめよう。ヨハネ1:12。ヨハネ3:16。そして、信仰によって生きる者として歩もう。ローマ1:17。あなたは適格者だ。そして、他の人のことを失格者と決めつけるのはやめよう。聖書では、明らかな異端者や悪魔についている人物以外を失格者だと言うことはない。6節によると、パウロたちは、コリントの信徒たちから失格者だと疑われていたようだ。ひどい嫌疑をかけられたものだ。にもかかわらず、パウロは、様々な問題を抱えていたコリントの信徒たちに向けて初めて「失格者」という言葉を使っている。しかも、失格者と決めつけているのではなく、ただ可能性として挙げているだけだ。パウロは問題だらけの教会であっても、キリストに結ばれていて、希望があると見ていた。私たちも人に対して希望を持ってみるようにしよう。
主にあっていつも希望がある。7節。パウロは自分がどう思われようとも、コリントの信徒たちのことは失格者どころか、どんな悪を行わず、善を行う者となるように祈った。全然悪を行わず、善ばかりを行う模範的にクリスチャンになることを願ったのだ。コリントの信徒たちのその時の状態からはかけ離れたことだが、何でもおできになる主に祈るとき、そのいう希望を持って祈れる。頑なな人間を見れば希望を持てないが、いつも主を見上げていれば、どんな大きな希望をも持つことができる。
8節。これは私たちがよく心にとめるべき御言葉だ。真理に逆らっては何もできない。でも、真理のためなら何でもできる。真理とは何か?イエス様は真理だ。聖霊様は真理の御霊だ。御言葉は真理だ。福音は真理の言葉だ。真理が赤信号を出せば止まるし、ゴーサインを出せば進む。私の感情や思いによらず、真理こそが私の基準だ。一緒にこの御言葉を宣言しよう。
9節。「自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。」これは親心だ。子供のことは自分のこと以上に喜ばしい。霊的な子に対してこういう心を持つようにしよう。そして、パウロはさらに大きなことを願った。コリントの信徒たちが立派なクリスチャンになることを願うどころか、完全な者になることをも願った。完全な者とは罪を犯さず、愛に満ちた者のことだ。罪の習慣を持たないとか、問題視される大きな罪を犯さないということではなく、心に至るまで聖くて罪を犯さない状態を指す。聖書は、そういう状態になることを約束していて、すべての信仰者がそうなるように召されている。Ⅰヨハネ3:9。「罪を犯すことができません」と書いてある。罪の習慣がないということだというのは、御言葉に付け加えることだ。しかも、これは「神から生まれた人は皆」ということから、すべてのクリスチャンがこの状態になるように召されていることがわかる。パウロはそれをコリントの信徒たちのために願った。問題だらけのコリントの信徒たちのために願った。ということは、誰であっても、この約束が自分に実現することを願うのは、行き過ぎたことではない。すべては恵みにより信仰によって与えられるものだ。罪を犯さない完全な者になることを祈ろう。
10節。パウロはここまでものすごく厳しい表現を多用した。それを読んだコリントの信徒たちがパウロの意図を誤解しないように、厳しいことを書いた真意を改めて伝える。パウロの持っている権威はあくまでも造り上げるための権威だ。厳しいことを書いたのは、第一に、コリントの信徒たちが非を悟って成長するためだ。第二に、訪問の時に厳しい態度を取らなくてもよいようにするため、和やかな愛の交わりができるようにするためだ。いずれにせよ、益となるものとして書かれている。傷つけたり攻撃したり脅迫したりすることを目的としたものではない。誤解してはならない。真意を理解しよう。教会のメッセージや個人的な指導での厳しい戒めの言葉を聞いてつまずいたことはあるだろうか?憎まれているのだと思ったり、反発したり、逃げ出したくなったりしたことはあるか?厳しい戒めが語られる真意を理解しよう。それは私たちの益のためだ。
最後に、いくつもの勧めが矢継ぎ早になされている。11節。「愛と平和の神があなたがた共にいてくださいます」とある。神はいつも個々のクリスチャンと共におられ、教会の交わりでも臨在しておられる。その上で、神は御自分の臨在を力強く現されるときとそうでない時がある。ここには個々人の生活と教会の交わりの中で神の臨在が力強く現れる秘訣が教えられている。この通りにすれば、リバイバルはすぐだということ。
まずは個々人の生活で二つの勧めがなされている。「喜びなさい」と勧められている。どんな状況でも常に喜ぶことができるのは、イエス様が言われた通り、命の書に自分の名前が記されていること、つまり、救われている事実だ。罪から救われていて、永遠の命が与えられていることを喜び、感謝しよう。この喜びと感謝が信仰生活を健康的で充実したすばらしいものにする。私たちが重荷を負って苦しそうにしているのは御心ではない。救いを喜び、感謝しよう。次に「完全な者になりなさい」だ。これは先に挙げた通り、罪を犯さず、愛に満ちた者になるということだ。そうなれるから、なりなさいと勧められている。信仰によって完全になろう。
次に教会の交わりについて三つの勧めがなされている。「励まし合いなさい」。駄目だしをしたり、裁いたりするのではなく、御言葉に基づいて信仰と希望と愛の言葉を語ろう。あなたはできる。あなたの望みは叶う。あなたは神様に愛されている。「思いを一つにしなさい」。会議を開いて、みんなが納得する意見が出るまで話し合うということではない。いつまで経っても一致しないかもしれないし、話し合って一致した意見が御心に適うとは限らない。一人一人が自己中心を捨てて、聖霊様に満たされるようにしよう。そうすれば、同じ聖霊様が与えられているので、同じ思いになることができる。 「平和を保ちなさい」。互いを赦し、愛し、祝福し、何のわだかまりもない状態になることだ。一人一人が成長すれば、決して難しいことではない。これらが実現するとき、教会に主の著しい臨在が与えられ、リバイバルが起こる。私たちと私たちの教会がそうなるように祝福する。
12節。聖なる口づけによる挨拶は、第一の手紙の終わりにも書いてある。これは神の愛で互いに結ばれていることを表すしるしとして兄弟姉妹の間で行われていた美しい習慣だっただろう。教会の交わりが親密なものとなるために、このような習慣は助けになる。似たような良い習慣として、教会によっては、礼拝の中で、集会場を歩きながらいろいろな人に握手をする時間を持つところもある。マナ教会では、「ハレルヤ」、とか「GOD Bless you」という挨拶が笑顔でよくなされている。祝福の挨拶をすれば、それだけで、教会の交わりに喜びが加えられ、麗しいものになる。積極的に祝福の挨拶、聖なる挨拶をしよう。そして、「すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです」とパウロは言う。キリストにあって、すべての教会が一つであり、全クリスチャンが一つなのだ。これは当たり前のことであるはずだ。裁くこと、批判することをただちにやめて、信仰で一致する者となろう。
13節。祝祷がなされている。三位一体のそれぞれの位格がどんな祝福を教会にもたらすのかを教えている。それぞれの位格はその祝福の源としての役割を果たしてくださるのであって、実際はすべての祝福に三位一体のすべての位格が関わっておられる。主イエス・キリストは恵みだ。恵みとは、神様から一方的に与えられる愛のご好意であって、資格のない者にも与えられるものであり、自分では決して造り出せない力だ。キリストを通して恵みがあなたに注がれる。父なる神様は愛だ。キリストを与えてくださったこと、また、すべて良いものを惜しまず与えてくださることによってその愛が示されている。聖霊様は交わりだ。聖霊様は私たちに内に永遠に住まわれている。聖霊様以外、私の体に私の霊と共に同居しておられる方はいない。これはほかのどんな関係の中にも見出せない、最も親密な交わりの形だ。聖霊様を通して私たちは神様と親密な交わりを持つ。恵み、愛、交わり。私たちがこれらの祝福さえ受ければ、十分であり、幸せだ。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように。
【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。
Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。
Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita
Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ
Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita
コメント